page 78 : 微熱
ピピピピッ、ピピピピッ。
「37.8℃、また上がったわね……退屈だからって本読んだりしてないで、大人しく寝てないとダメよ。身体が休まらないでしょ。」
「分かってるよ……」
気怠そうな梨人の周りには、読みかけの本が置かれている。
恵は本を棚に戻すと救急箱から冷却シートを取り出し、梨人の熱い額に貼り付けた。
──待夜家、リビング。
「梨人くん、心配ですね。」
「そうだね──って。心配なのは分かるけど、そうじゃないでしょ。どうして君がここに居るの、セーヤくん。」
リビングには猫好きA、蛇遣いに加え、見慣れない人物が一人座っていた。
当然のようにテーブルを囲むセーヤに、猫好きAは怪訝そうに眉をひそめる。
「どうしてって……恵さんに、お茶友と命名を受けたからですよ。」
「お茶友って……んん?」
蛇遣いは、昨日の恵との会話を思い出した。
──昨夜、梨人とふたりが高校から帰宅してからのこと。
「あれ、恵さん。誰かお客さんでも来てたんですか?」
蛇遣いが覗く先、キッチンのシンクには見慣れない来客用のティーカップが一組み。
「ふふ、そうなの。お茶友ができちゃって。」
「お茶友、ですか?」
「ええ。初対面だけど、いい人よ。うちの車を守ってくれたお兄さんでね。無理言って引き留めちゃったんだけど、私の話に付き合ってくれたのよ。」
「へえ……どんな人だったんですか?」
「そうね、お顔の雰囲気は好と近いかもしれないわね。でも……なんて言ったらいいのかしら。とにかく、すっごく爽やかよ。」
──完全に合点のいった蛇遣いは、興奮気味に目の前のセーヤを指差した。
「あ〜!恵さんが言ってた"車を守ってくれたお兄さん"って、セーヤさんのことだったのか〜!!」
「その反応だと、もう話には出ていたんですね。」
三ニンが話しているところに、声が飛び込んできた。
「好、悪いんだけど頼まれてくれるかしら?」
二階から下ってきた恵が、猫好きAに話しかける。
「はい、なんでしょう?」
「あの子、また熱が上がっちゃってね……冷却シートがちょうど切れちゃったから、買ってきてもらえる?あとスポーツドリンクと、果物とか食べやすいものも。いいかしら?」
「分かりました。すぐに買ってきます。」
「助かるわ〜。お願いね。」
猫好きAは、素早く身支度を済ませると買い物へ出掛けた。
ジャンパーのフードを被った猫好きAが待夜家から薬局までの道を歩いていると、向かい側にどこか見覚えのある顔が見えた。
(はて、誰だったかな。)
猫好きAはすれ違いざまに、横目で彼女を追う。
「はあ……っ」
紙袋を抱えて俯き歩く女性は、緊張気味に息を震わせる。
「言える、ちゃんと言える……」
顔を上げたその女性は、苫男の姉・英里だった。
彼女が早足で向かう先は──梨人の家。
──昨日の、苫井家でのこと。
許可を得ることもせずに姉の部屋に乗り込んだ苫男は、英里の文句を聞く暇も待たず、彼女にいきなり五千円札を突き返した。
「はい、これ。返す。」
「はあ?なんでよ。私、頼んだわよね?金払う代わりに、あの眼鏡に一発食らわせてこいって。」
椅子に座り、足を組む英里は苫男をギロリと睨む。
「なに、できなかったっていうの?はっ、これだから役立たずは……」
呆れたように目を逸らす英里に、苫男はゆっくりと口を開いた。
「……傷つけてからじゃ遅いんだよ。アネキ。」
「はあ?だからなんだっていうのよ。」
そっぽを向いて油断した姉の肩を、苫男は思い切り掴み、揺さぶった。
「だから、アイツが!誰かが不幸になってからじゃ!後悔もできないって言ってるんだよ!!馬鹿アネキ……!」
見たこともないほどに感情的な弟の姿に、英里は呆気に取られた。
「ちょ、ちょっと鈴央。アンタ──」
英里が顔を覗き込むと、そこには涙をボロボロと流す苫男の顔があった。
「梨人も、誰も。悪い奴なんていない。あの男が好きだってんなら……素直に、気持ちを伝えればいいだけの話だろ?もう……もう、辞めよう。こんな卑怯なこと考えるのは……」
苫男が必死に訴えかけた想いが届いたのか、英里は椅子から立つと自分の服の袖で苫男の涙を拭った。
「そうは言ったって……もう遅いでしょ。私、嫌われることしちゃったんだから。」
あの日、コンビニで──英里は、許可もなく勝手に蛇遣いの腕に触れてしまった。
彼の、嫌がる素ぶりに気づいていたはずなのに。
それだけでなく、惚れたことを理由に盗撮にまで手を染めてしまっていた。
"もういい、諦めれば終わるでしょ"
そう言いそうな姉に、苫男は顔を歪める。
「会って、言葉に出さないと分からない。それに──この前はごめんなさいって。今からだって謝ることはできるだろ?恋愛がやり直せないとしても、間違いを正すためには動いた方が良いに決まってる。」
その言葉に、英里はハッとした。
今だって、"好き"という言葉を伝えることばかり考えて"謝る"という選択肢などまるで頭に無かった。
弟は──鈴央は、こうして。知らない間にも、人間として立派に成長している。
この現実に、英里は自分が恥ずかしく感じた。
弟に、人として大切なことを教わる日が来るなんて──。
「そうよね、鈴央。私、コルク様にちゃんと謝る。そして──好きですって伝えて。ダメ人間らしく、振られてくる。」
姉の最善の選択に、苫男は涙の目をゴシゴシと擦ると笑みを浮かべた。
「アネキ……それなら、良い考えがあるんだ。俺も協力するからさ。」
──そうして、現在。
英里は、震える指で待夜家のインターホンを鳴らした。
「はーい?」
恵の返事に、英里は辿々しく用件を伝えた。
「あ、あのっ。私、苫井英里です。コルク様……コルクさんは、いらっしゃいますか?──会いに来ました。」




