「前世」
【前書き】
最近は天気が不安定で、片頭痛に悩まされる毎日です……。
それでも不思議と案だけはどんどん浮かんでくるので、書く手が止められません。
気温差も激しい時期なので、皆さまも体調にはお気をつけくださいね。
ゆっくりと意識が浮上する。
重たい瞼を開けると、最初に見えたのは紅い瞳だった。
「……ヴァルド……?」
掠れた声で名を呼ぶ。
その瞬間、ヴァルドの表情が大きく揺れた。
「フィラ……!」
泣きそうだった。
フィラの手を握る指先に、僅かに力がこもる。
ずっとそこにいたのだろう。
疲れた顔をしている。
それでもフィラから視線を逸らさず、ただ不安そうに見つめていた。
「気分は?」
低い声。
けれど、とても優しい。
フィラはぼんやりと瞬きをした。
「私……どうして……」
起き上がろうとした瞬間、ふわりと頭に温かな手が触れた。
「無理をするな」
「父様……」
オズワルドだった。
ベッド脇に立ち、優しくフィラの髪を撫でている。
その表情は穏やかで。
けれど、どこか悲しそうだった。
「向こうが聖女と言っている女を見た途端、お前は倒れた」
「――っ」
その言葉で、全てが戻ってきた。
美優。
あの顔。
あの声。
前世と変わらない姿。
解放されたはずだった。
もう会うことなどないと思っていた。
なのに。
「……なんで……」
フィラの顔から血の気が引いていく。
ヴァルドの手を離し、自分自身を抱き締めた。
身体が小刻みに震え出す。
「なんで、いるの……」
「フィラ」
ヴァルドはすぐにその身体を抱き寄せた。
逃がさないためではない。
大丈夫だと伝えるように。
優しく背中を撫でる。
けれど、フィラの震えは止まらなかった。
温もりが遠い。
ヴァルドの腕は確かに優しいのに、今のフィラにはそれすら届かない。
頭の中に浮かぶのは、美優の顔だけだった。
その様子を見たオズワルドは、部屋にいた者たちへ静かに視線を向ける。
ツェリ。
ラルフ。
アーバイン。
三人はすぐに察した。
「失礼いたします」
音もなく部屋を出て行く。
だが、ヴァルドだけは残された。
昔なら違った。
フィラが不安定な時、オズワルドはヴァルドすら部屋の外へ出していた。
けれど今は。
フィラにはヴァルドが必要だと、オズワルドも認めていた。
「フィラ」
オズワルドはベッド脇へ膝をつき、フィラと目線を合わせる。
いつもなら待つ。
フィラが自分から話せるまで。
だが今回は違った。
このままでは、フィラが危うい。
「話せ」
低く、静かな声。
「何があった?」
フィラの唇が震えた。
言葉が出ない。
話すということは、前世を話すことだった。
美桜だった自分を。
母のことを。
美優のことを。
惨めで、苦しくて、誰にも助けてもらえなかった人生を。
フィラは俯く。
怖いとは言えない。
信じてもらえないかもしれないとも言えない。
美優を見たことで、美桜だった頃の感覚が一気に蘇っていた。
助けを求めても無駄。
話しても否定される。
自分が悪いと言われる。
その恐怖に、言葉が喉で詰まる。
けれど。
ヴァルドがフィラを抱き締めたまま、そっと手を握った。
「フィラ」
耳元に落ちる声は、ひどく優しかった。
「前に言ってくれたでしょう」
「……?」
「何があっても、俺の味方だって」
フィラの指がぴくりと震える。
「俺も同じだよ」
ヴァルドは握る手に、少しだけ力を込めた。
「俺も師匠も、何があってもフィラの味方だ」
オズワルドも、もう片方の手を取る。
大きく温かな手だった。
「安心して話しなさい」
責める声ではなかった。
拒絶する声でもない。
ただ、受け止める声。
その時、ようやく二人の温もりが届いた。
「……っ」
涙が零れる。
フィラは震える指で、二人の手を握り返した。
「私……」
声が詰まる。
それでも、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私には……前世の記憶が、あります」
オズワルドもヴァルドも黙って聞いていた。
「前世の名前は……美桜、でした」
異世界で生きていたこと。
交通事故に遭ったこと。
気づけばフィラという女の子になっていたこと。
そして。
美桜だった頃の生活。
物心ついた頃から、美優ばかりが優遇されていた。
母は美優には優しく、自分には冷たかった。
家事は全て美桜の仕事。
罵られるのも、責められるのも、美桜。
美優は高校にも大学にも行かせてもらえた。
けれど美桜は、高校へすら行かせてもらえなかった。
働けと言われた。
家に金を入れろと言われた。
働いたお金は全て母と美優のものになった。
会社は酷い場所だった。
朝から晩まで働き、疲れ切って、それでも家へ帰ればまた責められた。
友達も出来なかった。
出来そうになると、美優が奪っていった。
悪口を吹き込まれ、いつの間にか皆離れていった。
男の人も。
友達も。
居場所も。
何も残らなかった。
「だから……」
フィラの声が震える。
「私、ずっと……私が悪いんだって……思って……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「美優は……私の妹でした」
部屋に沈黙が落ちた。
フィラは俯いたまま、二人の反応を待つ。
怖かった。
大丈夫だと言われても、怖いものは怖い。
けれど。
最初に口を開いたのは、オズワルドだった。
「……妙だな」
「え……?」
フィラは顔を上げる。
オズワルドの声に、嫌悪はなかった。
疑いもない。
ただ、考えるような声音だった。
「何故、お前の前世の妹がこの世界にいる」
ヴァルドも静かに続ける。
「偶然とは思えない」
その言葉に、フィラは目を見開いた。
「信じ……るの……?」
小さな声だった。
オズワルドは眉を寄せる。
「お前が嘘を吐く理由がない」
当然のように言う。
ヴァルドも頷いた。
「フィラが話してくれたことなら信じるよ」
あまりにも自然だった。
まるで、疑うという選択肢など最初からないように。
フィラの瞳にまた涙が溜まる。
オズワルドは静かにフィラの頭を撫でた。
「ようやくわかった」
「……?」
「お前が人の顔色を伺う理由だ」
ヴァルドの瞳にも、静かな怒りが滲んでいた。
「役に立たなきゃいけないって、いつも無理をする理由も」
二人はずっと、フィラがそうなったのはオズワルドに拾われる前の環境のせいだと思っていた。
けれど違った。
それは前世から続く傷だった。
美桜だった頃から、ずっと。
「でも……美優が……」
「関係ない」
オズワルドが即座に切り捨てる。
揺るがない声だった。
「お前はフィラだ」
大きな手が、優しく髪を撫でる。
「前世がどうであれ、今のお前は私の娘だ」
ヴァルドもフィラの手を握ったまま、真っ直ぐに見つめる。
「フィラはフィラだよ」
「ヴァルド……」
「何も変わらない」
その言葉に、フィラは唇を噛んだ。
泣きたくないのに。
涙が止まらなかった。
しばらくして、オズワルドが低く口を開く。
「向こうはまだ、お前が美桜だとは気づいていないのだな」
「……多分」
フィラは小さく頷く。
美優は自分を見ていた。
けれどあの目は、美桜を見つけた目ではなかった。
ただ、邪魔な女を見る目だった。
「ならば今は動く必要はない」
オズワルドの声は冷静だった。
「あえて知られる反応をする理由もない」
ヴァルドも頷く。
「フィラはしばらくこちらの建物から出ない方がいい」
「……うん」
「あの女には近づくな」
その声には、明確な拒絶があった。
「俺が絶対に近づけない」
フィラは二人を見つめる。
美優のことを相談している。
当たり前のように。
それはつまり、フィラの話を本当だと受け入れている証だった。
フィラは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
その時、ヴァルドがふと低く呟いた。
「……しかし、会談の時点で胡散臭かった」
「ヴァルド?」
「俺は大人として感情を露わにせず対応したつもりだけど」
オズワルドが片眉を上げる。
「どこがだ」
「師匠ほどではない」
「俺は外交として、話を進めるために注意しただけだ」
「かなり怒っていた」
「お前も露骨に嫌そうな顔をしていた」
「してない」
「していた」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
フィラは二人を見つめる。
前世のことを話したのに。
美桜だったことを話したのに。
二人は変わらない。
いつものように、少し言い合っている。
「……ふ」
小さな笑い声が零れた。
その瞬間。
ヴァルドとオズワルドが同時に動きを止める。
「フィラ?」
フィラは涙の跡を残したまま、少しだけ笑った。
「二人とも……いつも通りだなって……」
ヴァルドがようやく小さく息を吐く。
オズワルドも、僅かに表情を和らげた。
やっと笑った。
それだけで、二人は救われたような気がした。
【後書き】
今回はフィラの過去と、“美桜”という存在にしっかり向き合う回でした。
今までもフィラは大公家の人たちに愛され、救われてきました。
でも、前世の傷はずっと奥底に残ったままでした。
だからこそ今回、ヴァルドとオズワルドの言葉が初めて“美桜”に届いたのだと思います。
それでも二人にとって大切なのは、前世ではなく“今ここにいるフィラ”です。




