第3話 初恋
並んで歩き出すと自然と歩調が揃った。
美稲の足音は自分の歩幅と同じだ。
まるで昔のように……不思議と違和感は感じなかった。
俺たちの家は、ここからなら歩いて十分と少し。
小さい頃から数え切れないくらい並んで歩いた道だった。
「一緒でいい?」
美稲が言った。
「ああ」
普通に返せたことに、自分でも少し驚いていた。
「相変わらずね」
「そうか?」
「うん。もうちょっと話したかったな……送ってくれるの?」
美稲が小さく笑った。
「悪い。送ってくよ」
少し気まずくなって、言葉少なく肩を並べた。
ポツンポツンと続く街灯が足元の影を伸ばす。
コンビニの前を通りかかった時、思わず首を傾げ足を止めた。
ここは……駄菓子屋だったはずだ。
小さい頃はよく通ったなと懐かしくなった。
「変わったね」
振り返った美稲が言った。
「何が」
「ここ。昔、岩沼商店だったよね」
「ああ」
疑問を汲んで話題をくれたことに、思わず頬が緩んだ。
「あそこのおばあちゃん、よくアイスくれたよね」
「そうか? 俺にはなかったと思うけど?」
「嘘。もらってたよ」
「うーん。美稲のおまけじゃないか?」
「そうだったかな」
「そうだよ」
クシャッとした笑顔。
そういえば、美稲はイタズラが成功したり、ちょっと照れた時にこんな表情を見せていた。
ふと岩沼商店を思い出した。
中学生になってここに来た記憶はほとんどなかった。
通っていたのは小学生までだったか。
「和泉小のときはよく行ったよな」
「帰り道だったね」
「そうだ。中学は逆だったもんな」
「道が変わっただけなのにね」
「そうだな」
ほんの少しの距離なのに、道が変わっただけで足が遠のく。
楽しかった思い出は共通で、懐かしい話に花が咲く。
途切れなくなった会話に、見えない手で胸をなで下ろした。
けれど、握った手に力を入れては抜いてを繰り返していた。
ギュっと拳を握って、燻っていたものを口にした。
「結婚したんだな」
「うん」
美稲は少し驚いた様子で、でも嬉しそうに応えた。
「幸せそうだ」
「……うん。幸せだよ」
美稲は少し黙って……そして、照れたように笑った。
「っ……」
声が出そうになる。
気付かれないように、ゆっくり息を吐き出すとビールの苦い香りがした。
ずっと見てきた、ずっと焦がれてきた笑顔。
美稲からは見えない反対側の拳をまた強く握りしめる。
「旦那さん、いい人なんだな」
「うん。いい人」
「そっか」
「少し不満はあるけどね」
「靴下か?」
「聞いてたの?」
「聞こえてた」
「ほんとに脱ぎっぱなしなの。何回言っても直らないのよね」
美稲が笑って、俺も笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「……」
しばらく沈黙が続いた。
ブワッと風が巻き起こって、アスファルトの匂いがした。
地面の熱が、まだ存在を主張しているかのようだ。
遠くからは犬の吠える声が聞こえる。
声を出そうとして口を開いて閉じた。
何度か繰り返して、ようやく言葉をひねり出した。
「なあ……」
「何?」
俺は足を止めた。
美稲も数歩先で止まり、振り返った。
「どうしたの? 相談事?」
「いや……高校の時」
声が掠れた。
ほんとに言っていいのか?
「うん」
「いや……」
ためらいながらも口を開く、身体は逃げ出したくて仕方がなかった。
「俺、ミイが好きだった」
言った。
言ってしまった。
胸の奥がジクジクと痛む。
「コウ……」
美稲は目を見開いた。
何かを言おうとして、言葉が選べないような何とも言えない顔をした。
「今さらだけど……」
おどけて笑おうとして、失敗した。
きっと引きつったような顔をしているはずだ。
美稲を見ると、真剣な表情になっていた。
目は真っ直ぐに俺を見ている。
背中に冷や汗が流れた。
今、どこに立っているのか、足元の感覚が無い。
「……うん」
「で……さ」
息を吸う。
一息目は呼吸を忘れてしまったかのようにうまく吸えなかった。
少し詰まって……大きく深呼吸し、息を吐き出すように言葉を出した。
「結婚すると思ってた」
美稲の表情が固まった。
自分の心臓は激しく脈打っていて、顔も熱い。
通り過ぎた車のライトで顔の陰影が変わり、美稲の表情が揺れて見えた。
「本気で」
言葉は止まらなくなった。
昔、はっきりとは言語化できなかった気持ちが溢れ出した。
ずっと見ないように避けてきたのに。
「あの頃、周りもそう言ってただろ。夫婦だとか、もう付き合ってるとか」
美稲が小さく頷いた。
ツバを飲むと喉が鳴った。
「俺、否定しなかった。ミイも笑ってた。だから……」
「同じ気持ちだって……」
「このまま一緒にいて、大学行って、働いて、そのうち結婚するんだって」
「……」
「馬鹿みたいだろ?」
美稲は何も言わなかったが、頭を横に振った。
「笑う時、隣にいるのは俺だと思ってた」
声が震えた。
「今日……ミイが子供の写真見せて笑ってるの見てさ」
喉の詰まりを、つばを飲み込んでほぐす。
拳に爪が食い込んで痛い。
「俺じゃなかったんだなって……」
美稲の顔が歪んでうつむいた。
何を伝えればいいのだろう?
何を伝えたかったんだろう?
どれくらい時間が経ったのか、美稲が顔を上げ口を開きかけた。
俺は言おうとした言葉を遮った。
「ごめん。困らせるつもりじゃないんだ」
小さな声だった。
「ううん」
「でも……」
俺は首を振った。
「あの日、彼氏ができたって聞いてなんにも考えられなくなった」
美稲は唇を噛んだ。
「……なんとなく」
ぽつりと、美稲が言った。
「ホントはなんとなく、そうなのかなって……」
首筋だけが後ろに引っ張られる。
昔の自分に引きずられないように踏ん張った。
「そうなの?」
「うん」
「分かってたのか?」
美稲は頭を振って視線を落とした。
「よくは分からなかったの」
「えっ?」
「たぶん……」
「?」
どういうことか?と考えようとするがまとまらない。
美稲は思い出すように言葉を選びだした。
「コウといるのは当たり前だったの」
「ああ」
「楽しくて、落ち着いて……一番安心できた」
「なら……」
「でもね」
「だから、ほんとに分からなかったの」
「分からない?」
頷く美稲。
「恋なのか……安心感なのか……」
「……」
「先輩に告白された時、嬉しかったの」
美稲が胸に手を当てた。
「好きって言われるのが初めてで。ここがね嬉しいって言ってたの」
「えっ」
初めて?
言ってもいなかった?
嘘だ。
あの日までを思い返す。
俺は隣にいて……隣にいて楽しかった。嬉しかった。
でも……伝えたか?
好きと言ったか?
照れ臭くて小さな愛情表現すらしてなかった。
そばにいるのが当たり前。
胡座をかいていたのは俺か?
美稲が誰と付き合おうが自由。
そんなの分かってる。
分かっている。
分かっていたはずだ。
それをようやく飲み込めかけたのは最近だった。
だから、渋々ながらも帰ってこれた。
「……それで付き合ったのか?」
「うん」
怒りは……湧かなかった。
「俺が言ってたら……」
なんて言葉が喉まで出かかった……が辛うじて抑え込んだ。
答えは聞かなくても分かる。
「俺は? って聞いた時、ミイが素っ気なさすぎて、ああ違ったんだって思った……」
「……で、裏切られたように感じたんだ。俺たちの時間はなんだったのかって……」
自分の声が、高校生の頃の自分と重なる。
責めるつもりはなかったが、口調はキツイものになっていた。
美稲は小さくうなずいた。
「あの頃は近すぎて……自分でも、分からなかったの」
「……」
「周りの声じゃなくて、コウから好きって言われてたら……」
「ごめん……でもね。私にとって直接な言葉がとても大きかったの」
「だから先輩に告白されて嬉しかったし、私も好きになったの」
美稲が真っ直ぐ見つめてくる。
視線が熱い。
「三年はクラスが違ったよね」
「ああ」
「振られたの」
「えっ? 振られた?」
「うん。大学行ったらすぐ、次の女ができてポイ」
「ミイを?」
美稲が頷く。
信じられなかったし、気が付かなかった。
いや、見るのも拒絶してたんだ。
だからといって何ができた?
「実質半年くらいかな? 付き合ったのは……楽しかったけど……」
「梯子を外されたっていうか、振られてすごく寂しくなって……」
美稲が顔を上げた。
迷いの無い表情が綺麗だ。
「コウと一緒にいた時を思い出した。ずっと自然だったって」
目を見ると視線が絡み合う。
「勝手でしょ?」
「ああ」
「でね、何度か話に行こうって思ったの」
「そっか」
あの時期を思い出す。
美稲に会えてたら、どうなった?
きっと……。
「家には行けないって思ってて……でも、なんかタイミングが悪くて……」
「ある時、教室にいったらコウはいなくて達也君に怒られた」
「達也が?」
「キープにでもするつもりかって」
「そんなんじゃないって言いたかったけど、何も言えなかった」
「先輩卒業しちゃったから……私の状況って誰も知らないんだよね。私も言ってなかったし」
「そんなことが……」
でも、俺ならなんて言ったのか?
あの頃に会ってたら……達也の言葉はまだ優しい。
「それから怖くなって、彼氏がいる振りしたまま卒業して……」
「結局、話もできなかった」
知らなかった。
そんなこと。
「でもね。大学に入ってから、一回、会いに行ったの」
「え?」
「家の方にね。行ったのよ」
美稲は苦笑した。
聞いてない。
「おばさんに帰ってって言われた」
母さんが?
顔が強張った。
「母さんが?」
「うん。あの子をこれ以上苦しめないでって」
「マジで?」
信じられない……あの母さんが?
玄関口で美稲を追い返した?
『いつまでうじうじしてるの!』
頬の痛みがぶり返す。
「うん。あんな苦しそうな顔初めて見た」
何も言わなかったじゃないか。
どんな顔で美稲を拒んだのか。
さっき、母さんはどんな顔をしてた?
どんな気持ちで俺を叩いたのか…母さんのことを考えたこともなかった。
ちらりと美稲の手を見ると、指輪が街灯の光を返した。
もし、そこで繋がっていたら?
「それで……帰った?」
「うん」
「それだけ?」
「それだけ」
美稲は泣きそうな顔で笑った。
もし……その時に向き合うことができたなら、今も当たり前のように歩いたのか?
こんな答え合わせじゃなくて……。
「もっと粘ればよかったのかもしれない」
「いや……」
「でも、コウをそんなに傷付けてたなんて想像もしてなくて……また怖くなった」
「……」
「もう諦めようって思った」
「それから、何人かと付き合って旦那と出会ったの」
「……」
「旦那はね。一緒にいて違和感がないの。すごく落ち着くの」
「うん」
「なんでか私が迷った時がわかるのね。『大丈夫だよ』って抱きしめてくれるの」
「ああ」
そっか。
俺は自分を分かってほしかっただけ……。
「だから、この人とならちゃんとやっていけるって思った」
遠くを見つめる目。
思い浮かべているのは、きっといつもの日常なんだろう。
「それで結婚した?」
「うん。好きだけじゃ駄目だって分かったから……って、旦那はちゃんと好きだよ?」
「ああ。で、幸せになったんだな」
「うん」
美稲はまっすぐに俺を見た。
「幸せ」
嘘のない、真っ直ぐな言葉。
「そっか」
俺は空を見上げた。
拳はもう開いていた。
ポリポリと頬をかく。
雲はなくなって晴れてはいるが、星はあまり見えない。
ポツンとした街灯でさえ星の光を打ち消していた。
「俺、ずっとこだわってた」
「うん……」
「それが楽だったんだ」
笑おうとして、今度は少しだけ表情を作れた。
美稲が首を傾げた。
「楽?」
「そう。だれかのせいにしてた。俺は悪くないって」
「……そうなんだ」
「ああ。ミイ抜きで完結してた」
「そんなに好きだったの?」
「そう聞かれると困るな……」
「あっごめん」
俺は首を横に振った。
「いや、いいよ」
お互いの目を見つめる。
美稲の目が潤んでいるように見えるが、気のせいか?
「好きだった……誰よりも」
「……うん」
「十年くらい遅いけど」
「うん」
肩から力が抜けた。
美稲の指輪はあるべくしてそこにあって、隣にいるのは俺じゃない。
自然に笑顔がでた。
「……元気で」
「コウも」
「ああ」
「今度はコウの話を聞かせてね」
「それは分からない」
「なんでよ」
「まあ努力はするさ」
「そこは……もうっ」
「いや、すまん」
美稲は少し笑い、俺も笑って返した。
次のT字路で別れる。
「じゃあな。美稲」
「うん。またね」
お互いの家へ足を踏み出した。
交差点に立つ街灯から反対方向に影が伸びていく。
曲がり角で一度だけ振り返ると、美稲も振り返っていた。
互いに小さく手を上げた。




