大臣ファシムの焦り
執務室では、黒髪に黒い瞳、口元から顎へと豊かな黒髭を蓄えた男が、豪奢な椅子に深く腰掛けていた。
その男こそ、先王ウォーノン二世の愛妾エレーニ妃の兄……ファシム大臣である。
ナハペト王国西方、グレコの生まれ。
かつては剣闘場で命を賭ける奴隷剣士にすぎなかった。
だが、類まれな美貌を持つ妹が王に寵愛されたことで運命は一変する。
王の信任を得たファシムは、一介の奴隷から王国の実権を握る大臣へと成り上がったのだった。
——計画は順調だったはずだ……——
すべてが狂い始めたのは、ティルダス王子が姿を消してからである。
乳母ネリッサに王子の毒殺を命じたものの、
忠義深い彼女は最後まで従わなかった。
幼い頃から世話をしてきた乳母に代わり、警戒されず王子へ近づける者など他にいない。
ならば自ら始末するしかない。
そう決意した頃には、すでに北の館はもぬけの殻だった。
——忌々しい……——
ウォーノン王をエレーニに溺れさせ、ティルダスを北の館へ追いやり、ろくな教育も受けさせず王位継承争いから遠ざける。
そこまでは思惑どおりだった。
だが、この国では血筋が何より重んじられる。
甥のウォルガスは、聡明で器もある。
しかし、その母はグレコ出身の踊り子。
一方、暗愚と評判の第二王子ティルダスであっても、母親は西の隣国コルトリ王国の第一王女という申し分ない血統だった。
古くから王国を支えてきた伝統貴族ナハラーたちは、能力よりも家柄を重んじる。
ウォーノン王が亡き今、彼らがティルダスを旗印に掲げても何ら不思議ではなかった。
歴代の王たちも、ナハラーを完全に抑え込めた者は少ない。
彼らの支持なくして、王国を安定して治めることは難しいのだ。
もっとも、その均衡を崩したのもウォーノン王だった。
エレーニを妃に迎え、妹の兄である自分を大臣へ抜擢したことで、王はナハラーを押さえ込み、強権政治を築き上げた。
ファシムもまた、その体制を永続させるため、王が健在のうちに遺言状を書かせ、ウォルガスを後継者に据える手はずを整えていた。
ところが密偵から、ウォーノン王が土壇場でティルダスへ王位を譲るつもりだとの報せが届く。
迷う暇はなかった。
即座に毒使いフリストンを動かし、王を葬らせたのである。
だが、王が死ねば抑え込まれていたナハラーたちが再び動き始める。
そのうえ、最大の脅威であるティルダス王子まで姿を消した。
——すでに味方を集めているのではないか—-/
さらに気掛かりなのは、先王の護衛であり剣士、魔導士、そして占星術師でもあるチグラスまで同時に消息を絶ったことだった。
——こんなことなら、あの男も懐柔しておくべきだった——
ファシムは奥歯を噛み締める。
チグラスは没落寸前とはいえ、かつてナハラーに列したアストラツィニ家の出身である。
本人の才覚だけで王の側近へと上り詰めた男だったが、家柄も権勢も持たぬ一介の臣下と侮っていた。
それが今となっては、もっとも厄介な存在になろうとしている。
さらに追い打ちをかけるように、遠くオドリュス王国から亡命してきた第七王女リュシマが、ウォルガスと恋仲になってしまった。
——愚か者め——
あれほど情に流されるなと申したというのに。
東の大国パトスとの婚姻こそ、この国の未来を左右するというのに……。
苛立ちを募らせていたその時だった。
「失礼いたします、ファシム殿。ご報告がごぜぇます」
低く粘つく声とともに、毒使いフリストンが現れる。
恭しく跪く姿を、ファシムは冷ややかに見下ろした。
「申せ」
「ウォルガス王とリュシマ姫の仲が、思いのほか深まっております」
「そんなことは分かっておる!」
苛立ちを隠そうともせず、机を拳で叩く。
「王は隣国パトスの王女を娶るお方。その障害となるリュシマ姫……私めが消して差し上げましょうか」
フリストンは口元を歪め、不気味に笑った。
「ふむ……」
ファシムは顎に手を当てる。
——聞く耳を持たぬなら、障害を取り除くしかあるまい…——
そう決断しかけた、その時だった。
「いや、それは得策ではありませんな」
低く落ち着いた声が割って入る。
現れたのは、灰色の髪を無造作に伸ばした長身の男だった。
吊り上がった目には、蛇のような冷たさが宿っている。
名はロムダスタ。
チグラスと同期の魔導士であり、長年、彼への劣等感を募らせてきた男である。
「何だ?」
ファシムが眉をひそめる。
「リュシマ姫は薬草に精通しております。毒を盛っても見抜かれる恐れがありましょう」
「ならばどうする」
「婚姻を認める条件として、ティルダス王子の暗殺を命じるのです」
ロムダスタは薄く笑う。
「成功した暁には……私が姫を始末いたします」
その言葉を聞いた瞬間、ファシムの表情が明るくなった。
「おお……それは妙案だ!」
だが、面白くない男が一人いた。
フリストンである。
「回りくどい!」
舌打ちしながら睨みつける。
「お主ほどの魔導士なら、まとめて始末すれば済む話ではないか」
ロムダスタは鼻で笑った。
「チグラスが王子の側にいるやもしれませんのでな。倒すこと自体は難しくありません」
その目が妖しく細まる。
「だが、あの澄ました男……チグラスが、すべてを失って絶望する姿を見届けてこそ……真の愉悦というものです」
残忍な笑みが浮かんだ。
「好きにするがいい」
フリストンは吐き捨てるように言い、顔を背けた。
そんな二人を見渡しながら、ファシムは机上のパピルスの束を手に取る。
「フリストンよ。そなたにも役目を与える」
数枚を抜き取り、彼へ放った。
「ここに記された者どもはナハラーだ。毒ではなく薬を使い、弱みを握れ。味方へ引き込むのだ」
「毒殺は?」
「許さん」
即座に言い切る。
「今は死体が増えるほど疑いを招く」
フリストンは不満げな表情を浮かべながらも跪き、パピルスを受け取った。
その姿を見つめながら、ファシムは静かに笑う。
「王子も姫も、所詮は盤上の駒にすぎぬ。」
その声音には、揺るぎない自信が宿っていた。
「生かすも殺すも、この私の采配ひとつよ」
ファシムは静かに目を閉じる。
そして、誰にも気づかれぬまま、新たな一手を盤上へと打った。




