ダルフラの酒場
「王子……ここにいる誰もが、あなたを支持しております。どうか、その想いをお汲みください」
チグラスは、静かに諭した。
ティルダスはわずかに視線を落とす。
——王になるのは兄上でいいのに……でも、ここで突っぱねたらチグラスが困るよな…——
少しの沈黙のあと、顔を上げる。
「……みんな、ありがとう」
その一言で、場が揺れた。
「おお……!」
「なんとお優しい……!」
感嘆の声が広がる。
ティルダスは思わず頬をかいた。
——なんか……くすぐったいな——
「と、とりあえずさ……ここで急に静かになったら怪しまれるし」
その言葉に、皆がはっとする。
やがて酒場は、何事もなかったかのように再び喧騒を取り戻した。
奥の席に移り、改めて話し合いが始まる。
チグラス、ティルダス、ダエン、店主、そして赤毛の大男。
「先ほどは無礼を働いた。アルセンと呼んでくれ」
先ほどまでの酔態とは打って変わり、アルセンは真顔で頭を下げた。
「いや、そんなかしこまらなくていいよ」
ティルダスが気軽に返すと、
「よくないよ!ティルダス、自分が王子だってわかってるの!?」
ダエンがすかさず噛みつく。
「お前さんも、ずいぶん気安い口きいてるじゃねぇか」
アルセンが笑う。
そのやり取りに、チグラスが口を挟んだ。
「アルセン。この少年は、先の元帥バルジャーミ殿のご子息——ダエン殿だ」
「なにっ!?」
アルセンが素っ頓狂な声を上げる。
あまりの大声に、ティルダスは思わず耳を塞いだ。
「……声がでかい」
チグラスは、軽くアルセンの額を小突く。
「す、すまん……」
「わしはダルフラ。アルセンと同じく元軍人じゃ。今はこの酒場を切り盛りしとる」
店主が穏やかに名乗る。
「え、アルセンさんも軍人だったの?」
「“さん”はいらねぇよ、王子サン。ま、若いけどな、もう辞めちまったんだ」
軽く笑うアルセンに、ティルダスはそれ以上踏み込めなかった。
「さて、本題に入ろう」
チグラスが声を落とす。
「ここにも、いずれ手が回る。王子を匿うことはできん」
ダルフラが低く言った。
「承知している。はじめから、そのつもりはない」
チグラスは淡々と応じる。
「で、どうする?このままじゃ危ねぇだろ」
アルセンが腕を組む。
「そこだ。……正直、予想外だった。ファシム殿がここまで力を持っていたとは」
チグラスの声に、わずかな苛立ちが滲む。
「占いじゃ見抜けなかったのか?」
「生年月日がわからなかった」
苦々しく言い切る。
「なるほどな……あの男、そこまで計算してたってわけか」
ダルフラがため息をついた。
「頼みがある」
チグラスは二人を見た。
「自分一人では、王子とダエン殿を守りきれない。力を貸してほしい」
「何言ってんだ。お前、魔導使えるだろ?」
アルセンが笑う。
「……この国で、魔導を使えるのは自分だけではない」
チグラスの脳裏に、一人の男の顔がよぎる。
「ロムダスタか。あのゴマすり、まだいたのか」
「技量は侮れん。むしろ……油断ならない相手だ」
ティルダスが首を傾げる。
「でもさ、父上に重用されてたのってチグラスだろ?そいつ、大したことないんじゃないの?」
「いいえ、王子殿。彼の才は本物です。自分より修練期間が短いだけで、技術はほぼ同等でしょう」
その言葉に、場の空気が引き締まる。
「……いいぜ」
アルセンがにやりと笑った。
「こういうのは嫌いじゃねぇ。付き合ってやる」
「すまない、助かる」
チグラスは深く頭を下げた。
一方、ダルフラは静かに首を振る。
「行きたいのは山々だが……この足では足手まといだ」
「無理はなさらぬ方がいい」
チグラスは穏やかに返す。
「……すまんな」
「その代わり、食糧は持たせよう。当分は困らんはずじゃ」
「ありがとう!」
ティルダスはぱっと顔を輝かせた。
酒場を出る。
夜気が肌に刺さる。
「ダルフラ殿、世話になった」
チグラスが礼を言う。
「なに、たいしたことはしとらん」
「いや、すごいよ!干し肉、あんなにくれたじゃん!俺、大好物なんだ!」
ティルダスが無邪気に笑う。
ダルフラは深く頭を垂れた。
「王子殿に、幸運があらんことを」
「もう、そんなかしこまらなくていいって」
「……では、これで別れだ」
チグラスは静かに言った。
「申し訳ないが、記憶を一部消させてもらう。あなた方を守るためだ」
「わかっとる」
ダルフラは頷く。
「アルセン、二人を連れて先に行け」
「合点」
アルセンは頷き、ティルダスとダエンを連れてその場を離れようとする。
その時——
「ダルフラさん!」
ティルダスが振り返った。
「たくさんありがとう!たとえ忘れても、この恩は絶対忘れないから!」
その真っ直ぐな言葉に、ダルフラの目が潤む。
「……もったいないお言葉じゃ」
⸻
やがて三人の姿が見えなくなる。
チグラスは右手を掲げ、静かに呪文を紡いだ。
——記憶の霧が、酒場を包む。
先ほどまでの気配は消え、
誰も王子の存在を認識していない。
「おや、チグラス殿。またのご来店を」
ダルフラは何事もなかったかのように言った。
「……ああ」
チグラスは短く応じる。
胸の内で、彼らの無事を祈りながら。
⸻
酒場を出ると、待っていた三人のもとへ歩み寄った。
「待たせた。——行こう」
逃亡が、本格的に始まる。




