page 82 : 五本の爪痕
「動くなと言っているのが聞こえないのか!!」
猫好きAの怒鳴りに続き、稲妻の轟音と眩いフラッシュが生徒たちを震え上がらせる──
「いってえ……」
驚きの余り、尻餅をついた男子生徒はヨロヨロと起き上がる。
誰よりも先に逃げ出そうとしていた彼こそ、猫好きAの逆鱗に触れた人物──
岩倉真二。梨人に傷を負わせた張本人だった。
冷たい視線に振り向いた真二は、青筋を立てる猫好きAと目が合う。
「私から逃げられるわけが無いだろう?」
猫好きAは宙に拳を掲げると二度、見えない扉を鳴らした。
「──knock。」
ガチャリ。
音が鳴ると同時に、彼に尋ねられた真二以外が静止する。
窓の外を落ちる雨粒。
時計の秒針。
生徒たちの喧騒──
猫好きAの手によって、全ての時が保存される。
「なっ、なんだよ、コレ……」
真二は、キョロキョロと辺りを見渡す。
まるで、精巧なジオラマの中に立っているかのような、奇妙な感覚。
隣でポーズ模型のように固まるクラスメイトの顔を覗き込む。
ギュッと目を瞑るその表情に、筋肉の震えは一切見られない。
「時間が止まった……?ハッ、あり得ない。」
動揺しながらも、強がる真二に猫好きAは言う。
「何発?」
「……はあ?」
「梨人に何発、入れたのかと聞いている。」
「忘れた。覚えてないだろ、回数なんて。」
「そうか、それがお前の答えか。」
そう言った猫好きAは、次の瞬間。
見えない素早さで彼の前に移動すると、真二の腹に素手の拳を入れた。
「うぐうっ!」
一発喰らった真二は教室の壁を突き破り、廊下の水道付近へと投げ出される。
「カハッ……い、いてえ……っ」
散らばる壁片の中、肋骨を抑えて蹲る真二に猫好きAは近づく。
足元には衝撃で水場から落ちた美術部の筆やパレットなどの画材、そして割れた鏡の破片が転がっていた。
「いきなり殴るとか……頭、どうかしてんじゃねえか……っ」
上体を起こそうとする真二だが、身体を襲う痛みで顔をくしゃりと歪めることしかできない。
「そんな顔しないでよ──同じことをしておいて、忘れたとは言わせないよ?」
彼は狂気じみた顔で笑うと、長く出した猫の爪で彼の顔にギギギと傷をつけた。
五本の並んだ爪痕から、赤い血がじわりと滲む。
「っ、やっ、やめろ……!!」
真二は猫好きAの胸を蹴って抵抗する。
後ろへよろけた猫好きAの身体は背を弓なりに反らせたブリッジの姿勢で止まると、勢いをつけることなく、そのまま元の姿勢へと戻ってみせた。
「お、お前さっきから何なんだよ──人間じゃねえだろ……!」
歯を食いしばる真二は、猫好きAを睨みつける。
「何って──梨人の親戚だよ?」
「そうじゃねえ……お前は何者かって聞いてんだよっ……」
立ち上がった猫好きAは、足元の鏡片を手に取ると真二の顔が映るように傾けた。
「どう?ワイルドな傷は。気に入った?」
鏡の中の自分を見た真二は、腹部を襲う激痛に耐えながら声を荒げる。
「……っざけんなよ……人の顔に何本も傷痕残しやがって……どういうつもりだ……!」
猫好きAは鏡片を雑に放ると、自分の身体の部位を順に指差しながら言う。
「顔にふたつ、脇腹、背中、それと足──だったね。」
「はあ……?なんの……話、だよ……」
(やばい、意識が……)
真二の意識が朦朧とする中、瞳の先では猫好きAがスラリと伸びた白い指を広げた。
「五発。五発だよ、岩倉真二。」
猫好きAはその場にしゃがみ込むと、半開きの目をした青年に、囁く。
「君が、梨人を殴った回数。私にはね、見えるんだよ──真実ってやつが。」
自らの瞳を指差しながら、猫好きAはニヤリと笑う。
その彼の背後には、揺れる二又の尻尾が見えた気がした。
(こいつ……やっぱり人間じゃない……)
真二は視野が、だんだんと狭まっていくのを感じた。
(こんなことなら……待夜を締めるんじゃ……なかった……)
真二の寄りかかる壁の崩れた箇所からは、ボロボロと破片が床へと落ちる。
猫好きA──否、"待夜好"という未知の存在。
その彼の不気味な笑みだけを脳裏に焼き付けたまま、真二は力なく意識を失った。




