密命
ここは城内の貴賓室。
オドリュスの王女、リュシマ姫が滞在している部屋である。
室内には、リュシマのほかにもう一人、人影があった。
でっぷりとした体躯に赤ら顔。
赤褐色の巻き毛に、灰色の瞳。
一見すれば、中年の女性にしか見えない。
だが、身にまとっているのは女物の衣ではなく、男が着るローブ。
この人物の正体は、宦官のテオメデスであった。
「リュシマ姫様ぁ!もういい加減、この国を出ましょうよぉ!」
甲高い声が、室内いっぱいに響き渡る。
「王は姫様と結婚すると言っておきながら、ファシム大臣様を説得できないんでしょう? そもそも、王妃を娶るのに大臣の許可が必要だなんて、おかしな話じゃありませんかぁ!」
「お黙り、テオメデス!」
リュシマの一喝に、テオメデスはしゅんと肩を落とした。
「……ですがぁ」
「私の国オドリュスは、フィリッパ姉さまのせいで帝国に呑み込まれた。滅んだも同然よ」
リュシマは、静かに窓の外へ視線を向ける。
「……だからこそ、私はウォルガス様にお守りいただくのが一番安全なの」
「でもぉ!」
テオメデスは、なおも食い下がった。
「フィリッパ様に、もうリュシマ様を狙う余裕なんてないはずですよ?だったら、ここに留まっている必要もないでしょう!」
そして、両手を大きく広げる。
「さぁ、外へ!今すぐこの国を出ましょう!」
「はぁ……」
リュシマは深いため息をついた。
「宦官のお前には、人を恋慕う気持ちが分からないのかしら?」
「失礼な!」
テオメデスは頬を膨らませた。
「あたくしにだって、恋心ぐらいありますっ!」
キーキーと反論するテオメデス。
そのとき……。
「ほう、そうですか」
低く、冷ややかな声が響いた。
二人が振り向く。
いつの間に入ってきたのか、扉口には長身の男が立っていた。
魔導士、ロムダスタ。
「無礼者!」
テオメデスは反射的に剣へ手をかけた。
「姫様の部屋に無断で立ち入るとは!」
だが、ロムダスタが片手をすっと掲げた瞬間…。
「……っ!」
テオメデスの身体が、ぴたりと止まった。
指一本、動かせない。
「私の従者に魔導をかけるのは、おやめなさい!」
リュシマの鋭い声が飛ぶ。
「お見事ですな、姫殿下」
ロムダスタは手を下ろすと、薄い笑みを浮かべた。
「魔導を見抜かれるとは」
「その程度、心得のある者なら分かります」
リュシマは警戒を解かぬまま、ロムダスタを睨みつける。
「それで? 何の用です」
「もちろん、姫殿下に良いお話を持って参りました」
ロムダスタはそう言うと、懐から一巻きのパピルスを取り出した。
「ウォルガス王とのご結婚をお望みなのであれば、ファシム大臣殿の承認が必要なのはご存知でしょう?」
「……ええ」
リュシマは警戒しながらも、その巻物を受け取った。
そして、ゆっくりと広げる。
そこに記されていた文字を目にした瞬間……。
白い指先が、かすかに震えた。
『第二王子ティルダスを暗殺せよ』
「…………」
——なんてこと……!——
リュシマは、息を呑んだ。
「ティルダス王子は、ウォルガス王にとって脅威となる存在です」
ロムダスタは淡々と告げる。
「もし王子が王位に就けば、踊り子の腹から生まれた王は処刑されかねない」
「……処刑……」
その一語に、リュシマの身体が小さく震えた。
母国では、処刑など決して珍しいものではなかった。
昨日まで生きていた者が、次の日には命を奪われる。
それは彼女にとって、あまりにも身近な惨劇だった。
「愛する方を守りたいのであれば……」
ロムダスタの声が、静かに響く。
「邪魔者を消すしかありません」
リュシマは巻物を握りしめた。
「……でも」
声が震える。
「私は、人を殺めたことなどありません」
一度、唇を噛みしめる。
「魔導だって、防御に使える程度のものです」
必死に抗うリュシマを、ロムダスタは冷ややかな目で見つめた。
「それだけで充分ですよ」
「……え?」
「何も、貴女自身の手で殺す必要はない」
ロムダスタは、事もなげに言った。
「毒を盛ればよいのです」
「毒……」
「貴女ほどの知識と魔導があれば、王子のもとへ忍び込むことも、それほど難しくはないでしょう」
リュシマの脳裏に、ウォルガスの姿が浮かんだ。
……愛する人。
そして、その人が処刑される光景が脳裏をよぎる。
——人を殺すなんて、したくないわ——
リュシマは強く目を閉じた。
けれど。
——あの方が処刑されるのは、もっと耐えられない——
しばらくの沈黙のあと。
リュシマはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、迷いと決意が入り混じっていた。
「……分かりました」
そして、きっぱりと言った。
「お受けいたします」
こうして。
恋する乙女は、愛する人を守るため、決して後戻りのできない決断を下したのであった。




