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page 89 : 喪失との向き合い方

──春御峠の墓地。


頬被(ほっかむ)りをした老婆が、背の高いスーツ姿の男性と共にやってきた。

老婆はスーツの男から手桶の水で濡らした布を受け取ると、せっせと墓石を磨き始めた。

ハンカチで丁寧に手を拭う寡黙な男とは対照的に、老婆は忙しなく手を動かす。

作業の合間に、彼女はふと隣の墓前に居る青年に声をかけた。


「おう、順ちゃん。久しいねえ、元気だったか。ここんとこ姿見なかったから、冬眠でもしたか思ってたわ」


制服の袖をまくり、花立てに買ってきた供花を飾っていた順太は、声のする方を向くと笑顔を見せた。


「おう、婆さん。この寒い中、まだ毎日来てんのか」


「当たり前よ、ダーリンがわたしに会いたがるから」


「ふうっ、アツアツだねえ」


「ナハハハ!やかましいわ」


老婆は紙包みから線香を取り出す。


「火ぃ」


「はい」


スーツの男は老婆の持つ線香の束に手を添えて風除けを作ると、ライターで火をつけた。

老婆は赤く灯った火を手で払い消すと墓の前にゆっくりとしゃがみ、線香を香炉へ供えた。

香りと共に立ち昇る煙は、冬の乾いた風に運ばれて野辺山家の墓にも流れてゆく。

老婆とスーツの男は、煙の動きを追うように順太を見た。


彼は制服が汚れるのも気にせず、地面にあぐらをかいた姿勢のまま、ぼーっと墓石を眺めている。

順太が見つめる野辺山家の墓には──少し前に亡くなった彼の兄、一久(かずひさ)が眠っていた。


──ピーヒュロロロロ……

墓地の真上で、翼を広げたトンビが高く鳴く。


「……お兄さん、綺麗な花ありがとうて喜んでるなあ」


老婆の声に、順太は振り向く。


「兄ちゃん、花は特別好きじゃなかったけど」


「いんやあ、順ちゃんな。こういうのは気持ちが大事。わたしゃねえ、耳が良いから分かるだよ。墓の中から、ありがとうて言う声が」


「ふうん。そんなら、俺の兄ちゃんってどんな声?」


「分かるわけない、知らんもん。ワハハハハ」


「それもそうか。アハハハハ」


他愛もない会話に笑い合う二人の向こう、一本の大きな木の影に潜む気配──


「……?」


何かを感じ取ったのか、数珠を手にかけたスーツの男が後ろを振り向く。


じーっと怪しむようにこちらを見た後、男は前を向き直り、老婆が散らかした包み紙やビニール袋を拾い始めた。


「勘の鋭い奴ダナ……」


木陰で、誰かが囁く。


「シイッ!馬鹿、喋るな」


木の影に隠れていたのは、蛇遣いとマキシだった。


「さっき、兄ちゃんって言ってたよな……?あいつ、兄貴を亡くしてたのか」


「誰にでも、事情の一つや二つくらいあるものダ。見ろ、あんな風に笑っていても小僧の心は酷く悲しんでおる」


蛇遣いとマキシが覗く先で、合掌を終えた老婆とスーツの男が墓地の階段を下っていく。


「んじゃ、またねえ順ちゃん。もうじき暗くなる、気をつけて帰りい」


「ああ、婆さんたちも」


軽く手を振る順太に会釈で返したスーツの男は、老婆の手を取り、ゆっくりとその場を後にした。


──独りになった静かな墓地に、カラカラと落ち葉が風に動く音だけが聞こえてくる。

順太は下に降ろしたカバンから、ペットボトルのお茶と紙袋を取り出した。

彼が手に持っているのは、天傘書店の紙袋。

その中から取り出したのは──鍵谷航(かぎたにわたる)作・青龍シリーズの三作目『青龍と不屈の王者』。

表紙には青い龍に跨がり、美しい剣を握る翡翠の瞳の青年が描かれている。


「今日、兄ちゃんの命日だから。これ、やるよ。知らないうちに続きが出ていたんだ。好きだったろ、鍵谷先生の作品」


順太は兄に表紙が見えるように向きを回すと、お茶と共に並べて供えた。


「──あ、ちょっとタンマ」


順太は一度供えたはずのお茶を取り下げるとゴクリと一口飲み、また供えた。


「ハハ、ごめん。喉乾いちゃってさ、怒ってる?……兄ちゃんは、これくらいじゃ怒んねえか」


独り、おちゃらけていた彼は急に静かになると、その場に座り直した。


「──クラスに、兄ちゃんそっくりな奴がいるって前に言ったの、覚えてるか?いつも本を読んでて、どこかスカしてて……ムカつく奴。そいつも、同じ作者の本を読んでた。兄ちゃんが栞挟んだまま、最後まで読めなかった二作目。つい、イラッときてさ。俺……そいつの本、破っちまった。なんで……なんで兄ちゃんとこんなにも似てるんだって。パクんなよって──」


生前は、青龍シリーズを愛読していた一久。

二作目『青龍の愛し子』を読了できないまま、彼はこの世を去った。


「もう……毎日、兄ちゃんを思い出すのはキツいんだよ……」


苛立ちか、悲しみか──感情に支配された彼は墓の前に蹲(うずくま)った。


ガサッ、ガサッ、パキッ──


背後から、落ち葉や小枝を踏む音が近づいてくる。

近くで止まった足音に、順太は顔を上げる。

恐る恐る後ろを振り向くと、そこには制服を着た金髪の男が立っていた。


「お前……待夜の、親戚の……」


驚く順太に、蛇遣いは口を開く。


「お前の兄ちゃんと、梨人は──別人だぞ」


いきなり核心を突かれた順太は、あからさまに動揺する。


「はっ!?お前……なんでここに居んだよ!勝手に入ってきてんじゃねえ!」


苛立つ彼は、墓に供えたお茶を手に取ると蛇遣いに投げつけた。


「偶然見かけただけだ、悪いか?」


蓋の開いたペットボトルから、中身が宙に飛び出す。

蛇遣いが身体の前に手を広げると、飛び散った液体はまるで見えないバリアを伝うかのように下へと流れ落ちた。


「!?」


現実離れした光景にギョッとする順太の足元に、バリアに弾かれた空のペットボトルが転がる。


(な、何が起きたんだ……?)


驚きの余り、順太は瞬きすることしかできない──

蛇遣いは、そんな彼の隣に行くと一久の墓に手を合わせた。


「兄さんの名前は?」


「な、なんで教えなきゃならねんだよ」


「名前」


「……一久、だけど」


「一久さん、どうして亡くなったんだ?」


「──事故。防ぎようがなかった、100パー相手の過失だから」


「そうか」


蛇遣いは静かに目を瞑ると、そのまましばらく拝んだ。


「……」


ようやく蛇遣いが目を開けると、隣から痛いほどの視線を感じる。


「なんで手を合わせるんだよ。俺の家と、なんの関係もないだろ」


「ああ、関係ないな。でも、誰かを亡くすことの痛みなら分かる。俺も──大切な存在を亡くした、そのひとりだから」


「お前も……?」


「ああ、かなり前のことだ。友達と別れたときはそれはもう、自暴自棄になったさ。母が死んだ時は、そこまで悲しくなれなかったけどな」


「お母さん……死んじまってるのか」


涼しい顔で平然と重い話をする蛇遣いに、順太は複雑そうな表情を浮かべる。

ふたりの間を流れる沈んだ空気を切るように、蛇遣いはペチンと勢いよく自分の太ももの横を叩いた。


「よし……ちょうどいい。少し、話せるか?」


──日の暮れ始めた墓地で、あぐらをかいたふたりの青年が並んで座る。


「──野辺山。お前は、兄貴のことを忘れたいか?」


「最近は……忘れられたら、と思うことが多くなった」


そう応えた順太は、両手で膝を抱える。


「これは、俺の育ての親、みたいなヒトからの受け売りだけどな──」


不安そうな彼に、蛇遣いは語り始めた。


「この世を生きている限り、亡くなった人を忘れることはできない──でも、それにはちゃんとした理由がある。お前のこれからのために……記憶が、亡き者との思い出を忘れまいと留めているんだ。いいか、辛いのは悪いことじゃない。それでも、辛いに呑まれずに自分を生きるんだ。そして──その人の存在を糧に周りを照らして、お前がまた、誰かにとっての"忘れられない人"になればいい。魂がどこを彷徨い、いずれどこに行き着くのか──俺たちの近くに降り立って、見守ってくれているのか。本当のところは死んでみなきゃ、分からないけど。信じること──それが一番、亡くなった人を近くに感じられるんだってさ。俺は、かなり信じてるな。虫とか、鳥とか……あらゆるものに変わって、側にいてくれるんじゃないかって」


「兄ちゃんを糧に、俺が周りを照らす──そうか。兄ちゃんはもう居なくて。でも、兄ちゃんって人がいたから、今の俺がある──」


自分に言い聞かせるように呟く順太に、蛇遣いは強調するように話す。


「そして。弟が自分に似た子を痛めつけるようなことも、お前の兄貴は望んではいないはずだ」


蛇遣いと目が合った順太は、慌てて目を逸らす。


「兄ちゃんに似た子……それって、待夜のことだよな」


罪の意識から、見るに萎縮している順太に蛇遣いはそっと声をかける。


「俺は、何も説教しに来たんじゃない。歳上からのアドバイスだと思って、聞いてくれたらいい」


「歳上?」


ポカンとした順太の顔にハッとした蛇遣いは、咄嗟に訂正する。


「ああ、えっと……同級生!そう、同級生」


自分の初歩的なミスに呆れて笑った蛇遣いは、隣で小さくなる順太の背中に手を当てた。


「俺の考えを言わせてもらうと──梨人は、最初からお前のことを悪く思ったりはしなかったはずだ。そしてお前については、亡くなった兄貴じゃなく、生きた梨人という人間をしっかりと見るべきだったんじゃないのか?」


背中に当てられた大きな手から伝わる、僅かな温もりに彼の表情が少しだけ緩む。


「……俺、兄ちゃんのことで頭がいっぱいだった。それで、視界に入る度に兄ちゃんがチラつくのが耐えられなくて……待夜に当たるようなことをしちまった」


順太の真っ黒な瞳は、真っ直ぐ蛇遣いの方を見る。


「兄ちゃんを糧に、自分を生きるためにも──俺は待夜にちゃんと謝らないと」


自分を生きるという意志の宿った彼の瞳に、蛇遣いは微笑んだ。


「ああ。自分の言葉でちゃんと伝えれば、梨人なら分かってくれるさ」


ひゅおおお──木枯らしがふたりの合間を吹き抜ける。


「ううう、寒っ」


寒さの余り、蛇遣いが腰を上げた。


「それにしても、お前の兄貴と梨人って……そんなに似ているのか?」


蛇遣いの言葉に順太は、どこか大人びていた兄の横顔と、眼鏡を直して笑う仕草を思い出す。


「お前の良いところは馬鹿正直なところくらいだ、アホ順太」


──そうして俺を揶揄うように、眉間に皺を作りながらくしゃっとした笑顔を見せる、一久。

なんだよ、自分だって馬鹿面の癖して。


「ハハハア、嘘だよ。お前は本当、可愛い奴だな」


──だからなんだよ、俺よりちとばかり歳上だからって気取っちゃって。

全然嬉しくねえよ。嬉しくなんか、嬉しくなんか──


順太は唇を噛むと、空のペットボトルを握り潰した。


「……そういえば。佐山分かるだろ、結紀。アイツ、最近変で。なんかあったのか?」


蛇遣いは、突然の結紀の話題にも驚くことなくサラリと返した。


「ああ。あいつは、変わったんだよ。痛みを知って、優しくなったんだ」


「変わった……そっか、変わるのか。変わるんだよな、人間って」


順太は、少し恥ずかしそうに蛇遣いに話しかける。


「なんかさあ、お前にこんなこと言うのっておかしいけど。変わるのって──怖いよな」


「怖い……か」


笑いもせず真剣に受け止める蛇遣いに、順太は話を続ける。


「怖いよ、すげえ怖い。兄ちゃん死んで、おふくろも、おやじも、俺も、俺たちの生活も──全部が変わった。もう、毎日が怖いみたいなもん。洗濯物が少ないっておふくろは泣くし、パッキンアイスは半分余るし、MINEの既読はつかねえし──隣の部屋から眠たくなるようなクラシックは聞こえてこない」


俯く順太の隣で立ち上がった蛇遣いは、伸びをすると一気に答えた。


「たまにはお前が洗濯物を手伝ってやればいいし、パッキンアイスは友達と分け合うも良し、俺でもいい。MINEなんて使わなくても、これからは全部筒抜けだぞ?上からずっとお前を見てる。それに、クラシックで眠たくなるのはお前だけじゃない。俺もだ」


励ましとはまた違う、ポジティブなアンサーに下がりきっていた順太の眉が上がる。


「そのままにしようとしなくていい。誰かの肩を借りながら前を向いて、少しずつ新しい日常に馴染んでいくんだ。でも、だからって他人に苛立ちをぶつけても何にもならない。お前の周りは、お前と同じ人間だ。形(ナリ)のわからない敵じゃない。言葉も通じれば、感情もある。だから、もっと素直な自分を曝け出していい。関わり合うことを恐れるな。そうすれば、お前のその気を張りすぎて疲れた心だって、少しはマシになるはずだ」


蛇遣いのアドバイスに、順太は何度も頷く。

これから先の道が今、開けたような感覚──

順太は勢いよく立ち上がると、制服のズボンをはたいた。


「そうか……そうだよな。俺も、ここから変わらないといけないよな。なあ、兄ちゃん──俺、頑張るから。ずっと、見ててくれるよな?そう、信じていいよな?」


──ヒュロロロロ……


翼を広げたトンビが、頭上で大きく円を描く。


少し赤みを帯びた順太の鼻先、墓前に供えられた白菊と淡紫のストック──

冬の風に揺れる花々はまるで、返事をするかのようにサワサワと穏やかに揺れた。

最後までご覧いただきありがとうございます。

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完結まで、引き続きよろしくお願いいたします。


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