42.火を囲む者たち②
「それにしても……これだけ立派な建物はできておりますのに、中々埋まりませんわね」
ライヒバッハが、やや寂しげに天井を見上げる。
「まだギデオンの息がかかってるギルド長も多い。
親方衆だけじゃ、勝手に動けねぇんだよ」
ヴォルフの声は低い。けれど、冷えてはいなかった。
むしろ、どこかにくすぶる火のように熱かった。
――何度も殴ってきた。
交渉の席でも、現場でも。
けど、風向きはなかなか変わらない。
その一方で、建物は建つ。食堂は整う。
誰かが見れば「成果だ」と言うかもしれない。
だが、その中身は空っぽのまま。
飾り棚に皿がひとつもないようなものだ。
「ライヒバッハ殿のほうは、まだマシな方ですよ。
イシュリアスから来た仕立屋の工房は協力的じゃありませんか」
ハンザが肩をすくめて笑う。
それは皮肉でも羨望でもなく、単なる事実を並べただけの声。
――そうだ。
確かに、少しずつ動いてはいる。
でも、その「少し」が、あまりにも小さい。
「……ええ。ありがたいことではありますけれど、
絹糸の生産がまだうまくいっておりませんの。
材料がなければ、仕立てようにも布が足りませんもの」
ライヒバッハの口調に滲むのは、職人への責任感か、それとも自分への苛立ちか。
カップを傾けるその手の動きに、わずかに迷いがあった。
「絹なんて、どうせお貴族様しか着られねぇんだ。
俺らの服を縫ってくれるほうが、よっぽど助かる」
ヴォルフは、つい吐き出すように言ってしまった。
それが冷笑か、本音か、自分でもよく分からない。
ただ、刺すような制度の壁があることだけは、確かだった。
――贅沢禁止法。
オルタニア王国では、年収が一定未満の平民に対し、絹や金銀糸、幅広レースの着用が禁じられている。
スカートの裾幅や袖の広がりにも上限があり、見た目の「華美さ」さえ制限の対象となる。
一方で、貴族は正装や式典など、公的な場では絹を着ることが推奨されていた。
平民が絹を身につけることは、「貴族らしさ」を損ない、権威の希釈につながるとされ――
加えて、絹のような高級輸入品を庶民が消費するのは「金の国外流出」にも等しい。
そのため星導教会も、「身丈に合わぬ華美は、罪人の始まり」と説き、民をたしなめるのであった。
「そうよね……まだ、絹糸の安定供給もできていませんし」
ライヒバッハがぽつりと呟く声に、
その現実を肯定するしかない悔しさがにじむ。
「今の工房には、絹服ではなく綿や麻の仕立てを任せたほうが良いのかもしれませんわ。
けれど、それではあの仕立屋たちの腕を活かしきれなくて……」
分かる。
優秀な人材を遊ばせておくほど、レーベルク男爵領に余裕はない。
そんな歯痒さが、またひとつヴォルフの中に沈んだ。
「とはいえ、貴族が少ない領地で“服の仕立て”だけじゃ、さすがにやっていけないだろう」
そう言いながら、視線をグラスの縁に落とす。
指が自然とカップの内側をなぞっていた。
「できれば安定的に絹生地を織っていただけると、
商会としてはありがたいんですがね」
ガストンの声は柔らかかった。
「パサージュの方は、どうなのですか?」
ライヒバッハが話題を変える。
そこに、少しだけ“今を救う答え”を求める気配があった。
「ガストン殿のサント=エルモ商会の麦と、ヴォルフ殿が降ろしている肉のおかげで、どうにか持ちこたえている状態ですかね。
雨が降っていても通路に露店を構えられるので、以前より買い物はしやすくなったはずです」
ハンザの答えは、表向きは前向き。
けれどその目の奥は、次の「でも」を既に準備していた。
「……人の入りは、どうなんだ?」
ヴォルフの問いは、重い石みたいにテーブルに落ちた。
「まだまだ難しいところですね。
通いやすくはなったものの、買い物に回せる余裕のある客は、そう多くありませんから」
ハンザは、肩をすくめて苦笑する。
「……いずれは、女男爵夫に頼らずとも、なんとか回せるようにしていきたいな」
ぽつりと落としたその言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、そこにいた自分自身へ投げた“願い”だった。
◇ ◇ ◇
翌日の早朝。
空はまだ鉛色で、太陽の姿すら見えない。けれど、吐く息は確かに白かった。
レーベルク領内を走る小道を、馬車が軋む音を立てながら進んでいた。
積まれているのは、今朝締めたばかりの猪肉と鹿肉――それから、昨晩のうちに塩漬けや燻製にされた保存肉。
馬を操っているのはヴォルフの古参部下、ロメオ。
そばで荷の布を直しながら、ふと首を傾けた。
「……しかしまあ、冷やして運ぶなんて、贅沢ですよね。
これ、魔導具なんでしょ? 魔石の消耗、大丈夫なんですかね?」
手を止めずに口を動かすその様子に、ヴォルフは鼻を鳴らした。
前を見たまま、わずかに口元をゆがめる。
「さすがに魔石の確保は……お貴族様にがんばってもらわねーとな」
それは冗談半分、本音半分。
貴族が用意した冷却術式付きの箱と、定期交換される魔石。
“ありがたい”ことは間違いない。
けれど、だからといって自分たちの手足が要らなくなるわけじゃない。
「おかげで、うちの肉屋は『魚屋より鮮度がいい』って言われる始末だ」
ロメオがふっと笑う。
笑っても、凍えるような風は止まらない。
早朝の空気が、顔の皮膚をピリピリと刺す。
「今日の一軒目は……あっちの村でしたっけ?」
「ああ」
「しかしまあ、魔術の箱に乗せて、村々に肉を届けるってのは……昔なら夢みたいな話でしたね」
「昔なら、腹減らせたまま死んでた。夢でもなんでもねぇ」
ヴォルフが言い捨てるように呟いた、そのときだった。
――ドンッ!
重い空気を叩き割るような爆発音が、川の向こうから轟いた。
胸の奥に響く低い衝撃。地面が一瞬、じわりと揺れた気がした。
次の瞬間、水車小屋のあたりから、黒い煙が立ちのぼった。
「……爆発だ。ロメオ、止めろ!」
馬の手綱を乱暴に引く。
馬車が急停止し、荷台の肉が軋んで揺れた。
ヴォルフは腰のナイフを確認しながら、荷台から飛び降りる。
着地と同時に足が地を蹴った。
靴底に朝露の冷たさを感じる暇もなく、水車小屋へ向かって駆け出す。
風に混じって、焦げた油の臭い――いや、薬品のような刺激臭が鼻をついた。
煙の中で、何かがまだ燻っている。
水車小屋の水車は半ば吹き飛び、羽根板が裂けたように地面に散乱していた。
木片と泥がまじりあい、煙の底で赤い火がまだ息をしているように揺れていた。
「誰だ!」
ヴォルフが叫ぶと、煙の向こうで一つの影が動いた。
男が顔を上げ、こちらを振り返る。
細身の体、油の染みた作業服。
あの顔――間違いない。
「ハルト!!」
ヴォルフの声に、男の眉が苦々しげにひそめられる。
一瞬ためらったような素振りののち、ハルトは踵を返して駆け出した。
「待て!」
ヴォルフは足を踏み出しかけて――止まった。
火の中に誰かが残っているかもしれない。
「……チッ、逃げ足だけは変わらねぇ」
舌打ちを一つ残して、ヴォルフは水車小屋の方へと駆け込んだ。
火の粉がまだ舞っている中、袖で口元を覆い、残った煙をかき分ける。
まずは火を止める。話は、それからだ。
【あとがき】
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