夜明けの魔術師
同じ顔をした少女たちは、手を取り合い、互いを見つめた。
だが、その合わせ鏡のような光景は長くは続かず、片方の少女は髪や指先といった身体の末端から、もうひとりの少女の中へさらさらと吸い込まれていく。
ふたりだった少女が、ひとりになり、がくりと倒れるように地面に膝をついた。
少女は静かに涙をこぼし、ぽつりとつぶやく。
「わたくしは、リンにはなれなかった」
静謐が支配する森に、少女の声が響く。
「本当に役目を終えたのは、わたくしであったのに」
暗い洞穴の中で、こぼれおちた水滴音のように、少女の声は空気を、木々の葉っぱを、やがては大地さえも震わせる。
やがて大地は、大声を上げて少女の姿を飲み込んだ。泥を跳ね上げて、周囲の木々を巻き込んで、そして、黒い黒い影が溶岩のように地上へ噴出する。影は空高く舞い上がり、雲をつきぬけ、インクの染みのようにじわじわと空を黒く染め上げていく。やがて太陽の光は黒い影にさえぎられ、闇が降りてくる。
その一部始終をあぜんと見つめていた黒髪の獣人族の少年や神官姿の少女の足元にも、亀裂が入る。めきめきという轟音を立てて、木が、大地が、森が音を立てて崩れていく。黒い影が、躍った。
少年は、傍らで嗚咽をあげる黒髪の女の手を引き、背中におぶろうとした。
「やめて、ノルド君。私、ここを動きたくないの」
「よ、よく分からないけど、ここに留まるのは危ないだろ!」
「あのこと、同じ場所にいきたいの。お願い。この世界の向こう側で、私の大好きなひとたちが、私を待っているの。もう、置き去りにされるのはたくさんなの」
青ざめた顔で、そう懇願する女に、ノルドは容赦しなかった。
彼は黒いつややかな毛並みの獣に姿を変え、女の胴体を咥えた。そのまま地面に叩きつけ、女が気を失ったことを確認すると、今にも地面に飲み込まれそうになっている神官服の少女を後ろ足で蹴り上げ背中に乗せた。
「ら、乱暴すぎます!」
少女の非難を意にも介さず、ノルドは地面を蹴る。
生い茂る緑の木々を器用にかわして、迫りくる轟音と黒い影から一目散に逃げ出した。
けれど、大地が崩れる速度は、獣の足よりも遥かに早い。
どろどろとした黒い影が、液体のように大地から噴出し、彼らのあとを追う。
逃げ場があるわけではない。ただ大地に引きずり込まれないように、影に捕まらないように、ノルドは必死で駆けた。地面が沈めば、駆け上がり、そうしている内に、森を抜けた。
はてがないと思われた神の森を抜けた先に、彼はたどり着いたのだ。
「なんだよ、これ」
黒い影に覆われた空と森とは対照的な、目に痛いくらいの白が広がっている。
まるで誰かが世界にナイフを入れて、森の先を切り取ってしまったみたいに、なにもなかった。ノルドがおそるおそる鼻先を白い空間に押し付けると、ほのかな弾力が跳ね返ってきた。
焼きたての白パンよりは硬く、動物の皮膚よりは柔らかい。不思議な感触だった。
ここにはなにか見えない壁のようなものがあり、同時に、彼らはこれ以上逃げられないのだということをノルドは理解した。
大地の崩壊も、黒い影の濁流もすぐそこまで迫っている。あれに呑みこまれたらいったいどうなるのか。考えたくもなかった。
ノルドと、彼の背中で小さなからだを震わせる少女に絶望が訪れた。そのときだった。
白い空間から、まばゆい光が噴出する。
黒い影に覆われようとしていた大地に、光がさす。
光は空に向かって一直線に伸び、はじけた。光の雨が降り、黒い影を溶かし、崩壊した大地を、緑を、癒していく。
ノルドは目を細め、まぶしさに耐えた。熱のない、ただの白い光だ。彼の目を焼くことはないだろう。
やがて、光は収束していく。
まるで、夜明けのように、闇の帳が開けていく。
地面に伏せた状態でノルドは僅かに頭を上げた。彼の視界に、大地に呑みこまれたはずの少女と、死んだと聞かされた少年の姿が映った。
なんだ。ふたりとも無事だったのか。
一気に身体から力が抜けて、そこからの記憶がなにもない。
気がつけば、王都の救護施設で眠っていた。
神官の少女とエルゼが、倒れたノルドを運んでくれたらしい。ノルドよりもはるかに巨大な狼に姿を変えたエルゼの美しさを、頼んでもいないのに少女はうっとりと語ってくれた。
それから、ことの顛末も。
結局、なにがなんだかわからない内に、地上に大量に噴出していた黒い影は消えてしまったらしい。光の雨が降り、地上にこごっていたものを全て大地に還してしまったのだろう。というのが神殿の見解だった。
また、幸いなことに、黒い影に連れ去られたり呑みこまれてしまったと思われていたひとびとが戻ってきたらしい。彼らはみな一様に、影に関わってから今現在に至るまでの記憶を失ってはいたが、それでも、家族や友人たちとの再会を喜んだ。
当然、この神秘的な現象には神の子の力が影響しており、また、ひとびとの信仰心の賜物である、ということになったらしい。
神殿の威光だとか、神の子の奇跡だとか、そういったことはノルドにとって、どうでもいいことだった。
神殿の騎士として、神殿に、ひいては神の子に忠誠を誓った身ではあるが、そもそもこれは、少年にとっては単なる代替手段でしかなかった。獣人族の族長の孫という立場は、ヒト族の王に忠誠を捧げる王の騎士を志願することを阻んだのだ。
妥協で得たというには憚られるほど高い地位ではあるが、事実、彼にとっては神殿騎士の位は妥協でしかなかった。
自身の窮地を救ってくれた王の騎士カナンに、彼はひどくあこがれた。カナンの元で働くことが叶わないならば、せめて、彼と同じ騎士を目指そう。単純な動機だった。
神殿の騎士となり、与えられた最初の任務は花の街の防衛だった。そこで、同い年くらいの魔術師の少年とその連れの少女に出会い、そして、彼はいまここに立っている。
はてなしの森と呼ばれる深い深い森の奥。
荒れ果てた廃屋を横切り、その裏手にまわれば、目当ての場所にたどり着く。
そこには、石で作られた小さな墓標が立っている。ノルドは片膝をついて、墓標の前に花束を置いた。かわいらしい白い花が風に揺れている。
目を瞑り、祈りを捧げる彼の肩の上にはかわいらしいリスが乗っており、リスはすばやい動きで白い花に近寄った。くんくんっと花の香りを嗅いで、うっとりとしている。
そう。どうでもいいことだった。
神の子は、消えてしまった。この大地の、奥深くに眠っている。きっと、目覚めることはないだろう。眠ることを彼女は選んだのだ。
神殿は隠そうとしているが、それらのごたごたにノルドは関わらないことに決めていた。嘘は必ず露見する。しかるべきときに、相応の報いを伴って。
祈りを終えて、ノルドは立ち上がる。リスは花束の中から一本、花を抜き取って大事そうに抱えていた。そのまま彼の肩に飛び乗り、満足そうにしている。
少し、早すぎたかもしれない。
木々の隙間から差し込む太陽の光をまぶしげに見上げて、ノルドは思った。
てきとうな木陰に腰を下ろし、しばらく、風の音に耳を傾けていると、彼の肩を借りていたリスが、急に耳をぴんっと立てた。花を口に咥えると、そのまますばやい動きで地面に降り立ち、駆けていく。
原因は分かっている。彼の耳にも、誰かの足音が聞こえてきた。こんな辺境にやってくるにんげんなんて、限られている。
目を瞑り、よく音が聞こえるように、耳を澄ます。
まだまだ遠い。まだ、遠い。もう少し。あともうちょっと。もうすぐだ。
「おかえり」
息を呑んだのが気配でわかった。
してやったり。
ノルドは笑みを浮かべた。
彼の頬を、やさしい風がひと撫でする。
よく知っている誰かが、ただいま、と言った気がした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。