王妃になれない女
話は、少し遡る。
ティルダス王子が姿を消したことは、ほどなくして城内に知れ渡った。
「大変だ!」
「ティルダス様がどこにもおられぬ!」
「乳兄弟のダエンも消えたぞ!」
「それだけではない!乳母のネリッサ殿が、何者かに殺されている!」
たちまち城内は騒然となった。
兵士たちが駆け回り、侍従たちは口々に噂を交わす。
その混乱の中、ひときわ大きな怒号が響き渡った。
「うぬぬ……!ティルダス王子がネリッサ殿を殺め、逃げ出したに違いない!草の根を分けても探し出せ!」
大臣ファシムである。
だが、その騒ぎをただ一人、静かに見つめている女がいた。
オリーブ色の肌。
艶やかな黒髪。
闇夜を思わせる大きな瞳。
見る者を魅了せずにはいられない美貌の持ち主――先王ウォーノン二世の寵姫、エレーニ妃である。
——……あの子が、自分の乳母を殺すはずがないのに——
エレーニは、騒然とする城内を見渡した。
彼女はグレコの奴隷階級に生まれ、幼い頃から踊り子として生きてきた。
その美貌と舞の才を見込まれ、宮廷へ招かれた彼女は、やがてウォーノン二世の目に留まり、寵姫となった。
望んで手に入れた地位ではない。
それでも王の寵愛を受けたことで、彼女の人生は大きく変わった。
そして今。
——兄様は、きっと見つけ次第、あの子を殺してしまうでしょうね……——
エレーニは、騒ぎの中心で指揮を執る兄ファシムを、憎しみを込めた目で見つめた。
やがて踵を返すと、そのまま自室へと戻っていく。
脳裏に、兄の言葉が蘇った。
『エレーニよ、待っていろ。法を変え、そなたを元王妃に――そして王母にしてやるからな』
だが、今となっては、そんな言葉などどうでもよかった。
法が変わっても、奴隷階級の出身である事実は変わらない。
たとえ自分が産んだ息子が、王位に就いたとしても……。
人々は彼女を「愛妾」「寵姫」と呼び、陰では……。
『王をたぶらかした悪女』
そんな言葉まで囁いている。
——もう、これ以上……兄様の野心の犠牲になった者たちの話など、聞きたくない……——
エレーニは窓辺に腰を下ろした。
そして傍らに置いていた竪琴を手に取る。
静かに弦を爪弾く。
王の寵姫となって以来、多くのものを奪われてきた彼女に残された、数少ない慰めだった。
ポロン……。
静かな音色が室内に響く。
そのとき……。
「お呼びでしょうか?」
いつの間に現れたのか、一人の男が部屋の隅に跪いていた。
亜麻色の長い髪を束ね、顔の上半分を黒い仮面で覆っている。
「来てくれたのね」
エレーニは、ほっとしたように微笑んだ。
「竪琴が合図です。城内にいる限り、必ず参じましょう」
男は頭を垂れたまま答える。
「心強いわ……。お願いがあるの」
「なんなりと」
「ティルダス王子を、兄様より先に見つけてほしいの」
そこでエレーニは、わずかに声を落とした。
「できれば……守って」
「御意」
短い返答だった。
地位を脅かすかもしれない王子を守れ――。
常識からすれば、奇妙な命令である。
だが、エレーニにとっては、王との婚姻も、兄の野心も、自ら望んだものではなかった。
——私は、ただ静かに暮らしたいだけなのに……——
エレーニは窓の外へ目を向けた。
——本当は、ウォルガスと田舎で、のどかに暮らしたかった……——
だが、それも遠い昔の夢。
——あの子も、もういい大人。今さら、後戻りはできないけれど……——
エレーニは小さく息を吐いた。
その頃。
仮面の男は、ファシムの執務室に姿を現していた。
「お呼びで」
「ティルダス王子の居場所を突き止めよ」
男は頭を垂れたまま、低い声で尋ねた。
「……腹心の魔導士、ロムダスタには依頼されないのですか?」
ファシムのこめかみが、ぴくりと動いた。
「奴の魔導は探索向きではない!まったく、役立たずめ!」
苛立たしげに机を指で叩きながら、ファシムは続ける。
「そなたには、二重の間者として働いてもらっているからな。居場所を特定するだけでよい」
そして、冷たい目を仮面の男へ向けた。
「もし逆らえば……どうなるか、わかっておろうな?」
男の唇が、わずかに歪んだ。
強く噛みしめる。
やがて、低い声で答えた。
「……はい。ファシム殿の命、しかと承りました」
こうして…。
ティルダス王子を追う者は、一人、また一人と増えていった。




