page 80 : 誰かの存在
「……ただいま。」
帰宅した英里に、苫男がリビングから駆け寄る。
「おかえり、アネキ。」
弟の顔を見た途端、英里は泣き崩れた。
「鈴央〜っ!私……コルク様にちゃんと言えたよ、渡せたよおっ!」
帰り道で我慢していた分、涙のスイッチが入った彼女は嗚咽を漏らしながら、ひたすら泣き続ける。
「うう……っ、怒ってないって……ありがとうって、受け取ってくれてえ……っ」
涙で服を濡らす姉の脇を、苫男が抱える。
「玄関先でわんわん泣くなよ。とりあえず、部屋ん中入れって。」
そのまま、苫男は泣き腫らした顔の姉をリビングまで引きずっていった。
「泣き止んだか?」
「……うん。喉乾いた。お腹空いた。」
「はあ、まったく。アネキって奴は……」
文句を言いながらも、苫男は飲み物と一緒に、用意しておいた残りのマフィンを机に運んできた。
「ほら、残りだけど。これ食って元気出せよ。」
鼻を赤くした英里がお皿の上を見ると、そこにはチョコペンで"Good job!"と書かれたマフィンが置かれていた。
「えっ……?これ、アンタが書いたの?」
「そうだけど?あ!また、ヘボいとか言うんだろ!これでも上手く書けた方なんだよ、ほら。俺、英語苦手だし?それに、どうせ腹ん中入るモンなんだから出来は気にしないってことで──」
英里の目に、またも涙が込み上げてくる。
彼女は泣きそうなのを誤魔化すように笑うと、照れ隠しに視線を逸らす苫男の頭を、いきなり鷲掴みにした。
「いてえっ!なんだよ、この泣き虫女っ!」
「うるせえ!英コミ40点男!」
「はあ!?なんで知ってんだよ!!」
驚く苫男が顔を上げると、そこには嬉しそうに笑う姉が居た。
「ふふ……全部、アンタのおかげだよ。コルク様とお話しできて、私ホント良かった。」
「ったくだぜ。世話の焼ける姉を持つと大変だな、弟は。」
顔を見合わせた姉弟は、ふたりして仲良く笑った。
「ありがとね、鈴央。そうだ、近々あの五千円でパーッと遊ぼっか。」
「お、賛成〜。」
嬉しそうな苫男の顔を見ると、英里はメッセージ入りのマフィンにかぶりついた。
口いっぱいに広がる甘い味と共に、弟の優しさが泣き疲れた心へじんわりと染みるようだった。
──翌日。
「ああ、もうなんでだ!髪が全然キマらない!」
今日は、静音と約束したデートの日。
苫男は、デパートのショーウィンドウを鏡代わりに髪をいじっている。
楽しみな余り、待ち合わせ場所まで走ってきた彼は、せっかくセットしてきた髪型を崩してしまったようだ。
「これじゃ、いつもと変わらないじゃんか……」
ショーウィンドウの前で落ち込む苫男の元に、少し遠くから明るい声が届く。
「鈴央くーん!!」
手を振りながら苫男に駆け寄る、静音。
今日も相変わらず、綺麗だ。
「静音……おはよう。」
いつもに比べて妙に落ち着きのある彼に、静音は小首を傾げる。
「元気ないね、何かあった?」
珍しく、彼女が俺を気にかけてくれている──
苫男は、正直に理由を話した。
「実は、髪型が上手く決まらなくて。ダサいよな……静音に、こんなところ見せたくないのに。」
「なんだ、そういうことだったの。」
静音は、斜め掛けの小さなカバンの中からリップスティックのようなコスメを取り出す。
「鈴央くん、少し屈める?」
「お、おう。」
静音は、コスメの蓋を開けると柄の先についた小さなスクリューブラシで苫男の髪を丁寧にといた。
「これね、私の大好きなオートコスメの新作なの。"モテ髪マスカラ"って言ってね、こうやって外出先でも簡単に髪を整えられるんだ〜。いいでしょ?」
「コスメ……静音は、コスメが好きなのか?」
「うん!それはもうね、コスメ博士って言われるくらい。」
「ハハ、博士って。」
静音の好きなものを知れたと、嬉し気な表情の苫男。
コスメの蓋を閉めた静音は、そんな彼の肩をポンと叩く。
「はい、できたよ。」
ショーウィンドウに映る自分を見て、苫男は満面の笑みを浮かべた。
「すげえ、いい感じ!ありがとう、静音!」
パアッと弾けるように笑う苫男を見て、静音も釣られるように微笑んだ。
「ほら。行こ、鈴央くん。」
静音の少し冷たい小さな手が、鈴央の温かい手を引く。
何歩か進んだところで、静音が後ろを振り返る。
「……どうして、解くの?いつも、繋ぎたそうにしてたのに。」
鈴央は、自ら静音の手を解いてしまった。
「ご、ごめん。静音……俺と手繋ぐの嫌なんじゃないかって……」
苫男は、俯く。
恋愛は片方の想い、それだけでは上手くいかない。
失恋した姉の泣き顔が忘れられない苫男は、静音との関係にも臆病になってしまっていた。
静音は、視線を落とす苫男の顔を覗き込んだ。
「鈴央くん、さっきみたいに笑っていいんだよ。」
「え?」
「格好つけようとしなくていい、自然でいて欲しいの。私だけにぎこちない鈴央くんは、そろそろ終わりにしない?」
静音は鈴央の手を、ギュッと握った。
「私ね──今の、そのままの鈴央くんが好きなんだよ。知らないでしょ?髪が崩れて落ち込む鈴央くん、馬鹿みたいに笑う鈴央くん、自信のない鈴央くん。そういう、ちょっとダメな鈴央くんが、いいんだよ。」
静音を映す苫男の目が、涙で潤む。
彼女の言葉に、全てが救われた気がした。
今まで、自分らしさを貫ける梨人が羨ましかった。
何をしても、自分という存在に自信が持てなかった。
でも──それも、今日で終わりにしよう。
梨人が、俺の間違いを受け止めてくれる。
アネキが、チョコペンで描いた不器用な字を"ありがとう"と言って喜んでくれる。
静音が、どこか抜けているダメな自分を"好き"だと言ってくれる。
その人たちだけで、俺という存在に『意味』ができた。
そうだ、何も難しいことはない。
自分だけにしかない、その『意味』を大切に生きていこう。
そして、俺も探すんだ。
相手にしかない、特別な意味を。
──苫男は静音の手を、そっと握り返した。
「……ありがとう。俺も、静音のことが好きだよ。これからたくさん、静音を知って行きたい。こんな俺でも、いいか……?」
静音は、いつもより気持ち小さく感じる等身大の苫男に、とびきりの笑顔を見せた。
「そんな鈴央くんだから、いいんだよっ!行こ!」
彼女に思い切り手を引かれ、苫男は走り出す。
デパート街、青信号に替わった横断歩道。
手を繋いだ二人の足取りが、白い模様を駆け渡る。
苫男の前。肌寒い風を切って走る静音の髪が、かろやかに靡く。
彼女のダークブロンドが、冬の陽の光を受けてきらりと輝いた。
──岳陵、天傘書店。
熱から回復した梨人は、猫好きAに連れられて買い物に来ていた。
猫好きAはジャンパーの内側から生の札束を覗かせると、梨人に言う。
「さ、好きなだけ選んでおいで。全部、私が買ってあげるから。」
猫好きAは梨人の発熱の原因が、自分の流し込んだ影響力にあることを理解している。
そのため彼は、せめてもの罪滅ぼしとして梨人に好きなだけ本を買ってあげることにしたのだ。
「ええ、急にどうして?あ、なんか目的があるんでしょ?僕に頼み事があるとか……僕の知らない間に何かいけないことをした、とか。」
図星の猫好きAは内心ギクッとしたが、すぐに梨人を揶揄う姿勢に入った。
「別に、何もないよ。それより、私の機嫌の良いうちに選んできた方が良いと思うんだけどねえ。ああ、要らないって言うなら──それでもいいんだよ?」
猫好きAはチラリと梨人の方を見ると、いたずらっ子のように笑う。
「い、いらなくない!待ってて、すぐに選ぶから!」
「フフフ、はいよ。」
──30分後。
「好──こんなによかったの?僕、ちょっと買いすぎな気がするんだけど。」
梨人は、紙袋が破れてしまいそうな量の本を抱え、書店から出てきた。
「全然。本はいくらあっても良いんだから。」
そういう猫好きAも、同じく大量の本を腕に抱えている。
家まで運べば筋トレになるね、なんて冗談を言っていると書店の駐車場で、知った顔と遭遇した。
「あっ。」
声を上げた梨人に気づくと、彼女は声をかけた。
「梨人くん、こんにちは。」
「こ、こんにちは。」
気まずそうにする梨人に、猫好きAはひそりと尋ねる。
「……なんだい、梨人も彼女と知り合いかい?」
「梨人"も"って……?この人は、苫男のお姉さんだよ。ほら、あの時に操られた──」
「ああ、あの子の──なるほど。そういうことだったのか。」
猫好きAの中で、ようやく全てが繋がる。
蛇遣いに入れ込んだ、目の前の彼女が事の発端であり。
思惑と陰謀が積み重なったことで苫男の中に溜められた負の感情が偶然、スイーパーに利用されてしまった──
しかし、今回の一件。
影響力を目的とした人間界への勢力介入は、彼女でなくてもきっと、結果はそれほど変わらなかっただろう。
何はともあれ、要注意人物に変りはないと猫好きAは冷たくあしらう。
「挨拶が済んだなら帰ろう。梨人。」
猫好きAは彼女に何一つ言葉をかけることなく、くるりと背を向けた。
「う、うん。」
猫好きAに続いて、帰路につこうとした梨人を英里の声が呼び止める。
「あっ……梨人くん!」
後ろを振り返った梨人に、彼女は言う。
「なんだか、印象変わったよね。」
「ああ、眼鏡は卒業したんです。」
梨人は咄嗟に、鼻の辺りでクイっと小さく、ありもしない眼鏡を上げる動きをしてみせた。
英里はその動作に、ふふっと笑いを溢す。
「眼鏡無いのも、似合ってるよ。」
「えっ?あっ、ありがとうございます。」
まさかの急な褒め言葉に、梨人は微妙な表情を浮かべている。
車に乗り込んだ英里は窓を開けると去り際に一言、梨人へ伝えた。
「──コルクさんに、よろしくね。」
ハンドルを握ると、英里は書店を後にした。
「へえ。案外、普通じゃないか。」
車道に消えていく彼女の車を目で追うと、猫好きAは梨人の隣に並んだ。
「びっくりした……英里さん、なんか雰囲気変わったな。なんというか、前より穏やか?少し、丸くなったような──っ」
限界!と本の詰まった紙袋を一旦地面に降ろす梨人。
猫好きAは、そんな梨人の荷物を能力で引き寄せると自分の肩の上で軽々と抱えた。
「変わってこそ、人間だよね。誰かを変えるのも、自分が変わるのも。簡単なようで、簡単じゃない──それでも、関わり合っていくうちに必ず、変化は訪れる。」
そのまま先を歩く猫好きAに、梨人は走り寄る。
「あっ、ありがとう。」
純粋な瞳をこちらに向ける青年に目配せをした後、向き直った猫好きAはぽつりと呟いた。
「……変わってみてから、気づくこともあるからねえ。」




