page 77 : セーヤとジルファ
──翌朝。
薄寒い洗面所に立つ梨人は、鏡の前で首をさすっている。
「なにこれ……二つも?いつできたんだろう。」
梨人が指を退かすと、そこには二つの赤い点が縦に並んでいた。
「そんなに鏡に近づいて、どうしたんだい。」
「ああっ、びっくりしたな……驚かさないでよ。」
足音も立てずに、背後から突然、猫好きAが顔を出した。
「好。見てよ、これ。首に変なのがあってさ。」
「おや。それなら、昨日取り逃した虫の仕業かもしれないね。」
「この季節に元気だなんて。本当、厄介だよなあ。」
「フフフ……ほんと。」
猫好きAは鏡越しに、意味深い笑みを浮かべていた。
──梨人と、ふたりが高校へ出かけた後。
心配性なレディから頼まれたセーヤは、待夜家周辺を巡回している。
これまでも、彼は仕事の合間を縫っては度々、こうして待夜家の周りを見張っていた。
外套のステルスを効かせると、宙を移動しながら視線を巡らせる。
「ようし──今日も特に問題は無し、と。」
いつも通り、瞬間移動で一飛びしようかと思ったところで、セーヤは待夜家の駐車場に異変を発見した。
「この家の人間……じゃなさそうだな。」
息を殺したセーヤが建物の影から覗くと、黒い格好に白マスクをした如何にも怪しそうな人物が、車に細工をしようとしていた。
──シュタッ。
セーヤは素早く車泥棒の元へと移動したと同時に、その無防備な首筋に手刀を入れた。
「ウッ……」
不意打ちを喰らった黒ずくめの人物は、うめき声をあげるや否や気を失い、セーヤの足元へと転がった。
「しまった。ここから、どうしよう。」
悪を排除すべく直感で動いたは良いものの、後のことなど何一つ考えていなかった。
「ま、まあ。まずは、証拠隠滅を……」
セーヤは辺りを見回し機器の位置と数を確認すると、片手のグローブを外した。
「邪魔。」
片目を細めると指先から風弾を放ち、範囲内にあった防犯カメラを全てお釈迦にしてしまった。
──カァ!カァ!カァ!
驚いた鴉が、突然の破壊音に一斉に鳴き出す。
「五月蝿いな、下のカラスは。上のカラスはもっと賢いというのに。」
騒音に眉をひそめるセーヤは足元に横たわる人間を見下すと、何となくブーツで踏みつけた。
「たしか、この辺りに──あったあった。」
彼は腰のベルトポーチから徐に、四角く折り畳まれた紙を取り出した。
これは、そう──六本足の遺体を忘却挟国へ送った、あの"陣"である。
セーヤは陣を地面に広げると、車泥棒を陣の真ん中まで蹴り転がした。
セーヤが持ち歩いている、この簡易陣の中には格納陣、召喚陣、強化陣、封印陣が存在する。
今回の物については、格納陣に位置付けられている『転送陣』という特殊な陣であった。
転送するにしても、車泥棒はただの人間──
非力な人間を一体、どこへ送ろうというのだろうか……
「僕も大概ですが、あなたも充分悪いので。」
そう言うセーヤは噛んだ指先を陣に這わせ、血文字でこのように記した。
"メロポート研究棟 ウィンドミル・ジルファへ贈る──セーヤ・レジール。"
書き終えたセーヤは膝をつくと、手のひらを陣に翳す。
「なんにせよ、相手が悪いので命の保障はできませんが──今、僕に殺されるよりはマシでしょう。」
次の瞬間。紙に描かれた陣は発動、光を帯びた車泥棒はセーヤの目の前から姿を消した。
「これで、よし。ジルファ先生、貴重な真人間──しっかりと研究に役立ててくださいよ。」
人間を転送した目的──それは、ジルファへの実験体提供にあった。
悪事を繰り返してきた車泥棒は、セーヤの機転により人間ではなく、ジルファのモルモットとして生きる運命を授けられたのだ。
──その頃、上空都市・メロポート。
第一研究室の隅では、クシャッとした白い髪に不健康な黒いクマを目元に持った白衣姿の男がパイプ椅子に座り、煙草をふかしていた。
彼の名は、ウィンドミル・ジルファ。
猫好きAと蛇遣いが使用した『擬態ポーション』でお馴染み、巡影帝国出身の薬学研究者である。
現在、ここメロポートに建つ「メロポート研究棟」にて上空・中空の発展のため、新たなる研究に明け暮れていた。
「ふぅーーーーっ。もうここに籠って何日目──いや、何週目だっけか。」
もう一本吸おうとライターを擦った時、研究室のドアが勢いよく開き、資料の束を抱えた助手のデーゼが入ってきた。
「ゲホッ、ゲホッ……ここで吸わないでくださいよ、先生!僕は煙草の匂いが……ゲホッゲホッ。煙が無理だって言ってるじゃないですか……!」
「ここは俺の研究室だ。何か文句でも?」
「"俺の"研究室なら!せめて研究データをばら撒く癖は辞めるべきでしょう?毎度毎度、僕が"必要なデータが無い!揃えておけ!"ってティゼットさんに怒られるんですからね!」
デーゼ助手の言う"ティゼットさん"は、このメロポート研究棟の棟長である。
所属する研究者や職員を可愛がる反面、研究のことになるとヒト一倍、厳しい。
「ああ、助手は君だ。助手とは、俺が成果を残すための、助手。データの整頓も、精神的ダメージの分担も、テーゼ助手。君の役目だ。それでも何か、問題あるか?」
「ええ。問題あります。僕はテーゼではなく、デーゼです。」
「──それは失礼。デーゼン助手。」
未だに自分の名前を間違える、研究でっかちな先生にデーゼはムスッとしている。
「ジルファ先生の、デ・エ・ゼ 助手はティゼットさん……じゃなくて。ティゼット棟長からの文書を届けにきたんです。それと、次の研究にと先生が希望されていた、グーゼルラットの下調べの方も。」
"ラット"という言葉を聞いたジルファの表情が、あからさまに輝き出した。
「でかした、デーゼくん。」
やっと正解と満足気に頷いたデーゼが、ジルファへと資料を手渡そうとした時。
研究室の中心──銀色の作業台の上に刻まれた紋様が光り、その光が消えると共に黒い物体が台上に現れた。
「先生宛の陣ですね?誰からでしょう……」
ジルファに資料の束を押し付けたデーゼが作業台に駆け寄ると、そこには暗い服に身を包んだ男が横たわっていた。
黒いニット帽と、マスクの隙間に見えている瞳は閉ざされ、身体はぐったりと脱力していた。
「ヒィッ!!し、死体ッ!!」
腰を抜かしたデーゼの様子を見たジルファは作業台に乗った男を調べるべく、資料を台の片隅に置いた。
「死体な訳あるか。俺に死体を送りつけて何になる?他のヤツならともかく、俺なら解剖学は専門外だ。」
「で、でもその……嫌がらせっていう可能性も……」
「俺が?嫌われているって?」
「い、いえ!なんでもない、です。」
(余計なこと言った……僕のバカ!)
やべっと口を塞ぐデーゼの前、不機嫌そうなジルファが男の首に触れ、状態を確認する。
「この男、息はあるみたいだ。それに──影響力がまるで感じられない。まさか、下界の人間か?」
「げ、下界!?」
「瀕死でもない、生きた真人間を送ってくるということは──俺の生体実験に理解のあるヤツってことだな。」
ジルファは簡易陣に目を移すと、隅に書かれた血文字を指でなぞった。
「メロポート研究棟 ウィンドミル・ジルファへ贈る──セーヤ・レジール。……セーヤって、誰だっけか?デーゼくん。」
「ぼ、僕は知りませんよ……?」
メロポートから一切、外に出たことのないデーゼがセーヤの存在を知るはずもなかった。
「ただ……それは先生への贈り物、ですよね?先生の研究を知っていてかつ、先生と近い関係のヒトだと断定すれば……棟の関係者か、巡影の戦闘員になりませんか?ほら、有名どころだと巡影騎士団とか。」
「巡影騎士団……セーヤ……セーヤ……」
ジルファは、巡影騎士団と関わった記憶の片鱗を化学式をかき分けながら手繰り寄せる。
あれは確か、騎士団が任務準備の一環として行ったポーションについての講習会でのこと──。
──"いいか?この擬態ポーションは上級。肌質や、爪の形まで思い描いた姿通りになれる、超一級品に仕上げた。だが、痛み苦しみなしに効果を得られるとは思うなよ?虚弱体質と持病のあるヤツ、下手したら死ぬからな。試すには、覚悟を持つように。"
『死』という言葉を耳にした途端、その場にいた半数の団員の興味が逸れるのをジルファは感じた。無理もない。我が身が一番、その考えに異論はない。それに加えて、上級の苦しみを身を持って経験した自分ですら使用は勧められなかった。
「今回、上級はテスター枠として巡影には三本、提供する。試したいヤツはいるか?」
(さすがにいないだろう。)
初級・中級で十分とされる中、命を削る危険な上級に手を出す物好きなどいるはずがない。そう思っていた──。
「はい、先生。」
上級ポーションの小瓶を箱に戻そうとしたところで、一人の青年の声が飛び込んできた。
声の主は、淡い水色の髪をした若い騎士。
「巡騎第五部隊長、セーヤ・レジールです。一本、お借りしても?」
正気かと、周りが酷くざわついていたのを今でも覚えている。
その後──別室にて上級ポーションを渡し、自分を含め研究員二名同伴の元、服用させた。
彼は身体を痙攣させ、悶え、涎を垂れ流しながら──笑っていた。
そして何を思ったのか、彼が俺の目の前で変わってみせたのは──ウィンドミル・ジルファ。
俺という器の複製だった。
俺の研究と一人の青年の意欲の融合によって作り出された、もう一人の自分。
鏡合わせのような気持ちの悪さを感じながらも、俺の精神はかつてないほどに昂っていた。
俺の研究が、一人の衝動を突き動かしたのだと。
──そうか、彼だ。彼がセーヤだ。
なぜ、あれほどまでに印象的な騎士を忘れていたのだろう。
あの時の彼の姿は深く心に焼き付いていても、名前という羅列は数式やら、化学式やらにかき消されてしまう。没頭すると、そればかり──俺の悪い癖のようなものだ。
作業台の前でボーっと考え事に耽るジルファを、小柄なデーゼは一生懸命に揺さぶった。
「先生……先生!ジルファ先生!!戻ってきてくださーい!!」
「……した。」
「えっ?なんですか?」
「……完全に思い出した。」
「おっ!それで先生、セーヤって誰なんですか?」
「ああ……上級ポーションのテスターに名乗り出た、巡騎の若僧だった。あの怖い物知らずからの贈り物とは、実に興味深い。」
ジルファは、作業台の上で捌かれるのを待つマグロのように横たわる男──もとい車泥棒にカバッと覆い被さると、油の乗った男の体型を上から下まで舐めるように観察した。
「……好きに使っていいってことだよな?」
「そうですね──って、この下界人。何に使うつもりです?」
ニヤリと口角を上げたジルファは、デーゼにこう言った。
「グーゼルラットは後回しだ、助手くん。本日より、人間に使用可能なポーションの研究へ取り掛かる。」
「それは、下界へのポーション展開を視野に入れるということですか!?」
「できればの話だがな。どうだ、面白いとは思わないか?」
グーゼルラットを超える実験体を手に入れたジルファはセーヤの狙いを超え、またとんでもない研究に手を出そうとしていた。
この研究が成功すれば上空・中空に身を置く下界出身者はもちろんのこと、
下界──人間界は、また違う世界を見ることになるだろう。それは明るい未来か、はたまた、不幸の上塗りか──。
メロポート研究棟の第一研究室では今、まさに。世界を変える実験が始まろうとしていた。
──人間界、待夜家の庭先。
「嘘、でしょう?」
車泥棒を始末したセーヤがふと、盗まれそうになっていた美雪の愛車『FOR RUVIN'』に目を留めると、助手席の窓が半分開きっぱなしの状態になっていた。
「これじゃ、盗ってくれって言ってるようなものじゃないか……」
レディに任されたとはいえ、こればかりは見逃せなくなったセーヤは、意を決して待夜家へ注意をすることにした。
──ピンポーン、ピンポーン。
「はーい?ええと……どちら様でしょうか?」
外のインターホンから、戸惑う恵の声が聞こえてくる。不審がるのも、無理はない。
勤務中のセーヤは紺色の髪を除くと、車泥棒みたく真っ黒な装いであった。
「失礼します。私、通りすがりの者です。そこに駐まっている車の窓が開いているのを見つけて、気になってしまいまして。」
「……もしかして、うちの車??」
「はい、そうです。」
「や、やだ大変!ありがとう、教えてくださって!」
ドタバタという足音の直後、玄関から車の鍵を持ったエプロン姿の恵が出てきた。
「お兄さん、ちょっと!ちょっと待ってて!!」
「は、はい……?」
慌てて車の窓を閉めた恵は、馬鹿真面目に玄関先で待っていたセーヤの背中をぐいと押した。
「あ、あの……奥さん?いったい何を……」
「何って、親切にしてもらったんだもの。さ、一杯お茶でも。」
「えっ……ちょっ……」
──ギイッ……バタン。
恵に押され慌てるセーヤの後ろ姿を最後に、玄関のドアが閉まる。
不用心を一言注意して帰るつもりが……セーヤは恵によって無理やり、家の中へと連れ込まれてしまった。




