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第5章【第1話:記憶の回廊】

語り部の王が静かにその重い瞼を閉じたあとも、都の心臓は止まることなく、深く厳かな鼓動を刻み続けていた。


ドクン。

ドクン。


それは、耳で聴くというよりも、足の裏から全身へと染み渡るような響きだった。


静かで、どこまでも平穏。


だが、そこには確かにこの都が永い時を生きているという、力強い生命の証が宿っている。


未完の塔の、気の遠くなるような年月を耐え抜いてきた武骨な石壁を伝い、その規則正しい振動は、さざ波のように広場全体へと広がっていった。


誰もすぐには動かなかった。


動くことすら、この神聖な静寂を汚す不敬にあたるかのように、全員がその場に縫い付けられていた。


それほどまでに、先ほどまで目の前にいた王の言葉は重く、彼らの魂の底に沈殿していたのだ。


『未完を守るか。完成へ進むか』


あまりにも巨大で、あまりにも残酷な選択肢。


その問いの残響は、今なお4人の胸の奥深くで、鈍い痛みを伴って燻り続けている。


進むべきか、留まるべきか。


正解のない問いが、静寂の中で彼らの思考を支配していた。


そのとき、どこからともなく一陣の風が吹き抜けた。


しかし、それは今までに彼らの肌をかすめていった風とは、明らかに異質のものだった。


岩を削り、形を変えようとする冷徹な拒絶の風ではない。


かといって、その場にすべてを留め置き、停滞を強いる停滞の風でもない。


それはまるで優しく背中を押し、未知なるどこかへ導こうとする、意志を持った温かい風だった。


ティアがそっと目を閉じる。


風の声を聞くように、彼女の長い睫毛が微かに震えた。


髪を揺らす風の流れを、五感を研ぎ澄まして追いかける。


その風がどこから生まれ、どこへ向かおうとしているのかを、彼女の魂が感じ取っていく。


やがて、ティアはゆっくりと、確信を込めて瞼を開いた。


「……道ができてる」


その囁くような呟きにルゥ、セリス、エリアスの3人が一斉に振り向いた。


ティアの視線の先。


それは先ほどまで語り部の王が鎮座していた、その真後ろだった。


頑強にそびえ立ち、行く手を阻んでいたはずの厚い石壁。


今までただの壁でしかなかったその場所に、細く繊細な光の筋が、奥へと向かって真っ直ぐに伸びていた。


いや、よく目を凝らせば、それは単なる光の束ではなかった。


それは、無数の、文字だった。


空中を気まぐれに漂う、淡く透き通った文字列。


それは古代の歌詞のようにも見え、あるいは誰かが書き残した古い物語の断片のようにも見える。


青白く発光するその文字の一つひとつが、まるで意思を持つ生き物のように互いに手を取り合い、繋がり合い、闇の奥へと続く一本の幻想的な道を形作っていた。


その瞬間、セリスが腕に抱えていた古びた楽譜が、カタカタと小さく震え出した。


ページに刻まれた未完の旋律が、目の前の文字の道に呼応するように、微かな、しかし澄んだ音色となって反響する。


「……呼んでる」


セリスは、誰にともなくぽつりと呟いた。


その視線は、文字の道のさらに先、果てしない闇の向こう側をじっと見つめている。


呼んでいるのは、先ほどの王ではない。


この未完の都そのものでもない。


もっと、ずっと遠い場所。


まだ自分たちが辿り着いていないどこかで、見知らぬ誰かが、向こう側から必死に手を伸ばし、自分たちを導こうとしているような、そんな確信に近い奇妙な感覚が彼女の全身を包み込んでいた。


エリアスが腰の剣の柄に無造作に、だが力強く手をかけた。


カラン、と金属の擦れる音が静寂に響く。


「行くしかないな。ここに留まっていても、あの王の問いの答えは見つかりそうにない」


その言葉に、ルゥは深く頷いた。


その瞳に迷いの色は一切なかった。


数々の困難を乗り越え、ここまで来ておいて、今更引き返す理由などどこにもない。


彼らはこの未完の都の真実を知った。


そして、歴史を紡いできた語り部の王とも相まみえた。


ならばその先に続く、まだ誰も目にしたことのない物語の続きを、自分たちの目で知らなければならない。


「行こう、みんな」


ルゥの短い促しに導かれ、4人は一歩、光の道へと足を踏み入れた。


その瞬間。


世界が激しく反転するように、周囲の景色がぐにゃりと揺れた。


吹き抜けていた風が、ピタリと止まる。


都を刻んでいた重い鼓動も、急速に遠ざかり、やがて完全に消え去った。


そして、彼らが次に目を開けたとき、目の前の世界はまったく別の姿へと変貌を遂げていた。


そこは、果てしなく広がる空の上だった。


だが、それは昼の青空でもなければ、星が瞬く夜空でもない。


あえて呼ぶならば、それは"記憶の空"だった。


視界のすべてを埋め尽くす空間に、無数の柔らかな光の球が、まるで大河のようにゆったりと漂っている。


それらは夜空の星ではない。


この世界に生きた、あるいは今も生きている、人々の記憶そのものだった。


耳を澄ませば、無数の声が意識の中に直接流れ込んでくる。


屈託のない子供の笑い声。


大切な人を失った誰かの、咽び泣く声。


祭りの夜に響く朗らかな歌声。


永遠を誓い合った恋人たちの約束。


過去を悔やみ続ける男の後悔。


そして、未来へ向けられた切実な願い。


数え切れないほどの多様な人生の煌めきが、すべて光の雫となって、この広大な空間を永遠に流れ続けているのだ。


セリスは圧倒され、思わずその場に立ち止まった。


「……綺麗」


言葉と同時に吐き出された息が、白く震えていた。


その瞳には、万華鏡のような光の海が美しく映り込んでいる。


だが、それは同時に、あまりの壮大さと底知れなさに、めまいを覚えるような恐ろしさをも孕んでいた。


他人の人生の重みに、押しつぶされそうになる感覚。


その光の海の向こう側。


遥か彼方の、雲が渦巻く境界線に、何か規格外に巨大な影が浮かんでいるのが見えた。


それは、島だった。


見渡す限りの白い雲海の上に、傲然と浮かび上がる巨大な浮遊島。


そこには、大地のすべてを支えているかのような、世界樹を思わせる巨大な古木がそびえ立ち、その傍らには、天空を突き刺すように白い塔がどこまでも伸びている。


そして、その島全体を、神聖な、しかしどこか哀しげな光の結界が優しく包み込んでいた。


ルゥの胸の奥で宿る焔が、かつてないほど激しく熱を持って反応した。


「……あれ、だ」


ルゥの言葉に、セリスもゆっくりと顔を上げる。


彼女の手の中で、楽譜が千切れんばかりに激しく震動していた。


ティアの周囲を巡る風が、まるで警戒するように、あるいは歓喜するようにざわめき立つ。


エリアスの腰の剣が、共鳴するかのようにチリチリと微かな金属音を鳴らした。


誰もこんな場所は見たことがない。


伝承にすら残っていない。


だが、その場にいる全員が、直感的に理解していた。


あれこそが、自分たちの次の目的地だということを。


語り部の王が、自らの役目を終えて彼らに託した、真実の場所。


空飛ぶ島。


失われたすべての記憶が眠る、聖域。


そして何よりセリス自身がずっと探し求めていた、彼女の失われた記憶の断片へと繋がる、唯一の場所だった。


しかし、その希望の光が灯った瞬間。


遠くの、島の背後に広がる澱んだ空で、どろりとした黒い何かが不気味に蠢いた。


島を見下ろすようにして現れたのは、天を突くほどに巨大な、闇の影。


これまで未完の都で遭遇し、辛うじて退けてきた闇の手先などとは、格も規模も比較にならない。


それは世界の理そのものを歪めるような、圧倒的な絶望を放っていた。


その影は、空間そのものにパキパキと不吉な亀裂を走らせながら、底冷えするような真紅の目を、ゆっくりと、確実に開いた。


セリスの背筋に、凍りつくような悪寒が走る。


「……見つかった」


誰に言うでもなく、彼女は怯えたように呟いた。


闇の巨影の視線は、まっすぐに自分たちをそしてあの島を捉えている。


あの忌まわしき闇もまた、彼らとまったく同じ場所を目指し、その爪を伸ばそうとしているのだ。


物語は、いま明確に新たな段階へと進もうとしていた。


これまでの、都の歴史を守るための局地的な戦いから。


この世界のすべての記憶、そして存在の根源を巡る、壮大な旅への転換。


4人は、光の回廊の先の雲海に浮かぶ空飛ぶ島をじっと見つめた。


その表情に、もはや恐怖に怯えるだけの弱さはなかった。


そして。


誰からともなく合図を交わすこともなく、彼らは力強く、未来へ向けて一歩を踏み出した。


まだ誰も知らない、自分たちだけの物語の続きを探すために。

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