第1話 帰省
「5のA、5のA……と、あった」
新幹線に乗り込み自分の席番、窓際の席を確認する。
荷物を網棚に乗せて席に腰を沈めると、一息つけた。
上京して以来、久しぶりの新幹線。
ちゃんと乗れるかと若干緊張していた。
次は降りる時だなと、降車の心配が始まった。
二時間以上も乗車するのだ。
スマホのアラームを設定して、ようやく安心できた。
発車すると、窓の外でビル群が流れ出し、秋葉原を抜けると地下に潜っていく。
車窓が鏡のように自分の顔を映した。
暗いからか、どうにも印象がよくない。
自分で言って情けないが、疲れたというか生気がないというか……。
黒髪を短く切り、眼鏡をかけた男。
老けているとも、若いなと言われることもある。
どっちだよ!と思うが、三十路の印象に残らない顔立ち。
それが自分なのだ。
顔そのものは毎朝洗面台で見ているが、こんなに生気がなかったか?
気持ちが表情にでている。
そう思うと、眉間にシワが寄った。
時間を潰そうにも何もする気が起きず、車窓が地上に戻るとぼんやりと景色を眺めた。
ビルの高さがどんどん下がり、都会から田舎へ景色が変わっていく。
大学進学を機に上京し、そのまま東京で就職した。
ずっと帰っていなかった。
盆でも正月でも、忙しい……予定が……と、適当な理由をつけたが、家族の顔が思い浮かんでは肩が縮こまった。
「おじいちゃんが事故に……」
十年目にして聞いた母さんの涙声に、帰ると言わざるをえず。
しぶしぶ帰省の支度をしたのだ。
深いため息をついて、背もたれに身体を預けた。
車窓には田んぼが広がり、遠くには雲がかかった山並みが連なっている。
「きゃははは」
遠くの席から女の子の笑い声が聞こえた。
そういえば、修学旅行でもこんな景色で、笑い声があって……。
あの時、隣には……激しく鳴り始めた鼓動に我に返った。
かぶりを振って意識を切り替える。
上京したとき、駅前は再開発で大規模工事をしていた。
完成したことは知っていたけど、よく調べもしていなかった。
ふと気になってスマホを取り出した。
ストリートビューから分かる街並みは、記憶とはかなり違った。
(随分変わったな)
駅を出て目の前にあった百貨店は、倒産したのかリニューアルしたのか別な名前になっている。
十年はかなり長い。
少し母さんへの罪悪感が増した。
自分の世界は狭かった。
行く場所なんて、自宅と学校、バイト先に駅前くらい。
今もそう変わりはない。
自宅と職場、近所のスーパーくらい。
必要な物はネットで買えるから、積極的に出歩くことは減ってしまった。
目を閉じると、瞼の裏に次々と景色が思い浮かぶ。
通学路、商店街、高校の校舎、眠たい授業、目覚めのチャイム。
「ごめん。今日から彼氏と食べるね」
一人の少女が思い浮かぶ。
ずっと蓋をしてきた存在。
思考にふけっていると、握り込んだスマホが震え、意識が戻る。
『何時に着くの?』
母さんからの短いメッセージに一瞬上を見上げた。
『16:03だよ』
『分かった。夕飯は家でいいんでしょ?』
少し迷った。
『食べる』
とだけ打ったが、思い直して、『友達と飲むかも』も追加した。
母さんはきっと……聞いてくる。
仕事は?体調は?ちゃんと食べてるの?
そして……いい人は?
電話ですら聞かれるのだ。
会えば必ず聞いてくる。
しかもきっとしつこい。
もう面倒だとしか思えない。
『いない』の一言で済めばいいのにな。
電話ではのらりくらりと躱してきたが、対面ならどんどん直球になるのが目に見える。
流せそうもない自分が容易く想像できた。
引いてくれればいいが、きっとそうもいかない。
そして笑って流せなくなる。
女性は普通に可愛いと思う。
好みのタレントもいるし、美人を目が追うこともあった。
例えば部下の青根。
彼女は明るい美人で人気がある。
飲み会で隣になれば一緒に笑って、気軽に会話もできた。
モテすぎて困ると相談されることもある。
けれど、少しでも好意の気配が相手に見えると、強く警鐘が鳴る。
引く波のようにさーっと熱が引いていく。
最近まで気が付かなかったが、「目が笑ってないよね」と言われるようになった。
「壁を感じる」とも。
那須を過ぎてトンネルに入った。
ゴウっという音と共に耳が圧迫される。
唾を飲み込んで、耳抜きをした。
車窓に映る顔は変わらず暗い。
眉間のシワが不機嫌そうな印象を強めている。
この表情が出ていたなら、そりゃあ言われるだろうと腑に落ちた。
しばらくウトウトしていると、アラームでスマホが震えた。
そう時間をおかず、車内アナウンスが流れた。
新幹線は速度を落とし始めている。
到着駅の名前が聞こえた。
地元の話題はニュースではたまに聞くが、いつもはふーんと流して終わる。
そこに住んでいたという実感すら薄くなっていた。
けれど、これから降りるんだと思えば、一気に帰ってきたという実感が湧く。
降りなきゃと思ってしまい、全然嬉しくもない。
腰が重い。
このまま乗り過ごして旅行に切り替えようかな?
ふと思い立ったが、かぶりを振って降りる準備をした。
駅の改札を出ると、母さんが待っていた。
一目で分かる。
嬉しそうな表情で大きく手を振っている。
小柄な背中に少し丸くなった肩。
五十を過ぎて白髪の増えた髪。
記憶よりも老けていた。
「痩せた?」
第一声は心配の言葉だった。
俺の頬に触れ、問いかけてくる。
「いいや」
「ほんと?ちゃんと食べてるの?」
「ああ」
「顔色悪いじゃない」
「ちょっと座り疲れただけさ」
俺の顔をじっと見つめる目は優しい。
けれども、些細な変化から何かを必死に読み取ろうとしているような。
困ったような、心配するような目。
「お父さんが車で待ってるわ」
「うん。来てくれてありがとう」
駅前のロータリーに車を停めていた。
上京したときはセレナだったのが、今はマーチになっている。
二人暮らしにはコンパクトカーで十分なんだろう。
俺を見ると、片手を上げて頷いた。
「お帰り」
「うん。ただいま」
「トランク使うか?」
「ありがとう。このままで大丈夫だよ」
母さんが助手席に乗り、俺は父さんの後ろに座る。
車は変わっても、定位置は変わらない。
車内は懐かしい匂いがしている。
母さんが好きなラベンダーの芳香剤の匂い。
変わらない匂いに少し頬が緩む。
けれど、高校時代がフラッシュバックして苦しくなる。
「はい。これお土産」
何気なさを装ってお土産の金色の紙袋を渡す。
「何かしら? ずいぶんと派手ね?」
「最近人気なお菓子なんだ。東京にしか店舗がないから……」
思い出したくなかった。
だから、適当な話で気を紛らわした。
「あっ! この前テレビでやってたやつね!」
「そうかも。袋も豪華だし、評判もいいからね」
◆ ◆ ◆
実家は思ったほど変わっていなかった。
古い表札には『作並』の文字。
変わったのは少しボロくなったこと、玄関脇の植木鉢が地植えになって大きく育っていることくらいか。
ついに帰ってきた。
が、玄関口で少し足が竦んだ。
「何してるのよ」
先に上がった母さんから声を掛けられた。
「ただいま」
「はい。おかえりなさい」
夕飯は芋煮だ。
俺の大好物。
寸胴に大量に作られている。
母さんが張り切って作ってくれたとすぐにわかった。
他にも刺身と果物、味噌汁、漬物。
テーブルに並んでいる量は学生時代とかわらず、三人分にしては少し多い。
「こんなに……まあ頑張るよ」
「いいのよ。残ったら明日も出すからね」
母さんはそう言いながら、席に座った。
父さんはもうビールを飲んでいる。
「飲むか?」
「うーん。友達と会うかもしれないから。ありがとう」
テレビでは、ローカルのバラエティ番組が流れていた。
懐かしい方言が混ざっている。
「仕事は順調なの?」
「まあ普通かな」
「普通って何よ」
「忙しいけど、まあ役も付いたしね」
「立派じゃない」
「一応」
「一応じゃないでしょ。若いんだし十分よ」
「主任なんて管理職じゃないよ。板挟みなだけさ」
「それでもちゃんとやってるんでしょ?」
「まあ」
どうにも素直に頷けずに返事をぼかしてしまう。
母さんは嬉しそうに笑っているが、少しだけ罪悪感が湧いた。
上京してから十年、一度も帰らなかったのに……。
笑顔で迎えられて肩が縮こまる。
たまに電話はしていた。
少額だけど仕送りもしている。
けれども、親孝行しているかといえば、うなずけない。
だって本気で帰ってきたくなかった。
距離を置くためにずいぶんと言い訳をしてきた。
「で、じいちゃんはどうなの?」
「まだ入院してるのよね」
母さんは動きを止めて、ため息をついた。
「やっぱりそうなんだ」
「電話でも話したけど、会話ができるのもあと少しかもしれないのよ」
「うん」
「この前の骨折がきっかけなのよね」
「それは大丈夫なの?」
「ええ。骨は治ったんだけど、ショックが強かったのかボケが始まってね……頭が弱っちゃって」
「あのじいちゃんがねぇ。退院できないんだ?」
「家もこんな古い造りでしょ? 介護には向かないのよね。慌ててホームとか探してるのよ」
野山での遊び方を、教えてくれたのはじいちゃんだった。
農業の片手間に近所の子供と遊んでくれていたから、世話になった人は多い。
日に焼けた浅黒い肌。
細身なのにしっかり筋肉がついていて、腕に子供をぶら下げてぶん回していた。
にいっと笑う顔が印象的だった。
あのじいちゃんが……。
「まだ話せるうちに会っておきなさい。歳だから仕方ないけど、あんたも心構えくらいはしておきなさい」
弱った姿なんて、想像しようと思ってもできない。
「おばあちゃんがいれば心強いのに……」
「ああ」
世話好きのばあちゃん。
生きていたら、かいがいしくじいちゃんを支えただろう。
「お父さんにも頑張ってほしいわ」
「えっ何が?」
「これから大変になるのよ? 仕事だけって訳にもいかないわ」
「ああ」
父さんは役員だったよな。
何も言わないけどかなり忙しいだろう。
「ところで、東京はどう? 一人で大変でしょう?」
「まあ。なんとかしてるよ」
「そこそこ忙しいんでしょ? 部屋は大丈夫なの?」
散らかった部屋が思い浮かぶ。
「……普通だと思うよ?」
「片付け苦手だったじゃない。大丈夫だって明日にしてないの?」
「てか、この芋煮美味しいね」
「……」
母さんがジト目になる。
バレてるだろうけど、仕方がない。
「当然よ。あなた好みじゃない。で、お休みはあるの?」
「ああ。そういうのは結構うるさいんだよ」
「へぇいい会社なのね」
父さんの時代は違ったはずだ。
感心したようにうなずいている。
「ああ。今はそうなんだよ」
「なら休日は何してるの?」
「うーん。本とか趣味かな」
「前から本は好きだったものね。こっちの友達は上京してないの?」
「ああ。なんでか東京は俺だけなんだよね」
「あら残念ね。寂しくないの?」
「まあ仕方がないよね」
「向こうの友達と遊んだりしないの?」
「別に」
母さんが小首を傾げだした。
「飲み会くらいあるんでしょ?」
「まあたまに」
「その中に女の子はいないの?」
話を切り替えてた。
箸を置いて、にこやかに。だけど表情が締まっている。
「いるけど?」
「そこにいい人は?」
「それこそないよ」
「本当に?」
「本当に」
「紹介してもらったりしないの?」
「しないよ」
「じゃあ、誰か」
「そういうのいいから」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
母さんの顔から笑みが消え、カーンとゴングが鳴る音がした。
「いいからって何よ」
「面倒なんだよ。そういう話」
「面倒って、あんたもう三十になるのよ」
「だから何?」
「はあ?」
「結婚しなきゃ死ぬわけじゃないだろ」
母さんの眉が動いた。
父さんがグラスを置いた。
カツンとした音が、やけに大きく響く。
「あんたね」
「何」
「いつまでそうやってるつもりなの」
声がいっそうキツくなった。
「そうやってって何だよ」
「分かってるでしょ」
「分かんねぇよ」
「分かってるわよ」
母さんの声が一層低くなった。
「あんた、高校の時から変わってない」
茶碗は置いたが、箸を握ったままの手に力が入った。
耳鳴りがする。
「だから何の話だよ」
「ずっと逃げてる」
「逃げてない」
「逃げてるわよ。地元からも、家からも、人からも」
「勝手に決めるな」
「決めてない。見てきたの」
「何を」
「あんたが暗くなっていったところよ!」
母さんの声が食卓に響いた。
テレビから響く明るい笑い声が、場違いに思えた。
「あの頃から、おかしくなった。帰ってきても部屋にこもって、友達の話もしなくなって、女の子の話なんて絶対しない。大学に行くって言った時も、遠くならどこでもいいって顔してた」
「うるさい」
「うるさくない!」
母さんが手をついて立ち上がった。
「いつまでうじうじしてるの!」
何かが切れた。
母さんが相手でも構わない。
「うじうじ?」
「そうよ!」
「何も知らないくせに」
「知ってるわよ!」
「知らねえだろ!」
耳鳴りが声になる。
『ごめん……』
立ち上がった弾みで椅子が倒れ大きな音を立てた。
「何も知らないだろ! 俺がどうだったかも、何があったかも!」
母さんが顔をしかめ、苦しそうに悔しそうに唇を噛んだ。
次の瞬間、頬に痛みが走って顔が横になった。
乾いた音がして、目には壁が見える。
ビンタされたのだと、少し遅れて理解した。
テレビからの笑い声は誰を笑っているのか。
「っ……な」
何すんだよと睨み返そうとして言葉に詰まった。
母さんの目に涙が浮かんでいた。
「ふざけんじゃないわよ」
母さんの声が震えている。
「ずっと心配させて!」
「……」
「自分だけ傷付いたみたいな顔をして。十年以上、家にも帰らないで。いい話の一つもなくて。こっちは何も聞かないようにしてきた。子供の恋愛だと思って、いつか立ち直ると思って黙ってた」
「でも、あんたは立ち直らなかった」
「……」
「いつまで……いつまで構ってもらうつもりなの。いつまでそのまま座り込んでるつもりなのよ!」
「うるせえ」
視線をそらして、箸をテーブルに叩きつけた。
自分でも情けないほど声が震えていた。
痛い思い出がよみがえって強がるしかなかった。
財布とスマホを確認して席を立った。
「どこ行くの!」
「外」
「逃げるな!」
「逃げてねえよ!」
靴の踵を踏みつぶしながら玄関を飛び出した。
空の端っこが少しだけ赤く、夜の空気は蒸し暑い。
怒鳴った勢いに空気がまとわりついて一層気持ちが悪い。
近所の公園でベンチに座った。
空を見上げても星は少ない。
少し落ち着くと虫の声が聞こえてきた。
でも一人じゃだめだ。
どうしても抑えきれず、スマホを手に取った。
『今日飲めないか?』




