一年先の景色
鉄の棍棒が、大河の鼻先を通り過ぎた。
風に前髪を揺らされながら、半歩だけ外へ動く。大きく跳んで逃げる必要はなかった。棍棒の先が地面を削るより早く、大河のマジックソードが、オーガロードの右腕へ食い込んでいた。
「悠真、そっち行くぞ!」
「見えてる!」
飯能を四人で攻略してから、一年が経っていた。
高尾ダンジョンの二十階層。かつて一人で挑んだ相手を前に、十九歳になった大河は、剣を引きながら身体を回した。オーガロードの左手が伸びてきたが、すでにその正面にはいない。
大河を追って踏み出した脚へ、悠真の槍が突き刺さった。
巨体が傾く。オーガロードは唸りながら棍棒を持ち上げようとしたが、傷ついた右腕の動きは遅かった。大河はその内側へ入り、厚みを増した魔力刃を首へ振り抜いた。
血が散り、棍棒が地面へ落ちる。
悠真は槍を抜いて離れ、大河も相手の手が届く範囲から出た。二人の間へ巨体が倒れ込み、足元の砂を跳ね上げる。
大河は動かなくなった相手を見届けてから、身体を包んでいた淡い魔力を解いた。
「よし。……前に戦った時、あの左手が嫌だったんですよ。棍棒を避けたら掴もうとしてきて、近づくだけでも大変だったんで」
【今日は掴む方まで見てたな】
【雷なしで終わった】
【昔ここで戦ってた時と全然違う】
【悠真との連携も慣れたもんだ】
「俺だけ見てくれるなら、槍は入れやすいからな」
悠真が穂先についた血を払いながら言った。大河は振り返り、笑って頷く。
「途中から、完全に俺の方ばっかり向いてたよな。あの脚、もう一回踏ん張られてたら、首まで入れなかったと思う」
「その前に腕を斬ってるからだろ。棍棒が戻ってくるのも遅かったし」
二人で相手を見て、必要な時に声を出す。
一緒に潜り始めた頃には、剣を振りたい場所へ槍が来たこともあった。今は、悠真が踏み込む前の足運びを見れば、どちらへ出たいのか分かる。分からない時には、聞けばよかった。
少し離れた位置からドローンが近づいてくる。大河は剣を下げ、スマートフォンへ目を向けた。
【Dランク二人で来ると、こうなるのか】
【昔はこのボス倒してからしばらく座ってたよな】
【まだ椅子の出番はないですか】
【俺は椅子を見に来たんだが】
「休憩は取りますよ。今日は、こいつを倒して帰る予定だったんで。ただ、ここで座るより、外で昼飯にしようって話してたんです」
「食べたい店、もう決まってるらしいぞ」
「決まってる。昨日から決めてる」
【戦闘前から飯が決まっている男】
【そこは変わらん】
【ちゃんと二十階で帰れるようになったのが成長】
「前だって帰ってましたよ。……たぶん、今より帰るのが遅かっただけで」
悠真が横で笑った。大河もつられて笑い、それから魔石を回収するためにしゃがみ込んだ。
初めてここへ来た時より、手が迷わない。剣を入れる場所も、持ち帰る素材の扱いも、この一年で何度も覚え直していた。
*
十八歳で探索者になった時、大河の予定には、一緒に潜る相手の名前が一つもなかった。
今は、スマートフォンの予定表にいくつも並んでいる。
悠真との探索。真壁たちと引き受ける依頼。訓練場での稽古。予定が合わず、一人で潜る日もあった。そのどれもを続けているうちに、季節が一巡していた。
誕生日には、実家から食べ物が届いた。
母からの連絡には、十九歳になっても食事を抜かないようにと書かれていた。礼を言うために電話をすると、父には、最近の配信で腰の動きが変わった気がすると言われた。
どう変わったのか聞いたら、そこまでは分からないと返された。
それでも見てくれているのが嬉しくて、大河はその日の稽古の話を、少し長くしてしまった。
探索者としての変化は、登録証にも表れていた。
【探索者ランク:D】
高尾を攻略しただけで、すぐに上がれたわけではない。共同探索や依頼の実績を積み、知らない相手と組んでも仕事を終えられるようになってからの昇格だった。
新しい登録証を受け取った日は、帰りの電車でも何度か取り出してしまった。行けるダンジョンを調べ直し、次に悠真と会った時には、その話だけで昼休みが終わった。
その中でも、二人ともまだ足を踏み入れたことのない場所があった。
*
「そういえば、今日は《縮地》も使わなかったな」
店の料理を待ちながら、悠真が言った。
高尾から戻り、換金に出す物を預けたあとだった。窓際の席へ座った大河は、水の入ったグラスを置いて頷く。
「棍棒を振らせたあと、そのまま近づけたからな。あそこで使ったら、俺だけ先に入りすぎてたと思う」
「覚えたばっかりの頃、よく通り過ぎてたもんな」
「……今は、そこまで行かないだろ」
「分かってるよ。今の話じゃない」
大河は苦笑した。
九十になった時に発現した《縮地》は、魔力を消費し、短い距離を一気に踏み込むスキルだった。雷で全身を強化して走る時とも違う。相手の剣が戻る前に、その懐へ入れる。
初めて成功した時には、あまりの速さに声を上げた。次の一回では、狙っていた場所を越えた。
足元が悪ければ崩れるし、前に壁があればぶつかる。行ける距離が分かったからといって、どこで使ってもよいわけではなかった。訓練場で踏み込む位置を変え、何度も剣を振って、ようやく戦闘に混ぜられるようになっている。
「この前、槍を戻す前に横へ来られた時は、普通に嫌だったけどな」
「悠真だって、来る場所に穂先を置くようになったじゃん。速くなったら全部避けられると思ってたのに、そうでもないんだよな」
「そりゃ、こっちも同じところで何回も食らいたくないし」
悠真が笑う。
大河も笑ってから、テーブルの端へ置いたスマートフォンを見た。今日の配信にも、《縮地》を楽しみにしているコメントは流れていた。使うところを見せられなかったのは少し惜しいが、だからといって、必要のない場所で飛び込む気にはならなかった。
八十で覚えた《魔力障壁》も同じだ。
正面へ作る魔力の壁は、飛んでくる攻撃を防ぐ時に役立った。自分の後ろに仲間がいれば、避ける以外の方法を取れる。
ただ、作れば絶対に守れるわけではない。重い一撃を受ければ割れるし、張り続ければ魔力も使う。防いだあとにどう動くかまで考えなければ、壁が消えたところへ次が来た。
できることは増えた。その分、使い方を間違えて悔しがることも増えていた。
「次、藤堂さんと潜る時にも使うんだろ?」
悠真に聞かれ、大河は顔を上げた。
「使う場面があれば。……でも、あの人の横で、こっちから何か言えるかは、まだ分からないな。映像で見てても、俺が気づくより先に動いてるし」
「黙ってついていく方が怒られそうだけどな」
「それは、分かる」
注文した料理が運ばれてきた。
湯気の立つ皿へ目を向け、大河は箸を取った。悠真も話を切り上げ、手を合わせる。
食べ終わったら、ギルドへ向かう予定だった。今度は藤堂と、同じダンジョンへ入る。そのための説明を、今日聞くことになっている。
*
「二人とも、帰ってきたな。高尾はどうだった?」
事務所へ着くと、藤堂が資料から顔を上げた。
「予定どおり二十階までです。怪我もないですし、魔力も残ってます。……このあと稽古って言われたら、できますよ」
「今日は説明を聞いてくれ。元気なのは分かったから」
向かいで悠真が吹き出した。
大河は笑いながら椅子へ座り、差し出された資料を受け取った。持っていく物の一覧や、移動経路の地図が綴じられている。数枚めくったところで、その手が止まった。
青い空が写っていた。
白い雲の下に草原が広がり、その奥には森がある。遠くの低い山まで見渡せる写真には、天井も、道を囲む岩壁もなかった。手前の草の間には、探索者が歩いてつけたらしい細い道が伸びている。
大河は写真を近くへ引いた。
「……今回、ここに行くんですか?」
「そう。下層へ入って、最初に出る場所だよ」
「配信では何度も見てますけど、やっぱり外にしか見えないですね。これ、入口を出たところって言われても信じますよ」
藤堂が笑って頷いた。隣では悠真も同じページを開き、写真を見ている。
下層に空があることは、探索者になる前から知っていた。
草原を走る配信も、火山の赤い光を遠くから映した配信も見た。広い水面の向こうへ、地上では見たことのない魔物が浮かび上がってきた時には、画面の前で声を上げたこともある。
その頃は、いつか自分もと思っていた。
大河は写真から目を離し、藤堂を見る。
「ここまで来ると、どっちへ進んでもいいんですか? 中層みたいに、壁に沿って道を探すわけじゃないですよね」
「歩ける方向は多い。ただ、その全部を通っていいかは別だな。草に隠れて見えない物もあるし、森へ入れば見通しも変わる。今回は調べてある経路を使うよ」
藤堂が地図を開いた。
中層でつけてきた地図とは、見た目が違っていた。通路の分岐を結んだ線に代わり、森の縁や川、丘の位置が描かれている。そこを通る予定の経路が、採取地点まで続いていた。
「目的は、ここの素材の回収と、採取地点の状態を確かめること。俺の班へ二人を加えて、六人で行く。最奥を目指す遠征じゃないから、そこは間違えないようにな」
「はい。……この川も、歩いて渡るんですか?」
「渡れる場所がある。雨や周辺の状況によっては変わるから、現地で確かめるけどな」
大河は川の描かれた場所へ目を落とした。
ダンジョンの中で、天気を気にする。
知識として知っていたことが、自分の予定になると、急に違って感じられた。濡れた装備をどうするか。雨の中でも食事を用意できるか。資料にある持ち物の意味も、写真を見る前より分かる。
「着替え、もう少し持っていこうかな。俺はしまっておけますし、濡れたまま着るより、その方がいいですよね」
「そうしてくれると助かる。ほかの荷物も頼みたいけど、全部を天草君に預ける形にはしない。各自で持つ分も、あとで確認するよ」
「分かりました。すぐ使う物は、それぞれ持ってた方がいいですもんね」
悠真が地図の端を指した。
「戦う時も、通路みたいに前を塞いでおけばいいわけじゃないんですね。ここの草原だと、横からも回られそうですけど」
「そうだな。こっちから見つけやすい相手もいれば、近づくまで気づきにくい相手もいる。見る方向と立つ位置は、全員で合わせる。二人にも普通に働いてもらうからな」
大河は顔を上げた。
「俺たちも、ちゃんと戦力として行くんですね」
藤堂は頷いた。
「そのつもりで声をかけてるよ。初めての場所だから教えることはあるけど、後ろから見てるだけなら連れていかない」
「……はい。お願いします」
「嬉しそうだな」
「嬉しいですよ。あの映像を見た時から、一緒に行ってみたかったんで。しかも、初めての下層ですし」
以前、ここで見せてもらった戦闘を思い出した。
盾が爪を外へ流し、矢が腕を止める。後ろの魔法が足元を崩したところへ、藤堂の剣が入っていた。何が起きたのか確かめたくて、何度も映像を戻してもらった。
今度は、同じ場所に立つ。
横から肘で軽く突かれ、大河は悠真を見る。
「俺もいるんだけど」
「分かってるって。お前がいるのは、普通に助かるよ。初めて組む人ばっかりだったら、今より緊張してると思う」
「ならいいけどな。俺も、お前がいるのは助かるし」
悠真はそう言って、資料へ目を戻した。大河も笑って、地図の続きを見た。
打ち合わせは、そのあとも続いた。
携行するポーション。食料。予備装備。撮影してよい場所と、配信を止める時。自分で用意する分を確かめながら、大河は予定表へ出発日を入れた。
初めての下層へ向かう日が、画面に残った。
*
自分の部屋へ帰ると、大河は先に剣を取り出した。
高尾で使った刀身を確かめ、手入れを終えてから収納する。手甲の留め具も、ブーツの底も見た。出発までは日があるが、傷んでいる物があれば、今のうちに直しておきたかった。
一通り終え、椅子へ腰を下ろす。
机には、持ち帰った下層の資料があった。大河はそこへ手を伸ばす前に、自分へ《鑑定》を使った。
【天草 大河】
【レベル:99】
【体力:178】
【筋力:179(+10)】
【耐久:177(+10)】
【敏捷:180(+5)】
【魔力:176(+5)】
【精神:181】
【常在スキル:《レベルアップ補正》《危機感知》《魔力回復促進》】
【発動スキル:《詠唱》《アイテムボックス》《鑑定》《魔力操作》《魔力属性変化・雷》《飛斬》《魔力障壁》《縮地》】
【装備:《マジックソード》《ミノタウロスの指輪》《疾風のブーツ》《魔力の腕輪》《鋼拳の手甲》】
【探索者ランク:D】
九十九。
百まで、あと一つだった。
探索者になったばかりの頃なら、想像するだけで途方もない数字だったと思う。今はそこまで来ても、自分よりはるかに強い人がいると知っている。
藤堂とは、今でも稽古をする。
初めて向かい合った日より長く剣を合わせられるようになったが、思うように勝てる相手にはなっていない。押せたと思ったところから返され、終わってから、あそこで足が止まっていたと言われる。
悔しい。だから、次も合わせたい。
「……もうすぐ百か」
声に出すと、口元が緩んだ。
何を覚えるのかは分からない。下層へ入ったからといって、すぐに上がるとも限らない。それでも、初めてレベルが上がった時と同じように、その先が楽しみだった。
表示を閉じ、資料を開く。
草原の写真をもう一度見た。太陽の光を受けた草が明るく写り、遠くの森には影が落ちている。この写真を撮った探索者は、そこに立って、風を受けながらカメラを構えたのだろう。
どれくらい広いのか。
どんな音がするのか。
大河は写真の隅まで眺めてから、魔物について書かれたページをめくった。見慣れた姿に混じって、まだ一度も会ったことのない相手がいる。説明へ目を通し、藤堂へ聞いておきたい箇所に印をつけた。
スマートフォンが震えた。
悠真から、装備の買い足しへ行く日について連絡が来ている。空いている時間を返すと、続けてメッセージが届いた。
『お前、まだあの写真見てるだろ』
大河は机の写真を見下ろし、笑った。
『今は魔物の方。草原のは、その前に見てた』
『俺も見てた。早く行きたいな』
返そうとした言葉が、そのまま画面に届いていた。
大河は『ほんとな』と打ち、スマートフォンを置いた。資料へ目を戻しても、さっき見た青空が頭に残っている。
配信で何度も眺めてきた景色へ、今度は自分たちが行く。
出発までに読むつもりだったページは、まだ半分も残っていなかった。




