第一話 使い捨ての毒味役
王宮の大広間は、まばゆいシャンデリアの光に満ちていた。
銀の食器が並ぶ長卓の端で、セラフィーナ・レインは静かに立っていた。毒味役――王家の食事に毒がないかを、自らの舌と命で確かめる下働き。十年、彼女はその役目を果たしてきた。
今宵は、婚約者である第二王子アルフレートの誕生を祝う宴。本来なら、婚約者として彼の隣に座っていてもよいはずの席だった。けれどセラフィーナの居場所は、いつも壁際だ。
「セラフィーナ」
名を呼ばれ、顔を上げる。アルフレートが杯を片手に、こちらへ歩いてくるところだった。その隣には、侯爵令嬢ミレーユ。豪奢なドレスに身を包み、勝ち誇ったように微笑んでいる。
「今日をもって、お前との婚約を破棄する」
広間の喧騒が、水を打ったように静まった。
「……理由を、お伺いしても」
声が震えないよう、腹に力を込める。アルフレートは鼻で笑った。
「理由だと? お前のような女を隣に置いていられるものか。毒に強いだけの、無教養な女。社交も知らず、話す言葉は薬草の名ばかり。王子の妃にふさわしいのは――」彼はミレーユの腰を抱いた。「彼女のような、華のある女だ」
ミレーユが扇の陰でくすりと笑う。「あら、毒味役さん。今までご苦労さま。あなたの代わりなんて、いくらでもいるのよ」
セラフィーナは何も言わなかった。反論する言葉は山ほどあった。だが、この十年で学んだのだ――理解する気のない相手に、言葉は届かない。
そのときだった。
長卓についていた老貴族が、杯を口に運ぼうとした。セラフィーナの目が、その杯の表面――かすかに揺らぐ油膜のような光沢を捉えた。
「お待ちください!」
考えるより先に、体が動いていた。セラフィーナは卓を回り込み、老貴族の手から杯を叩き落とす。赤い葡萄酒が大理石の床に飛び散った。
「な、何をする!」
「その酒には、附子の毒が。……舌に触れれば痺れ、量が多ければ半刻で心の臓が止まります」
広間がざわめいた。給仕が慌てて杯を確かめ、青ざめる。宮廷医が駆け寄り、床の酒に触れ、匂いを嗅ぎ――そして、震える声で告げた。
「……間違い、ありません。これは、猛毒です」
誰かの給仕の手違いか、あるいは。だが今、それを問う者はいなかった。皆の視線が、セラフィーナに注がれていた。
アルフレートだけが、苛立たしげに舌打ちをした。
「たまたま気づいただけだろう。毒に鼻が利くのだけが取り柄の女だ。……早々に城を出ていけ。二度とその顔を見せるな」
セラフィーナは深く一礼した。何も言わず、踵を返す。
――たまたま、ではない。
三年前、王妃の茶に混ぜられた遅効性の毒を見抜いたのも。五年前、王の狩猟の携行食に仕込まれた毒を防いだのも。すべて、彼女だった。誰にも知られず、功績を求めず、ただ王家の命を守り続けてきた。
毒味役とは、毒を「味わう」役ではなかった。毒を「読む」役なのだ。そのために彼女は、この国の誰よりも毒と薬に通じた薬師となった。ただ、そのことを、彼らは知らないだけ。
荷物といえるほどのものもない。使い古した薬箱ひとつを抱え、セラフィーナは月明かりの下、城門を出た。
――これから、どうしよう。
行くあてはない。けれど不思議と、胸の奥は静かだった。あの場所に、もう戻らなくていい。それだけで、十年ぶりに息ができる気がした。
城門を出てしばらく歩いたところで、一台の馬車が道端に停まっていた。見慣れぬ紋章――隣国ヴァルダの、剣と薬草を組み合わせた王家の紋。
御者台から、外套をまとった壮年の男が降りてくる。彼は薬箱を抱えたセラフィーナを認めると、深々と頭を下げた。
「セラフィーナ・レイン様で、お間違いありませんか」
「……どうして、私の名を」
「わたくしはヴァルダ国、侍医ゴットフリート。あなた様を、お迎えに上がりました」
セラフィーナは目を見開いた。
「迎え……? 私を?」
老侍医は、真剣な目でうなずいた。
「あなた様のお噂は、かねてより。王家の命を陰で救い続けた、名もなき薬師がいると。――我が国の王が、あなたを必要としております」
馬車の扉が、ゆっくりと開かれる。
「どうか、我が国へ。あなたの力が、王をお救いするのです」
夜風が、セラフィーナの頬を撫でた。
捨てられた場所の門を出た、その先に。まだ見ぬ道が、確かに続いていた。




