ダンジョンの空
通路の向こうから吹いてくる風に、草の匂いが混じっていた。
大河は顔を上げ、前を歩く藤堂の肩越しに奥を見た。岩肌の続く道が、先の方だけ白く明るい。照明を向けた時とは違う光が、足元まで届いている。
「……もう、出口ですか?」
「下層へのな。少し眩しいから、足元を見て出てくれ」
藤堂の声を聞きながら、大河は剣を握り直した。
出発して三日目だった。上層を抜け、中層の安全エリアで二度、夜を越した。六人で動く位置にも慣れ、隣に悠真がいることを確かめるために、何度も振り向く必要はなくなっている。
それでも、明るい場所へ近づくにつれて、足が速くなりそうだった。
「大河、前に詰めすぎ」
「……分かってる。今、ちょっと見たくなっただけ」
「俺も見たいけどな」
悠真も通路の奥を見ていた。光の中へ先に出た藤堂が周囲を確かめ、こちらへ手を上げる。
大河は最後の数歩を進んだ。
頭の上から、岩がなくなった。
青い空があった。
白い雲が、ゆっくり流れている。目の前には草原が広がり、風に撫でられた草が、遠くまで色を変えながら揺れていた。低い丘の向こうには森があり、そのさらに奥には、青く霞んだ山が見える。
大河は口を開いたまま、しばらく動けなかった。
頬へ風が当たる。日の光が眩しくて目を細めると、足元には、自分の影が伸びていた。
「……本当に、空がある」
隣から、悠真の小さな声が聞こえた。
大河は頷いた。知っていたはずなのに、頷く以外の返事がすぐには出なかった。ついさっきまで歩いていた岩の道を振り返り、それからもう一度、空を見上げる。
洞窟の外へ出ただけにしか思えない。
しかし、ここはダンジョンの中だった。
【着いた!】
【下層へようこそ】
【二人とも同じ顔してる】
【これは初めて来たらなるよな】
【カメラ上げてくれ、空見たい】
少し遅れてコメントに気づき、大河はドローンを自分たちより高い位置へ移した。画面の中でも、草原の向こうまで景色が開ける。
「……これ、ずっと配信で見てたんですよ。自分で来ると、こんなに広いんですね。あそこの森まで、普通に歩いていくんだ」
【そうだぞ】
【画面だと距離分かりにくいからな】
【ついに見る側から来る側になった】
【嬉しそうで何より】
「嬉しいです。ちょっと、今はうまく喋れないですけど。……すごいな、本当に」
大河は笑い、また草原へ目を向けた。
強い魔物と戦いたかった。新しいスキルも欲しかった。探索を続けてきた理由はいくつもある。
その中に、こういう場所へ来たいと思っていた自分も、確かにいた。
「しばらく立って見ててもいいぞ。俺も初めて来た時は、似たようなもんだったから」
藤堂に言われ、大河は顔を向けた。
「藤堂さんもですか?」
「おう。空ばっかり見てて、先輩に足元も見ろって言われた」
「亮介、それ、さっき自分で言ってたじゃん」
後ろから声をかけたのは、土の魔法を使う篠原沙耶だった。肩までの髪を後ろでまとめた女性で、杖を持っていない方の手を、眩しそうに額へかざしている。
「言われた方は覚えてるからな。役に立つ忠告だったよ」
藤堂が答えると、篠原は笑った。
*
洞窟を出た場所は、草原を見下ろす岩場になっていた。
周囲を確かめてから、大河たちはいったん足を止めた。装備を直す者も、水を飲む者もいる。大河は腰のベルトを締め直しながら、これから歩く道を目で追った。
藤堂の班には、以前見せてもらった映像と同じ三人がいた。
盾を使う石橋剛。弓を使う小野寺航。そして、魔法担当の篠原沙耶。三人ともCランクで、出発前に紹介された時には、大河と悠真の方が揃って頭を下げた。
二日間、一緒に歩いてみると、話しづらい相手ではなかった。
石橋は休憩のたびに肩を大きく回し、小野寺は食事にかける調味料を何種類も持ってきていた。篠原には、初日の夕食で、二人とも食べるのが速いと言われた。
戦闘になると、その三人の声が短く、よく通った。
誰かが攻撃する前に、必要な場所が空く。後ろから声がかかれば、前にいる藤堂は振り返らずに動く。映像で見た時より、その意味が少しずつ分かるようになっていた。
「ここからは、俺が先に見る。二人はさっき決めた位置で頼むよ」
小野寺が岩場の端へ移り、草原を見渡した。大河もそちらへ近づきかけたが、邪魔にならない位置で止まる。
「もう、何か見えてますか?」
「今のところ、進む方にはいないな。右の丘の向こうは見えないから、そっちは近づいてから。遠くを見てる間、近いところを頼む」
「はい。分かりました」
大河は自分たちのいる岩場と、そこへ続く草の間を見た。空があるだけで、地上を散歩しているような気持ちになりかけていた。剣を持っている理由まで変わったわけではない。
悠真が横へ並んだ。
「風、結構あるな。さっきから、草の音がずっとしてる」
「ああ。向こうで何か動いても、足音だけじゃ分からないかも」
中層では、通路の奥から響いてくる足音が手がかりになった。ここでは、風が吹くたびに広い範囲が鳴っている。大河は草の揺れ方へ目を向けたが、すぐに全部を見分けられそうにはなかった。
「慣れるまでは、紛らわしいよ。だから、一人で全部見ようとしないでね」
篠原が二人へ声をかけた。
「はい。俺、思ったより遠くばっかり見ちゃってました」
「見たくなる景色だもんね。私も、天気がいい日は気持ちいいと思うし」
篠原はそう言ってから、杖の先を草原へ向けた。
「ただ、向こうもこっちを見つけやすいから。寄ってきたら、ちゃんと仕事しよう」
出発の声がかかり、六人は岩場を下りた。
踏んだ草が、ブーツの下で折れる。
大河はその感触を確かめるように一歩進み、前を行く藤堂との間隔を戻した。
*
最初に気づいたのは、小野寺だった。
「右の丘。三頭いる。こっちを見てるな」
六人の足が止まった。
大河が顔を向けると、草の上へ角が突き出していた。続いて、鹿に似た頭が見える。地上で見たことのある鹿より身体が大きく、頭から伸びる二本の角は、前へ長く尖っていた。
先頭の一頭へ《鑑定》を使う。
【ランスディア】
【レベル:117】
表示を閉じたところで、相手が首を下げた。
「……来ます!」
「見えてる。石橋、正面を頼む。天草君と瀬戸君は左。一頭回ったら、二人で受けてくれ」
「はい!」
鹿が走り始めた。
丘を下り、草を割りながら迫ってくる。大河は剣へ魔力を送り、悠真と一緒に左へ出た。離れていた時には余裕があると思った距離が、見る間に縮まっていく。
速い。
角の先が上下せず、こちらを向いたまま近づいてきた。
【速くね?】
【正面から受けるの怖すぎる】
【三頭とも来てるぞ】
先頭へ、小野寺の矢が飛んだ。
肩へ刺さっても、鹿は止まらなかった。石橋が盾を斜めに構え、身体を沈める。大河が思わずそちらを見たところで、右から藤堂の声が飛んだ。
「自分の方を見ろ!」
二頭目が、先頭の横から抜けてきていた。
「悠真、こっちだ!」
「合わせる!」
大河は全身へ雷を循環させた。淡いオーラの中でスパークが弾け、踏み込んでくる脚がはっきり見える。正面を外すように左へ動くと、鹿も首を振って角を向け直してきた。
大河はその肩へ剣を振った。
魔力刃が毛皮を裂く。手応えはあったが、深く入る前に、鹿の身体がこちらへ曲がってきた。角の一本が、大河の胸元を追う。
「っ、まだ来るか!」
背筋に警告が走る。迫る角を見ながら、大河は左手を前へ出した。
半透明の障壁へ、角がぶつかった。
鋭い音が響き、壁に亀裂が広がる。大河は押し返そうとせず、空いた横へ足を動かした。砕けた障壁の向こうを、角と頭が突き抜けていく。
その脚へ、悠真の槍が入った。
「大河、脚入った!」
「分かった、離れて!」
鹿の前脚が沈む。それでも頭は動き、大河を追って角が振られた。跳び退いた足元を先端が通り、草と土がまとめて跳ね上がる。
肩を斬っただけでは、動きがほとんど落ちなかった。
大河は剣を構え直した。顔には、思わず笑みが浮かんでいた。
「そうだよな。初めて来たんだし、全部うまくはいかないか!」
鹿が、再び角を向ける。
大河はすぐには走らなかった。悠真が槍を戻すのを見て、相手の傷ついた脚へ目を落とす。こちらへ向き直るために、前脚をつき直した。
角が、大河のいた場所を向く。
《縮地》。
踏み込んだ足から、一気に身体が前へ出た。大河は角の外側へ抜け、鹿の横へ入る。目の前に肩が迫ったところで足を止め、身を捻った。
「今度は、こっちだっ!」
厚い魔力刃が、首の横へ深く入った。
鹿の身体が跳ねた。大河は剣を引き抜きながら離れ、蹴り上がる後ろ脚から距離を取る。悠真も穂先を向けたまま下がり、二人で相手を挟む位置へ戻った。
数歩進もうとした鹿の脚が折れた。
草の上へ身体が倒れ、長い角が地面を抉る。大河はその頭が持ち上がらないことを確かめてから、残りの二頭へ顔を向けた。
石橋の盾が、ちょうど一頭の角を外へ流していた。
正面で止める動きではなかった。角が滑る方向へ盾を傾け、自分も足を動かしている。その横から藤堂が入り、首へ剣を振り抜いた。
身体を包む魔力が、日の光の下でも見えた。
一撃だった。
斬られた鹿が横へ崩れる間に、藤堂はもう残る一頭を見ていた。
「沙耶、そっち行く!」
「止めるよ!」
最後の一頭が走ろうとした先で、地面が盛り上がった。
蹄が土へ引っかかり、巨体が前へつんのめる。首を上げたところへ矢が入り、鹿が激しく頭を振った。石橋が盾を構えて前へ出ると、藤堂はその横を通り抜けた。
大河が駆け寄るより先に、剣が喉元へ入っていた。
藤堂はすぐに刃を抜き、相手から離れる。三頭目が草の上へ倒れ、しばらく脚を動かしてから止まった。
「周り、来てない。今ので全部だ」
小野寺の声が聞こえた。
大河は剣を下げきらず、草原を見渡した。丘の上にも、近くの草の間にも、動く魔物は見えない。藤堂から大丈夫だと声がかかり、そこでようやく雷を解いた。
【倒した!】
【縮地からの剣、速すぎた】
【障壁割られた時びびったわ】
【藤堂さんの方も一瞬だったぞ】
【あの盾、角を止めてないんだな】
「……すごいな」
声に出してから、大河は息を吐いた。
自分の相手も強かった。初めの一撃で倒しきれず、角を向けられた時には、胸の前まで届くかと思った。それでも悠真が脚を止めてくれて、次の剣は入れられた。
その間に、藤堂たちは二頭を倒している。
「天草君、怪我は?」
「ないです。障壁は割られましたけど、身体には当たってません。悠真は?」
「俺も大丈夫。槍、ちゃんと抜けたし」
二人の返事を聞き、藤堂は頷いた。
「ならよかった。最初、こっちを見てたな」
「……はい。角が盾へ来るところ、気になって見ちゃいました」
「石橋が受けるって分かってる時は、任せてくれ。見るなら、自分の相手がいない時にな」
「分かりました。次は、そっちに一頭任せたって思うようにします」
藤堂はもう一度頷き、それから大河の倒した鹿へ目を向けた。
「二回目の入り方はよかったよ。角が動いてるところへ、無理に飛び込まなかった」
「ありがとうございます。……最初から、あそこまで入れたらよかったんですけど」
「それは、次に会った時だな」
大河は倒れたランスディアを見た。
長い角には、障壁へぶつかった跡が残っている。しゃがんで近くから見ると、思っていたよりさらに太かった。あれを向けたまま走ってくる身体を、悠真は横から槍で止めてくれたのだ。
「脚、助かった。あのまま追われてたら、もう少し走らされてたと思う」
「こっちも、ちゃんと離れてくれたから抜けたよ。お前が首へ行く前に、槍を持っていかれずに済んだ」
二人で言葉を交わしていると、石橋が近づいてきた。
「角、持って帰るぞ。根元を傷めないように取ってくれ」
「あ、はい。……石橋さん、さっきの受け方、あとで聞いてもいいですか? 正面から来てたのに、あんなに横へ流れると思わなかったんで」
「いいよ。ただ、あれを剣で同じようにやろうとは思うなよ。引っかかったら持っていかれるから」
「はい。それは、さっきの角を見たら分かります」
石橋が笑った。
回収する場所を分け、大河も剣を持ち直す。悠真と一頭分の作業を進める間、小野寺は周囲を見ていた。篠原が時々そちらへ顔を向け、短く言葉を交わしている。
風が吹き、近くの草が大きく揺れた。
大河は一度だけ手を止め、顔を上げた。雲の影が、草原の遠くをゆっくり動いている。
「……いいな、ここ」
隣の悠真がこちらを見た。
「もう気に入ったのかよ。角、結構近かっただろ」
「それは怖かったけど。景色もすごいし、戦ったことない相手もいるし……さっきから、聞きたいことも増えてる」
「昼飯の時までに、少しはまとめとけよ。全員に順番に聞いてたら、食う時間なくなるぞ」
「食べながら聞く。そこは大丈夫」
【いつものTAIGAだ】
【下層でも飯は食う】
【聞きたいことだらけなの楽しそうだな】
【一年経ってもそこは変わらん】
大河はコメントを見て笑った。
回収した角を収納し、立ち上がる。青空の下には、まだ歩いていない草原が続いていた。今までなら画面越しに眺めていた場所で、藤堂が次に進む方を指している。
「行けるか、二人とも」
「はい。準備できてます!」
大河は答え、悠真と一緒に歩き出した。
ブーツについた草の切れ端を、もう気にすることはなかった。




