甲佐 由紀
被害者2人目。
『しらない、しらない、おいらはしらないよ』
おしゃべり鼠は、いつものようにそう言いました。
『あんたにいたずらしてやったのも、あんたの本をさんざんかじってやったのも、おいらがしたくてやったことだよ。あんたのことなんか、おいらはしらないよ』
燃え盛り、熱と煙が荒れ狂う廃図書館。
そこの倒れた書架に挟まれたおしゃべり鼠は、所々焼け焦げた包帯で全身を包んだ、無口な司書に向かって続けます。
『だからさ、そんなふうに泣かないでおくれよ。』
毎日やってきては勝手に自慢していた、おしゃべり鼠自慢の毛並みは、すっかり火傷と煤で赤黒く汚れていました。
無口な司書は、そんなおしゃべり鼠の言葉に、ようやく、書架を掴んでいた手を止めました。
おしゃべり鼠が顔に飛び掛かって来なければ。
倒れこんで挟まっていたのが自分だったであろう、焼け焦げた書架は、もう動きそうにありません。
『そんなふうに泣かれると、とってもつらいんだよ。 じまんのけなみがもえるよりも、大好きないたずらができなくなるよりも、あんたとおはなしできなくなるよりも、ずっとずっと、つらいんだよ。』
無口な司書に出来る事は、もう、おしゃべり鼠のおしゃべりに、最後まで付き合ってやる事しかありませんでした。
『なあ、笑っておくれよ。
あんたの怒った顔も、めんどうそうな顔も好きだけどさ。 おいらは、あんたの笑った顔が大好きなんだよ。』
おしゃべり鼠は、笑っていました。
『わかったらさ、早く笑って、行っておくれよ。 さあ、外に出るんだよ。 本だけが全てじゃない。 知らなくて、怖くて——でも素晴らしくて、美しい、外の世界に。』
そう言ったおしゃべり鼠に、無口な司書は、少し時間をかけて、言う通りにしてやりました。
『ああ。思った通りだ。 とっても、キレイじゃないか。』
そういって、おしゃべり鼠は、動かなくなりました。
無口な司書は、立ち上がり、走り始めます。
動く度、巻かれた包帯がほどけて落ちて、体に括り付けていた大切な本が落ちていきます。
でも、無口な司書は止まりません。
何故なら、何千日も過ごしてきたこの廃図書館よりも、一字一句間違わず覚えている冒険小説よりも、大切な——かけがえのない友の願いがあったからでした。
壊れていく廃図書館の中、炎に身を舐められ、煙を吸い込み、痛みに身をよじって、だんだん体も動かせなくなっていきます。
でも、無口な司書は止まりません。
気が付けば、見るのも怖かった、廃図書館の出口はもう目の前で。
無口な司書は、無我夢中で、その出口に飛び込んだのです。
すなうさぎ著 短編『廃図書館の無口な司書とおしゃべり鼠』より一部抜粋
『——やっぱり、作品作りの肝になるのは、いかに自分をその作品内の世界に投影できるかだと、私は思うんです』
下校中の電車の車内。
やる気のない車内灯に照らされた人もまばらな座席の1つに座って、以前受けた新鋭クリエイターへのインタビュー記事を確認する少女——ユキこと甲佐由紀は、スマートフォンの液晶に映る記事に目を通して、一息ついた。
余計な事は言っていないはずだったが、担当や編集がついてくれているとはいえ、やはり取材は苦手だった。
今の時代、作家は文だけ書いていれば良いものではない。
というのは、たまに会う編集長の口癖だったが。それは”売れる作家”になるためのものであって、自分は違うだろうとユキは思う。
「(私は、物語を——世界を書く事ができればいいだけなんだけどなあ)」
思わず、ため息が漏れる。
売れっ子の現役女子学生作家なんて余計な肩書さえなければ、もっと自由に創作が出来るのにと思うこともあった。
が、流石に、この業界も3年目にもなると。
ユキの中でも、ある程度の線引きというか、心の整理はついていた。
才能を持つ人物には、その才能を発揮する義務がある。
この業界における不文律を乱すつもりなどない。
ましてや——自分自身信じていなかった、自分の才能の見つけ出してくれた、”あの人”に迷惑をかけるような事にはしたくなかった。
「(そう、あの人——八代さん)」
放課後までずっと探し続けて、ようやくあの玄関口で見る事が出来た、あの姿。
記憶の中のあの人よりも更に成長し、更に大人っぽくなって——ますます格好良くなった、彼の姿を思い出す。
一度も忘れた事などない。
自分の脳裏にこびりついて離れない、彼の姿、彼の声、彼の表情。
それが、今の彼のものに——最新の状態に書き換えられていく感覚。
やみつきになりそうな、この焦がれるような、狂おしいほどの喜びの感情に、ユキの口元が緩む。
「——ふひっ」
そのまま零れた気色悪い吐息に、思わず口元を抑え、咳をして誤魔化す。
辺りを見回したが、ただでさえ人もまばらな車内。
誰も自分の事など見ておらず、少し安心した。
そして、ユキは反省する。
この変な癖、いい加減直さないとな、と。
「(八代さん。あなたに迷惑はかけません。 だから、遠くから——あなたを望むことは、どうか許して欲しい)」
彼が、かつての私と望んだ静かな世界。
それを、今の私が提供する事は出来ない。
どうあっても、周囲を騒がせてしまう私を、彼を決して歓迎しないだろう。
それでもいい。
遠くから見る、それだけでも、今の私には十分過ぎる事だった。
何故ならば——
と、ユキは思わずと言った様子で、鞄に入っていたメモ帳を取り出した。
昔、彼にプレゼントでもらったそれに、ユキは猛烈な勢いで、文字を書き込み始める。
「(どうしようもない存在——例えば世界単位の変化とか——邪魔される2人の関係——それに乗じるライバルたち——遠いだけで心は近く——でもすれ違い——最後は悲劇? 喜劇?——悲劇なら別々の人とそれぞれ結ばれて——片方の死はつまらない——もっと現実的にどうしようもなく——社会という大きな流れの中引き剝がされて、形作ったそれぞれの愛——)」
小さく、細かく口唇を動かしながら、書き続けていたユキが、ふと手を止めた。
顔を上げたユキの瞳は、ここではないどこかを見つめていて——小さく、とても小さく、ユキは嬉しそうに呟いた。
「私達の、次の世界が決まりましたよ。八代さん」
ユキが今まで生み出した物語の世界。
その世界の中で、ユキは幾度となく、自分の記憶の中にあるヤシと愛し合っていた。
ある世界では、王国の姫君と忠誠を誓った騎士として。
ある世界では、真面目で堅物な上司と不真面目な軟派な部下として。
ある世界では、お互いに憎み合う宿敵同士として。
ある世界では、禁断の愛に苦しむ教師とその生徒として。
そして、ある世界では——無口な司書とおしゃべりな鼠として。
世界を変え、形を変え、キャラクターを変えて。
ユキは、自分とヤシを物語に配置し、常に、密接に関わらせていた。
それは、ユキが、ヤシという男に出会ってからずっと、何百回と繰り返してきた行為。
ユキが、己の持つ才覚全てを捧げ続けている、最高のライフワーク。
結局のところ、世間や他人が評価しているものは、その副産物に過ぎなかった。
「(私は、何度でも八代さんと恋ができる。愛を育める。何でもできる——この私が、作り上げた世界なら。)」
だから、ユキは思う。これで十分だ、と。
「(嫌だ)」
どくん、と、ユキの心が震える。
「(嫌だ。もっと欲しい。足りない。すぐそこに彼がいるのに。幾星霜の世界を通して愛し合ってきた偽物なんかじゃない、本物の彼が。)」
ああ、駄目だ。
ユキは、冷静にそう思った。
自分の世界で作り上げた、もう1人の自分が。
偽物と結ばれた”わたし”達が、自分の中で暴れ出す。
「(欲しい)」
それを抑え込むなんて事は、今の自分には出来なかった。
だって、自分も、そう思っていたから。
「(欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しいずるい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい奪いたい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しいわたしのもの欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい許さない欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい食べたい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい食べられたい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい)」
彼の。
全てが。
欲しい。
降りる駅も近くなり、数人が降りようとドアの前に並び始める中、ユキはメモを取る腕を動かし続けていた。
怪しまれないように、彼に近付くにはどうしたらいいだろうか。
何とかして再び彼の前に現れるには、どうしたらいいだろうか。
わずか数分で、小さなページ全体に書き詰められた文章。
更にその行間にびっちりと文字を書き連ねながらも、ユキは考え続ける。
他の女性の影は見えている。正面から行くのは得策ではない。
ならば——
不意に、ユキは持っていたペン先を、自分の親指の腹に突き立てた。
流れ出す一筋の血を、目の前にゆっくりと持ってきて見つめるユキは、恍惚とした表情を浮かべていた。
指先から垂れ、最早、インクで真っ黒に埋まるほど書き続けたページの上で弾ける、小さな赤。
ユキは、恋する少女特有の、熱に浮かされたような表情で、自分で刺したばかりの親指を口に含む。
舌先に広がる、鉄臭く生臭い、自分の血の味。
「(——また、お菓子を作りますね。 八代さん。)」
自分の。
”自分で作ったモノ”が。
再びあの人の血肉になる事を想像すると、どうしようもなく心が弾む。
これからの自分の計画を胸に、ユキは、想像の中の彼に語りかけた。
「(どうか、私の世界に、あなたを組み込ませて——)」
まあまあヤバい人。




