次の探索のために
スマートフォンの時計は、十一時四十八分を示していた。
大河は布団に横になったまま、しばらく数字を見ていた。ダンジョンにいた時なら、とっくに食事を済ませて歩いている時間だ。起き上がろうとして身体の重さに気づき、枕へ頭を戻す。
「……よく寝たな」
高尾から帰った翌日だった。窓の外では車が走り、どこかで掃除機の音がしている。大河は腕を伸ばし、指を開いてからゆっくり握った。傷は塞がっていたが、肩や背中には、昨日までの疲れが残っている。
今日は休む。そう決めていたはずなのに、こんな時間まで眠ったことには少し驚いた。布団から出て水を飲み、冷蔵庫を開ける。出発前に食べきっておいてよかったと思うほど、中は寂しかった。
残っていた食料で簡単に食事を済ませ、洗濯物を取り込む。それだけで椅子へ座りたくなった。装備を出して汚れを落とし始めたものの、全部を一度に片づけるのはやめて、手の届く分だけにする。
剣を拭いていると、つい柄を握ってしまった。立ち上がりかけて、部屋の広さを見る。
「……ここで振ったら、机が終わるか」
大河は苦笑し、布へ剣を戻した。昨日まで毎日使っていたせいで、握ると身体を動かしたくなる。それでも、肩を回すだけで張りが分かった。今日は剣を振るより、食べて休んだ方がよさそうだった。
午後には買い物のメモを整理した。防具、ポーション、食料。それから寝具。商品の写真を見始めると、いつの間にか武器の売り場まで開いていたので、そこで画面を閉じる。
夜には、父親へ電話もした。攻略したと話すと喜んでくれたが、最後の戦闘については、母親より長く聞かれた。大河が答えに詰まると、電話の向こうで小さく息が漏れる。
『続けるなら、次にどうするかまで考えろよ』
「うん。防具は買い直すし、明日、店で相談してくる。今回は、ちゃんと使いたいところに金を使えるから」
『ならいい。休むのも忘れるな』
「今日は、ほぼ休んでたよ。起きたら昼だったし」
そう答えると、父親は少し笑った。電話を終えたあと、大河は買い物のメモへ目を戻す。欲しい物を眺めている時には楽しかったが、防具の欄を見ると、昨日の大剣が頭に浮かんだ。
次も同じように避けきれるとは限らない。そのために選ぶ物なのだと考え、予算の欄へ少し多めの金額を書いた。
*
店の入口には、軽装から金属鎧まで、何種類もの防具が並んでいた。
大河は一番重そうな鎧を見上げ、胸の前で腕を組む。頭から足まで覆われていて、確かに丈夫そうだった。ただ、自分があれを着て、オークジェネラルの剣から横へ跳ぶところは想像しづらい。
「防具をお探しですか?」
声をかけてきたのは、袖をまくった男性店員だった。大河は入口の鎧から目を離し、頷いた。
「はい。今のが結構傷んだんで、買い直したいです。中層で使える物を見たいんですけど、できれば動きやすい方がいいですね」
「今お使いの物は、お持ちですか?」
「持ってます。見てもらってもいいですか。どこが足りなかったのか、自分だけだと分からないんで」
店員に案内され、空いた台へ防具を出す。洗っても落としきれなかった汚れがあり、袖と胸元には裂けた跡が残っていた。大河は出発前の状態を思い出した。買った時には、これでも十分頼もしく見えたものだ。
店員は袖を広げ、裂け目の端を確かめた。
「長く使われました?」
「使い始めて、まだそんなに経ってないです。ただ、ほぼ毎日潜ってました。最後は高尾に十日間いたんで」
「高尾ですか。どの辺りまで?」
「最後までです。三十階層で、かなり持っていかれました」
店員が顔を上げた。大河は裂けた胸元へ目を落とし、その時の動きを思い返す。
「大剣をまともに受けたわけじゃないんですけど、避けたつもりでも腕を切られました。蹴られた時も、結構きつかったですね」
「……それで、帰ってこられたんですね」
「はい。帰れました。次は、もう少し楽に帰りたいんですけど」
店員は防具を台へ戻し、売り場の奥を指した。
「でしたら、こちらを見てみましょう。今の物より丈夫な軽量型があります。胸や肩を守る部分を増やしつつ、関節は動かせる作りです」
ラックから出された防具は、黒に近い灰色だった。胴と肩を覆う上着に、前腕と脚を守る防具を合わせる構成になっている。手と足先には、今使っている装備を合わせられた。
布だけで身体を覆う物とは違い、胸や肩には硬い部分がある。大河は受け取り、思っていたより重くないことに驚いた。裏側へ指を入れると、身体へ触れる部分には柔らかい当て布がついていた。
「これで、動けるんですか?」
「試していただくのが一番です。腕を上げたり、しゃがんだりしてください。合わない物を、丈夫だからという理由だけで選ばない方がいいですよ」
試着してみると、胸の前には今までと違う厚みがあった。大河は肩を回し、両腕を上げる。脇が引っ張られる感じはあるが、腕が止まるほどではなかった。
屈んでから足を前へ出すと、腰の辺りが少し当たった。店員へ伝えると、留め具の位置を調整してくれる。もう一度しゃがむと、さっきより動きやすい。
「どうでしょう」
「今の方がいいです。最初、ここが引っかかってましたけど、これなら脚も動かせますね」
「手甲もお使いなら、一緒につけてみてください」
大河は《鋼拳の手甲》を取り出し、左右へ装着した。袖口と手首の留め具を合わせ、拳を作ってから開く。前腕を覆う部分と手甲がぶつからないことを確かめると、少し安心した。
「これ、気に入ってるんで。使いづらくなるのは嫌だったんですよ」
「手元の装備に合わせて選ぶのは大事です。お使いのブーツとも合わせて、脚の防具が干渉しないか確認しましょう」
愛用の《疾風のブーツ》も履き、裾が引っかからないことを確かめてから、鏡の前へ立った。足首を曲げても、脚の防具がブーツへ押しつけられる感じはない。
前より探索者らしく見える、という感想が最初に浮かんだ。大河は身体を横へ向け、肩や背中を確かめる。動くたびに、店員が裾の位置や留め具を見ていた。
「重さはどうですか?」
「ありますけど、これなら大丈夫そうです。ずっと着て歩くことになるんで、もう少し試してもいいですか」
「もちろんです」
売り場の空いた場所を、何度か往復した。大きく一歩出る時と、小さく向きを変える時では感触が違う。大河は雷を使わず、普段の身体で動いた。
これを着たまま、地図を見て、飯を食べて、何時間も歩く。戦う時だけよくても、十日間使えるとは限らなかった。高尾へ行く前より、確かめたいことが増えていた。
「……いいですね。今試してる防具、全部合わせるといくらですか?」
「胴と肩、それから腕と脚の防具を合わせて、こちらです」
店員が示した値札には、三十四万八千円とあった。大河は動きを止め、もう一度数字を見る。
「……結構、しますね」
「中層で使う防具として、素材と作りを上げていますので。もう少し価格を抑えた物もあります。そちらも試されますか?」
「はい。比べてみたいです。買えるからって、値段見ずに決められるほどは慣れてないんで」
高尾の買い取り金額を聞いた時とは、別の意味で数字を読み直してしまった。高校時代、アルバイトの給料が入るたびに通帳を見ていた。その何か月分かが、今着ている防具に収まっている。自分で稼いだお金だからこそ、すぐに頷くのは難しかった。
もう一つを着てみると、軽さではそちらが勝っていた。動きやすく、値段も低い。大河は鏡の前で腕を曲げ、最初の物と交互に見比べた。
「……最初の方にします」
「よろしいですか?」
「はい。着てみて、動けるのは分かったんで。ここを削って、あとで買っておけばよかったって思うのは嫌です」
店員が頷き、選んだ物を台へ移した。大河は着替えながら、裂けた古い防具を見る。こちらも、帰るまで使えた。それでも、次の探索には新しい方を持っていきたい。
「これを着れば、あの大剣を受けられるってわけじゃないですよね?」
「はい。防具で防げる範囲には限りがあります。避けられるなら、避けてください」
「ですよね。ちょっと安心したからって、正面から受けるのはやめときます」
答えながら、自分でも笑った。新しい装備をつけると、何か試したくなる。その気持ちは手甲を手に入れた時にもあった。ただ、今度試す相手は、オークジェネラルの大剣ではなくていい。
*
消耗品の棚では、使った分をメモと照らし合わせた。
ポーションは宝箱から補充できていたが、それを当てにして次へ入るつもりはなかった。大河は残っている本数を確かめ、必要な分を選ぶ。値段を足していくと、防具だけで買い物が終わらないことを実感した。
長期探索用品の売り場へ移ると、寝袋の横に、携帯用のマットが並んでいた。小さく巻かれた物もあれば、薄い板状に畳まれた物もある。棚の下では、何種類かが広げて展示されていた。
大河がその厚みを見比べていると、さっきの店員が近づいてきた。
「寝具も替えられますか?」
「はい。十日寝てみたら、もう少し下が柔らかい方がいいなって。寝袋の下に敷く物を見たいんですけど」
「でしたら、こちらも試してみてください。空気を入れて使うマットです。抜けば丸めて持ち運べますが、この型は厚みがある分、収納しても少しかさばります」
店員は広げてあるマットと、棚の収納袋を順に示した。大河は袋の大きさを見てから、マットへ手を置く。押すと沈み、手を離すと元の形へ戻った。
「それなら、俺は寝心地で選べますね。収納は困らないんで。これ、横になってもいいですか?」
「どうぞ。寝返りも打ってみてください」
《疾風のブーツ》を脱ぎ、腰を下ろす。背中をつけてから横を向くと、肩の下にも厚みが残っていた。高尾で寝ていた時より、床を近くに感じない。大河はもう一度仰向けになり、しばらく天井を見た。
「……これ、欲しいです」
「防具より、決めるのが早かったですね」
「疲れてる時ほど、下が硬いの気になるんですよ。これなら、寝る時にちょっと嬉しくなりそうです」
店員が笑った。大河は起き上がり、マットの端と空気を入れる口を確かめる。畳み方だけでなく、空気の入れ方や、穴が開いた時に使う補修用品も教えてもらった。
隣の薄いマットも試してみた。軽くて扱いやすそうだったが、寝心地は最初の物が好みだった。普通に背負っていくなら重さや大きさで迷うだろうが、大河にはその負担がない。
「厚い方にします。持っていけるなら、ちゃんと眠れる方がいいんで」
枕まで並んでいるのを見つけ、そちらも手に取った。空気を入れて使う物と、小さく畳める物がある。結局、寝具の前にいた時間は、防具を試していた時間とそれほど変わらなかった。
食料は、同じ物だけにならないように選んだ。高尾では食べることが楽しみでもあったが、後半になると、別の味が欲しくなった。温めて食べられる物や、歩く合間につまめる物を見比べ、いつもより種類を増やす。
水も補充し、身体を拭くための物や着替えも買い足した。持ち帰れる量より、何がどれだけ残っているかを把握する方に気を使う。メモを見直し、買い忘れがないことを確かめてから会計へ向かった。
並んだ品物の量に、少し驚いた。店員の確認を受けながら、一つずつ収納していく。両手が空になると、相手は棚から袋を取ろうとしていた手を戻した。
「便利ですね、それは」
「はい。俺も、高尾で何回も思いました。背負ってたら、寝具はもっと迷ってたと思います」
大河は礼を言い、店を出た。外の明るさに目を細める。高尾から帰って二日が経ち、歩く脚も軽くなっていた。今日は一度も魔物と戦っていないのに、次へ向けて進めた気がする。
新しい防具を着るのが楽しみだった。あのマットで寝るのも同じくらい楽しみだと思い、大河は一人で笑った。
*
帰宅してから、買った物をもう一度広げた。
ポーションと食料は残っていた分と分け、使う順番を確かめる。防具の留め具も、自分で調整できるように触っておいた。店で合わせてもらった位置を戻せなくなったら困るので、スマートフォンで写真を撮る。
机へ腰を下ろすと、ようやく配信の方を見る余裕ができた。帰還を報告したあとにも、コメントが届いている。攻略を祝う言葉や、休めと念を押す言葉が並んでいた。大河は読みながら、近況を短く書き込んだ。
『ちゃんと休んでます。今日は防具と物資を買いに行ってきました。次の探索は、準備を済ませてからです』
送ってから、防具だけでも写真をつければよかったと思った。撮るために机へ出しかけたが、その前に、配信用の連絡先へ届いているメールに目が留まる。
件名には、ギルド加入についての案内とあった。
大河はメールを開き、差出人と最初の挨拶を確かめた。ギルドの運営窓口からの連絡だった。高尾ダンジョンの攻略を祝う言葉に続き、一度会って話をしたいと書かれている。
『当ギルド所属のBランク探索者が天草様の配信を拝見し、ギルドマスターへ推薦いたしました。その推薦を受け、このたびご連絡を差し上げました』
大河は、その一文を読み直した。
「……Bランクの人が?」
自分の配信を見ていたらしい。
コメント欄には詳しい人がいたし、中層へ入ってからも何度か助言をもらった。ただ、その向こうにいる探索者のランクまでは分からない。見ているだけの人もいるはずだ。誰かが自分を勧める話をしていたとは、思っていなかった。
続きを読むと、面談にはギルドマスターと、推薦した探索者が同席する予定だという。加入をその場で決める必要はなく、活動内容や所属条件を説明したいとあった。探索や訓練の支援についても、簡単に触れられている。
大河は椅子へ背中を預け、メールの冒頭へ戻った。
Bランクなら、自分よりずっと先を歩いている探索者だ。その人が、高尾のどこを見て勧めてくれたのだろう。最後の戦闘では、何度も攻撃をもらっている。床を転がって逃げたところまで見ているのかもしれない。
「……そこも見てたなら、ちょっと恥ずかしいな」
口にしてから、苦笑した。あの時は、恥ずかしいかどうかを考える余裕などなかった。帰ってきて椅子に座っている今だから、そんなことまで気になるのだろう。
高尾で会った探索者たちは、何人かで相談しながら進んでいた。自分は、一人で地図を見て、一人で剣を握った。最後のボス戦でも、倒れたところへ誰かが入ってくれることはなかった。そのことは、帰ってきたあとにも覚えている。
だからといって、今すぐ誰かと潜ると決めたわけではない。自分で考えて戦うのが好きだった。覚えたことを試すのも、自分がどこまでやれるのか確かめるのも楽しい。それを続けながら、ギルドへ所属することはできるのだろうか。
メールには、まだ分からないことが多かった。それでも、推薦した探索者が同席するという部分には、興味を引かれた。
オークジェネラルの大剣を、何度も避けきれなかった。あの時にどう動けばよかったのか。配信を見ていた人なら、同じ場面について話ができる。
「会ったら、聞いてみたいな。……加入の話より、そっちばっかり聞いたらまずいか」
大河は笑い、スマートフォンを持ち直した。まずは話を聞けばいい。どんなギルドなのか、どうして自分へ声をかけたのか。それを知ってから、所属するかを考えたかった。
面談を希望する返事を書き、自分が空いている日を添える。送る前に読み直すと、いつもの配信で話す時より、ずいぶん堅い文章になっていた。
机の横には、新しい防具が置かれている。次の探索に持っていく物は、今日、少し増えた。次に会う人まで増えるとは思っていなかったが、それも悪くない気がした。
大河は背筋を起こし、送信を押した。




