第2話 友人
夜道には点々と街灯が灯っている。
明るさは、東京とは比べるべくもない。
気がつけば公園の前。
暗くてよく見通せないが、懐かしさが込み上げてくる。
道も街並みも身体が覚えていた。
ずっと忘れたくて、思い出さないようにしていた記憶。
それが、あっさりと蘇ってしまった。
さっきの母さんの顔が頭に浮かんだ。
つい怒鳴ってしまったが、あれは俺に怒っていたんじゃない。
でも、認めたくなかった。
「クソッ」
小石を蹴飛ばすと、電柱に当たってカツンと音を立てた。
ズカズカと踏み込んできた母さん。
それがあんな表情をするなんて……。
頬が熱く、叩いた手のひらの熱が残っているかのようだった。
久しぶりに会う友人につまらない顔を見せたくなかった。
少し遠回りをして居酒屋を目指す。
空は薄曇りで、月も星も見えなかった。
指定された居酒屋に着いた頃には、気持ちは落ち着いていた。
個室に通されるとグラスは減っていて、既に始まっているのがわかった。
時間かけすぎたかと、焦って時間を見るが、そこまで遅くもない。
あまりの早い集まりに、暇人……と、失礼な言葉が頭に浮かんだ。
「おお、久しぶり」
手を振ってきたのは大和。
集まりを手配してくれた……今でも繋がっている唯一の友人だ。
この席は全員に呼びかけた訳では無い。
大和に連絡を取ると『少し声かけるな』と懐かしい友人たちを誘ってくれたのだ。
しかし、思ったよりも人数が多い。
「生きてたか」
「変わんねえな、お前」
「いや老けたろ」
「おう。久し振り」
「みんな早いな。遅くなってすまん」
「まあ、主役はこっちだ」
次々と声が上がって、卓の中央へ座らさせられた。
懐かしい高校時代の友人たち。
「お前、ほんと帰ってこなかったよな」
「仕事が忙しくて」
「出たよ。都会人の言い訳」
「便利なんだよ」
「まあよく聞くよな」
「じゃ主役が来たとこで、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
ジョッキを打ち鳴らして、視線を交わし合った。
喉を苦い炭酸が突き抜けていった。
ビールが美味い。
あっという間に一杯目が空になった。
ふぅと息を吐いて顔を見れば、みんな年相応に歳を刻んできたようで、経験が顔に滲み出ていた。
十年は長かったなと、ぎこちなく会話を始めた。
少しずつ確かめ合うように、徐々に昔を思い出していく。
そもそもの目的だった母さんへの愚痴は……この人数では話したくない。
けれど、高校時代はそれなりに仲良くつるんだのだ。
酒が進むにつれ遠慮の壁も低くなっていった。
「広瀬、あいつ離婚したらしいぞ」
「マジか」
「子供二人いるのにな。大丈夫なのか?」
「うちは二人目が生まれた」
「おお、おめでとう」
「可愛いぜ。でも寝不足で死にそうだけどな」
「うちなんか上が小学生だ。算数を教えるのって意外と難しいのな」
「お前、昔から勉強できなかったもんな」
「うるせえ」
笑い声が上がる。
俺も笑った。
笑いながら、頬が引きつるのを感じていた。
みんな活き活きと……輝いて見えた。
家庭の話が聞こえる度に、後ろめたさのような、気後れが積み上がっていく。
レールが外れたまま走ってしまったようなズレ。
聞けば聞くほど自分の影が薄くなっていく。
ただの近況報告が、お前はどうなんだ?と問い詰めてくるようだった。
被害妄想も甚だしい。
俺も、仕事の話はできる。
東京の話もできる。
映画や本の話ならいくらでもできる。
ただ、できる会話は学生時代のものと何が違うのか?
みんなは当たり前のように変化した。
会話の中身は自分から家族へ……。
その変化が俺にはない。
十年は無為な時間だったのか?
自問自答に、持ち上げた大ジョッキがやけに重くなっていた。
「そういや、来るって言ってたんだけどな」
大和がスマホを見ながら言った。
「誰が?」
「遠刈田」
「えっ誰だ?」
「ああ、そっか鳴子さんだよ。今は遠刈田。美稲さん。仲良かったんだろ?」
耳疑った。
美稲。
体が固まる。
鳴子美稲。
記憶がフラッシュバックする。
家が近くて、小中高校と同じ学校で、クラスもほとんど同じだった。
朝は一緒に登校し、昼も一緒。
さらに一緒に帰ることも多く、散々からかわれた。
周りからは、夫婦だの、付き合ってどれくらいだ?
それは色々と言われてた。
お互いに否定しなかった。
俺自身、周囲の言葉と同じだと思っていた。
だから、揶揄われても笑って流していた。
……そして、美稲も同じだと思い込んでいた。
ずっと……好きあっていると……。
このまま、一緒になるのだと。
「遅れてるみたいだな」
大和の声で我に返る。
帰ろうかと思った。
腰を上げようとした瞬間、個室の扉が開いた。
「ごめん、遅れた」
懐かしい声が響いた瞬間、浮きかけた腰が止まった。
振り向こうとした首が、機械のようにギギギと嫌な音を立てる。
首より先に視線が女性の姿を捉えていた。
……美稲。
一瞬で分かった。
ゆるくハーフアップにした薄茶色の髪。
昔のふわふわしたイメージよりもずっと大人びていた。
やわらかそうな目元、笑うと少しだけ口元が幼くなる。
グルグルと記憶が乱れ飛んだ。
高校時代の彼女が、そのまま大人になって立っていた。
懐かしさに引きずられそうになるが、違う。
違うのだ。
確認するように目を動かすと、左手の薬指に指輪がある。
美稲は視線を泳がせると、俺を見て目を丸くした。
「……久しぶり」
美稲が言った。
しみじみと、本当に久しぶりに会えた旧友に話しかけるように声を出した。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「ああ久し振り」
それだけ返すのが精一杯だった。
「ほんと久しぶりだね。帰ってきてたんだ」
「まあ」
「十年ぶりくらい?」
「たぶん」
「そっか」
少し笑った笑顔が記憶と重なっていく。
大人びた美稲の顔が、あどけないあの頃に変わっていき、視界が揺れた。
高校二年の昼休み。
梅雨時にしては珍しく、教室の窓からは明るい光が差していた。
弁当箱を持った俺は、いつものように美稲の席へ行った。
「今日はどこで食う?」
同じクラスになってからは、ずっと一緒に昼を食べていた。
天気もいいし、中庭もいいかもな。
なんて呑気に考えて問いかけた。
美稲は小さい弁当箱を鞄から出しながら、何でもないことのように言った。
「ごめん。今日から彼氏と食べるね」
教室の空気が止まった。
近くにいた奴が、え、と声を漏らした。
俺も同じ顔をしていたと思う。
「彼氏?」
「うん」
「誰の?」
「私の」
「……え?」
「昨日、告白されたの。だから付き合うことにしたの」
へへへと、美稲は少し照れたように笑った。
意味が分からなかった。
彼氏。
告白。
付き合う。
この単語が、自分たちの間にない。
理由が分からなかった。
「な、んでっ……」
「なんでって?」
「俺は?」
美稲はきょとんとした顔をした。
「え?」
分かった……。
分かってしまった。
俺が思っていたものは、美稲の中にはなかった。
好き。
その気持ちが美稲にない。
「ごめん、待たせちゃうから行くね」
美稲は弁当箱を持って立ち上がり、小走りに教室を出ていった。
肩が弾む後ろ姿を、ただ呆然と見るしかない。
誰かが何かを言った気がする。
慰めだったのか、冷やかしだったのか。
昼休みの教室が急に静かに、そして広くなった。
気がついたら放課後で、さらに瞬きしたら自分のベッドの上だった。
「遠刈田、子供いくつになった?」
とうがった……遠刈田……あぁ……鳴子、美稲か。
瞬きをすると、美稲は座っていて大和が質問していた。
喧騒に意識が戻る。
美稲がタブレットを手に、楽しそうにドリンクを選んでいた。
「もう三歳。ほんと大変なんだから」
「写真見せろよ」
「いいよ。見る?」
嬉しそうにスマホを取り出すと、視線が集まった。
「きゃあ可愛い!」
「可愛いな」
「旦那さん似?」
「えー、私に似てると思うんだけど」
「いや目元は旦那なんじゃ?」
「そうかなあ」
美稲は幸せそうに笑っていた。
子供の写真を見せながら、頬を緩めている。
「最近はプリキュアにはまっててね。朝からずっと変身してるの。ほらこれ」
「やっぱ、女の子のコスっていいよね…」
「でしょ!パンツが見えてるのよ!かわいいよね」
「うちもしてるわよ!」
「わあいいわね」
「遠刈田もそういうの好きだったんだな」
「どうだったかなぁ。でも娘と一緒に踊るのも楽しいんだよね。旦那は横で寝てるけど」
「旦那さん何してる人?」
「会社員。先輩だったの。ちょっと真面目すぎるけど、優しいよ」
……真面目。
……優しい。
感情だけが、一気に高校時代に戻る。
俺は?優しくない?
違いがわからない。
混乱して上手く考えがまとまらない。
「優しいけど、変なとこがルーズなんだよね」
「おっ、のろけか?」
「そんなんじゃないって。靴下脱ぎっぱなしにするのよ」
「安心してんだろ? のろけじゃねえか」
「そっかなぁ。でね……」
不満はあるが、満たされている。
それは分かった。
とたんに口に含んだビールが苦くなった。
ドロっとして感触が舌の回りに広がる。
炭酸を一瞬だけ感じたあと、鼻から苦味が抜けていった。
顔をしかめても味は変わらない。
恐らく何を飲んでもひどい味がしただろう。
その後の会話はよく覚えていない。
ただ、美稲の笑顔がずっと視界の端にあった。
俺が隣にいると思っていた笑顔。
夫と子供の話をしながら浮かべる笑顔。
(ああそっか)
胸の奥のモヤモヤが、モヤモヤではなく新しい形になっていく。
「そろそろかな」
田舎は解散も早い。
誰が声を出したのか、夜九時を過ぎた頃に終了の空気が流れた。
結局、美稲との会話もほとんどできず仕舞い。
店の前で解散になり、それぞれが代行やタクシーを呼んだりしていた。
同じ方面は大和と美稲の二人。
歩き始めた二人を追いかけるように足を踏み出す。
美稲を真ん中に俺と大和が並ぶ。
なんかいたたまれなくて、話を振れない。
気を利かせてか大和が口を開いた。
「今日は実家から?お嬢さんも?」
「そうなの。ばあばが面倒見てくれてるのよ」
「旦那には?」
「もちろん知ってるわよ」
「そりゃあそうか」
「たまには楽しんでってね」
「目を離すのも心配じゃないか?」
「ばぁばがいるから安心よ」
美稲が上を見てクスリと微笑んだ。
きっと娘と母さんの姿を想像したのだろう。
「おっ、俺はここで」
「うん。またね」
「じゃあな。また近いうちに。香一も元気でな」
「ああ。また」
大和が俺の肩を軽く叩いた。
「また飲もうぜ」
「ああ」
「今度は十年空けるなよ」
「分かった」
大和を見送ると、美稲と二人きりになった。
家の近い美稲も同じ方向だ。
一人で帰す訳にはいかず、そこそこな時間二人きりになる。
なくなった会話に喉が苦くなり、ツバを飲み込んだ。
気付かれないように息を吐き、夜空を見上げる。
相変わらず星は見えず、薄い雲が街の明かりで白く光っていた。




