氷川 良子
被害者1人目。
「——見つけたわよ、あの馬鹿男が」
すっかり暗くなるまで張り込んだ甲斐があったというものだった。
西部高等学校、その正門付近の柱の陰。
そこから、能天気そうに友人と語らいながら歩いていく男を睨みつける女子生徒——リョウこと、氷川良子は怒りを孕んだ目でそう呟いた。
距離も、記憶との外見の違いもあったが、見間違えるはずもなかった。
事実、入学式で登壇した時に一目見ただけで、あの男だと分かった。
咄嗟に目を逸らして誤魔化したようだったが、自分にそんな小手先の技など通用しない。
むしろそんな態度を取る男——ヤシに、余計に怒りが湧いた。
リョウは思い出す。
昔、自分が何も知らない、愚かな子供であった時の事を。
そして、そんな自分を救っておいて。
自分の前から黙って消えた——馬鹿な男の子の事を。
昔の、小学生の頃の自分は。
両親の夢のために働き、その対価として両親の愛を欲する、労働者のような子供だった。
母のような立派な教師の子供として、恥ずかしくないように勉強するのは当然の事だった。
授業を完璧にこなし、学習塾のテストで常に満点を取り、関わり合いになる大人全員から褒められる。
そんな子供でありなさいと求められ、それをこなせば、『今以上に頑張って、更に上を目指しなさい』という愛の言葉が貰えた。
父のような、立派な法律家になるために、無駄な時間は徹底的に切り詰めた。
頭が良いのは、勉強ができるのは当たり前で。
家で会った際に、抜き打ちで向けられる社会問題や法律の質問に、完璧に答える事が求められた。
それをこなせば、『今の仕上がりを無駄にしないように、更に努力しなさい』という愛の言葉が貰えた。
そんな両親と、2人の子供、そして私で構成される、誰もが認める完璧な家族。
これが正しいんだ。
これが幸せなんだ。
それ以外は全て悪い事なんだと、自分に言い聞かせていたあの日々。
『それの、何がいけないんだ?』
両親のために創られた、どこまでも完璧で完全で——空っぽだった私の世界は。
突然自分の前に現れた男の子によって、粉々に壊された。
忘れもしない、あの夕方の公園で言われたその言葉。
その時の私は、なんて事を言うのだと思って、男の子に怒鳴りつけようとして。
結局、一言も、言い返す事が出来なかった。
両親の思い通りに動かなかければ、働かなければ得られない愛など、世間一般から見れば異常以外の何物でもない。
そんな当たり前の事に、私は初めて気付くことができた。
そこから先は、今思い返しても、まるで夢物語の様であった。
両親の期待に応える事を止め。
自分を追い詰める事を止め。
両親へ何かを求める事を止めると、何もかも上手く行き始めた。
両親の愛を中心とした世界が崩壊し、代わりに新しい自分とあの男の子を中心とした世界が、目の前一杯に広がったような、そんな感覚。
壊れる寸前の私を救い、1つ1つ自分の抱えていた問題を解決した、あの男の子。
あれから何年と経った今も、私を支えている心と理念をくれた、あの男の子。
なのに、あの男の子は。
何も言わず、私の目の前から消えていった。
私を生まれ変わらせて、たくさんの友達を作らせて、今の”完璧な優等生”である氷川良子を作り上げた後。
新しい環境に戸惑い、慣れるために懸命になっていた私を放って。
何も言わないまま。
「——ふざけるな」
思わず零れたそんな言葉に、リョウは自分で驚いてしまった。
気付かない内に固く握り締めていた拳を解き、一度心を落ち着けるように息を吐く。
目標は確かに確認した。もうここに用はない。
そう判断したリョウは、踵を返して歩き出そうとして、ポケットのスマートフォンが震えているのに気付いた。
それが、両親からの『もう遅いから、早く帰ってきなさい』というメッセージである事を確認すると、リョウは興味もなさげに返信して——思わず、皮肉気な笑みが出た。
「(現金な人達だこと)」
あの、リョウが肉親からの愛への興味を失った日から、早5年ほど経った今。
リョウを”期待外れ”と内心切り捨てていただろう両親には——もう、リョウしか残っていなかった。
自分達の”完璧な育て方”を実行した結果。
まるで父の生き写しとまで言われた兄は、海外留学先から帰ってこなくなった。
知人友人の伝手を辿って、どうにか連絡が取れた兄からは、ただ『もう構わないでくれ』とだけ。
今でも不定期に届く海外からの絵葉書だけが、どこかで兄が生きている事の証明となっていた。
一方、神童と持て囃された妹は、有名私立中学の受験に失敗。そのまま不登校の引きこもりになった。
リョウの隣の部屋、一生を過ごすにはあまりに狭すぎる子供部屋を自分の世界と定めた妹は、両親からのありとあらゆる干渉を拒否し、日々を過ごしている。
両親には、もう、自分達の”完璧な育て方”から外れ、失望して放置していたリョウしか手元に残っていない。
おまけに『流石はあのご両親の娘』と周囲に言われるようになると。
——すぐに両親は、まるで最初からそうであったかのように、リョウを気に掛ける善良な両親を演じ始めた。
そこまでして、自分達が失敗したとは思いたくなかったのか。
正直、リョウにとって両親のそれは、滑稽な茶番にしか見えなかった。
だって、もう自分の中には。
かつての両親から押しつけられたものなど、殆ど残ってはいないのだから。
今の私を構成しているものは。
あの男の子と過ごした、あの幼稚な——しかし、輝かしい日々なのだから。
まあ、別に構わない。
と、リョウは内心で結論づけた。
両親には、自分の邪魔さえしなければ——私の生産元を名乗る権利くらいは、くれてやるつもりだった。
そんな事より、今考えなければならない事はいくらでもある。
「八代 団十郎」
私、氷川良子の関心を独り占めにする男の名前を口にする。
ただそれだけで——リョウの心の底にあった何かが、煌々と燃えあがってくるのを感じた。
「あんたが勝手に関わって、勝手に救って、勝手に私の前から消えた事。 絶対に許さない。」
その燃えあがる火種は一体何なのか。
単純な怒りの炎なのか。
それとも、胸を掻き毟りたくなるような強烈な思慕なのか。
リョウは思う。
そんな事はどうでも良い、と。
「絶対に、あいつに謝らせて——自分の隣に、いてもらう。」
リョウは、その火傷しそうな程の熱量を帯びた想いを口にする。
——それだけで、じっとしては居られないほどの活力が湧いてくる気さえした。
「(まずは、自クラスと担任、1年生の教師陣の掌握。)」
懐からメモを取り出す。
昔、彼に買ってもらった古ぼけたキャラ物のペンを紙面に走らせ、やるべき事を高速で整理していく。
学校と、その延長線上にある社会は、自分の実力を如何なく発揮できるフィールドだ。
自身の評判、肩書、人脈——持てる全てを駆使して、あの男を捕まえてやる。
「——ヤシ。 首洗って待ってなさい」
そう呟いたリョウは背筋をしっかりと伸ばし、威風堂々と言った様子で家路に就く。
その足取りは、彼女の内心に反して——なんだか少し、軽快に見えた。
あんまりヤバくない人。




