42.火を囲む者たち①
レーベルク男爵領・商工会館一階。
冒険者ギルドに併設された食堂は、夜の帳にすっかり沈んでいた。
壁に据え付けられた鉄の燭台に灯る蝋燭が、橙色の火をかすかに揺らし、冷たい石壁に淡く波打つ影を落としている。
暖炉の熾火が、ぱち、と小さな音を立てた。
どこか遠くの話のような、昔のことを思い出すような、そんな音。
木製のテーブルを囲んで、ヴォルフは腰を下ろしていた。
両隣にパサージュ組合長ハンザと織物・仕立の組合長ライヒバッハ。
二人とも疲れた顔に薄く笑みを浮かべている。
疲れの質は違えど、どこか似た色をしていた。
ワインの入ったカップからは、ほのかに葡萄の香りが立ちのぼっていた。
皿の上では豚のソーセージがじゅう、と音を立て、溶けた脂がじわりと滲んでいる。
こんがりと焼けたその匂いが、鼻先をやわらかくくすぐった。
空腹でなくとも、腹が鳴る香り。
「こうして肉が気軽に食えるようになったのも、セリーヌ様のおかげですな」
ハンザが嬉しそうに言い、一本つまみ上げたソーセージを皿の縁で器用に転がし、脂を落とす。
そのまま口に運ぶと、目を細めた。
美味いんだろう。
わかってる。
自分でも何度も食ってる。
「ええ。少なくとも、“腹をすかせて働く”段階は脱しましたわね」
ライヒバッハの穏やかな声が響く。
杯を傾けるその仕草が、妙に洗練されて見えるのは気のせいか。
……けど。
ヴォルフはカップに口をつける前に、小さく鼻を鳴らした。
今さら何を、と思った。
けれど、内心では苦いものが引っかかっている。
喉ではなく、もっと深いところに。
「……肉を回さなかった時期は、すまなかったな」
ぽつりと零れた声は、自分でも思った以上に重たかった。
あの頃、何が正解だったかなんて分からない。
ただ、あの場で肉を回さなかったのは自分だ。
それだけは事実だ。
「いや、ヴォルフのおかげで、前領主からセリーヌ様に代わったようなものですから。
むしろこちらこそ、感謝してますよ」
ハンザがにこりと笑ってカップを持ち上げる。
「そうですわね。あのとき、嫌な役を押しつけてしまって――申し訳ありませんでしたわ」
ライヒバッハも真剣なまなざしで、ヴォルフに頭を下げる。
……やめてくれよ、と喉の奥で呟きたくなった。
あれは誰かがやらなきゃいけなかっただけだ。
感謝も謝罪もいらない。
「麦は外頼み、魔獣だって女男爵夫の腕に頼りっきりだ。
……結局、まだ自分たちじゃ何もできてねぇ」
そう呟いたとき、テーブルの空気が一瞬だけ変わった気がした。
自分の声が、蝋燭の揺れを止めたような錯覚さえあった。
そして、扉が開いた。冷えた夜気が一筋、部屋の中に滑り込んだ。
その寒さが、ちょうどいい罰みたいにヴォルフの背筋を通り抜けた。
「おやおや、そんなに肩を落とさずともよろしいでしょう?」
濃紺の外套をまとったガストンが、いつもの涼しい笑顔をたたえて現れた。
腕には革の籠を抱えていて、仕立てのいい袖口がやけに目に付く。
「腹が膨れないよりは、はるかに健全。まずは一歩、ではありませんか」
さも愉快そうに言いながら、籠をテーブルに置く。
その動作は実に丁寧で、無駄がない。
けど――だからこそ、なんだか癪に障る。
中から出てきたのは、小ぶりのオーク樽だった。
ライヒバッハが、それを見てわずかに目を見開く。
「……それは、もしかして」
隣のハンザも、少し眉を寄せる。
「帝国でも有名な、ビーティアのワインではありませんか」
ガストンはゆるやかに頷くと、懐からコルク抜きを取り出す。
その仕草は、まるで舞台で役を演じているように堂に入っていた。
ぽん、と栓が抜ける音が静かに響き、果実の濃い香りが、ふわりと広がった。
……うまそうだ。
悔しいけど、鼻が反応してやがる。
「……小麦の利ざやで買ったってとこか」
思わず口を突いて出た言葉は、皮肉にも本音にも聞こえた。
どちらなのか、自分でもよく分からなかった。
ガストンはその言葉にも動じず、笑みを崩さぬまま、カップにワインを注いでいく。
深紅の液体が揺れ、蝋燭の光を反射して宝石のように煌めいた。
「村ごとに倉庫が建ち、畑が黄金色の麦穂で埋まるその日まで――
もちろん、わたくしの懐も存分に潤わせていただきますよ」
そう言って、ワインを一口含むと、香りを楽しむように目を細めた。
……こういう奴だ。
調子がいい。腹が立つほど軽口だ。
でも――この領地がまだ息をしてるのは、こういう奴がいるからでもある。
だから、否定しきれない。
それがまた、たまらなく悔しい。
「利ざやと言っても、レーベルク男爵領の小麦は他より安い。
大して儲けにならんでしょう」
ハンザが軽く眉を上げながら言葉を挟む。
「ええ、ですが――ご領主様から、きちんとお支払いただいてますので」
ガストンは微笑を浮かべたまま、軽く首を傾ける。
「なるほど……でしたら、私たちもセリーヌ様に感謝せねばなりませんわね」
ライヒバッハが小さく笑い、カップを傾けながら頷いた。
「とはいえ――倉庫が建つのは、いったいいつになるんでしょうな」
ハンザは苦笑しながらワインをひと口含み、ぽつりと呟いた。
「そうだな……すぐに、というわけにはいかねぇだろう」
ヴォルフは、自分の声が酒の中で沈んでいくような気がした。
揺れる深紅の液体が、どこか他人事に見える。
「そうですね。こうも木材や鉄が入ってこないとなると……
仕事をしたくても、肝心の資材がない、というのは辛いところです」
ハンザが息を吐き、視線をテーブルへ落とした。
その肩が、妙に小さく見えた。
「イシュリアスからのルートは……まあ、現状では望み薄でしょうな。
塩や日用品の類は、北のルートから何とか持ち込めておりますが――
木材や鉄となると……さすがに、いくつもの山を越えて運ぶのは難しゅうございますな」
ガストンが肩をすくめ、相変わらずの笑みを見せる。
その笑顔の柔らかさが、逆に現実の硬さを際立たせた。
――資材がない。
頭じゃ分かってる。
でも、「分かったところで、何だ」って話だ。
人を動かすのは言葉じゃなく、物と金。
そのどちらも足りてないのに、期待だけは肥大していく。
どこかで自分は、「誰かが何とかしてくれる」なんて思ってるんじゃないか?
そんなはずはないのに――思ってないつもりで、心の奥では甘えてるのかもしれない。
苦い。
ワインのせいか、気持ちのせいか――もう、分からない。
「領内で木材を取るにも、王都周辺と比べて魔獣が多いですからね……」
ハンザがカップを傾け、眉をひそめる。
その一言が、静かに現実の重さを増幅させた。
「女男爵夫様が、王都で冒険者を募っているようですよ」
ライヒバッハが柔らかく続ける。
その声には、かすかに“希望”の音が混じっていた。
「ああ。つい先日、村がひとつやられたばかりだからな。
……魔獣の肉は増えたが、喜んでいい話でもねぇ」
ヴォルフの口から漏れたのは、どこにもぶつけようのない憤りだった。
「でも、死者は一人も出なかったのでしょう?」
ライヒバッハが確認するように訊く。
それは励ましなのか、祈りなのか、慰めなのか――
「そのようですな。被害は建物だけで済んだようで」
ハンザが頷き、場の空気がわずかに和らいだ。
けれど、誰の表情にも、真の安堵はなかった。
なぜ魔獣が村を襲ったのか――その理由は、いまだ分かっていない。
ならば、次もあるかもしれない。
理不尽な牙が、またどこかを喰らうかもしれない。
その“わからなさ”こそが、一番の恐怖だった。
カップの中の赤いワインが、蝋燭の火にかすかに揺れていた。
暖かいはずのその色が、なぜかひどく冷たく見えた。
【あとがき】
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