「迫る影」
少し穏やかだった時間も終わり、また空気が動き始めます。
それぞれの立場や関係性も含めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
ヴェルレイン大公家執務室。
オズワルド不在の今、その席に座っているのはフィラだった。
机の上には書類の山。
領地運営、復興状況、結界維持――確認すべきものはいくらでもある。
以前なら緊張で固まっていたかもしれない。
けれど今は違った。
オズワルドから留守を任されている。
だから逃げない。
「こちらは後で確認します」
「承知しました」
ラルフが静かに書類を受け取る。
その時だった。
廊下から慌ただしい足音が響く。
扉が勢いよく開かれた。
「ご報告します!」
伝令の騎士が息を切らしていた。
室内の空気が一瞬で張り詰める。
「ルクレティア王国軍、大規模侵攻を開始!」
フィラが立ち上がった。
「現在地は?」
「森外縁部を突破、中域へ侵攻中です!」
その瞬間、室内がざわつく。
「またか……」
「何故奴らはこうも容易く森に入れるのだ」
内務官たちの顔が強張った。
二種族を隔てるあの広大な森は、そう簡単に進める場所ではない。
魔物。
瘴気。
複雑な地形。
まともな軍なら外縁部だけで大きく消耗する。
それなのに。
「中域到達までの予測を大幅に上回っています!」
嫌な胸騒ぎがした。
フィラは無意識に窓の外を見る。
森。
静かすぎる。
まるで――何かが道を開けているみたいに。
「フィラ様」
ツェリの静かな声に、フィラは我に返った。
今は考え込んでいる場合じゃない。
「お父様へ急使を」
騎士たちが姿勢を正す。
「皇宮にも最優先で知らせてください」
「はっ!」
「領民の避難準備を進めます。結界確認も急いでください」
次々に飛ぶ指示。
ラルフは既に地図を広げ、侵攻経路の確認を始めていた。
ラースも使用人たちへの指示へ向かう。
慌ただしく動き出す執務室。
その中心で、フィラはしっかり前を向いていた。
数時間後。
ヴェルレイン大公邸は緊張感に包まれていた。
「大公閣下がお戻りになります!」
その声に、フィラは正門へ向かう。
黒馬が止まり、オズワルドが降り立った。
後ろにはライオの姿もある。
長距離移動を急いだのだろう。
土埃と血の匂いが微かに残っていた。
フィラは一歩前へ出る。
「お帰りなさいませ、お父様」
完璧な礼。
大公代理としての出迎え。
オズワルドは静かに頷いた。
「状況は」
「人間側は現在、森中域を進軍中です。異常な速度で侵攻しています」
オズワルドの目がわずかに細まる。
「……そうか」
短いやり取り。
けれど次の瞬間。
オズワルドの大きな手が、フィラの頭へ置かれた。
「よく頑張った」
その一言で。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
「……っ」
視界が滲む。
「お父様……」
気づけばフィラは抱きついていた。
オズワルドはわずかに目を見開いたが、すぐ柔らかく目を細める。
「まだまだ子どもだな」
そう言って、十七歳のレディを軽々と片手で抱き上げた。
「お、お父様……! もう子どもじゃありません……!」
フィラの顔が真っ赤になる。
「そうだな」
口ではそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
翌日。
今度は帝国軍が到着した。
金の龍の刺繍が入った黒旗を掲げた軍勢。
その中央にヴァルドの姿がある。
フィラは騎士たちを従え、正門で出迎えた。
会いたかった。
今すぐ抱きつきたいくらいに。
けれど今の自分はヴェルレイン大公姫。
一歩前へ出て、静かに礼を取る。
「ようこそおいでくださいました、ヴァルド殿下」
ヴァルドもまた、皇太子として応じる。
「出迎え感謝いたします、フィラ姫」
周囲から見れば、格式ある完璧な挨拶。
皇太子と大公姫。
ただそれだけ。
だが二人とも、ほんの少しだけ目元が柔らかかった。
オズワルドが指示を飛ばす。
「帝国軍は第三宿舎へ案内しろ。補給確認を急げ」
「はっ!」
フィラも続ける。
「体調の思わしくない方がいれば治療院へ。ローグ様へ連絡をお願いします」
騎士たちが動き出す。
その後、ヴァルドはアーバインだけを伴い執務室へ入った。
室内にはオズワルド、フィラ、ラルフ、ラース、ツェリ。
知った顔だけ。
扉が閉まった瞬間。
フィラが駆け出した。
「もう!」
すっかりフィラより大きくなったヴァルドへ抱きつく。
「やっと帰ってきた……!」
ヴァルドが目を見開く。
だがすぐ、本当に嬉しそうに抱きしめ返した。
「……うん。ごめん」
頬が少し赤い。
それほど嬉しいのだと伝わってくる。
「ヴァルドが大変なのわかってるもん……」
フィラの声が震える。
「でも……」
ぽろりと涙が零れた。
寂しかった。
ずっと会いたかった。
ヴァルドは愛おしそうにフィラを強く抱き締める。
その様子を見ていたオズワルドが低く言った。
「……もういいだろう」
「お父様!?」
ひょい、とフィラを剥がす。
「帰還早々独占するな」
「師匠、それは横暴です」
珍しく真面目に返したヴァルドに、フィラやラルフが吹き出した。
ツェリもどこか安心したように笑っている。
馴染み深い空気が流れ、皆が戻ったと思えた。
しばらくそれぞれが再開を喜んだ。
一時して扉がノックされた。
「失礼します」
ライオの声だった。
「帝国軍の将校方をお連れしました」
その一言で空気が切り替わる。
フィラは涙を拭い、姿勢を正した。
ヴァルドも皇太子の顔へ戻る。
「通せ」
オズワルドの声と共に扉が開かれる。
入室した将校たちへ、ヴァルドが静かに視線を向け、オズワルドが号令を発する。
「――これより軍議を開始する」
空気が張り詰める。
魔国を守るための戦いが、始まろうとしていた。
今回は久しぶりに「大公家」と「皇太子」という立場を強めに意識した回でした。
フィラもヴァルドも、二人きりの時は素直なのに、人前だとちゃんと“大公姫”と“皇太子”をやっているのが個人的に好きです。
あと、オズワルドは完全に「娘を取られた父」をしています。
一方で、フィラがちゃんと留守を守っていたことを認めているからこそ、「よく頑張った」の一言で甘やかしてしまう感じも出したかった回でした。
そして、ようやく物語も再び大きく動き始めます。




