16.水、届ける
昼食が済むと、アリサが買い出しに行った。アリサ不在の間に出てくるのはもちろん院長だ。彼は食堂で堂々と書類を広げて仕事をこなしながら、子供たちを見守っていた。見張りのおとながなかにいるので、今の時間帯、庭に出ることはできない。孤児院の扉はぴたりと口を閉ざしていた。
ノイムは、いかにも院長の顔色を窺っていますという態度で、そろそろと食堂を離れた。カデルがついて来ようとしたが、首を振って押しとどめる。今はひとりがよかった。
増設棟に逃げこんで、誰もいない寝室に引きこもる。
(カデルは魔法が使えない。じゃあ、私は?)
前世のノイムは、魔力がわずかしかないどころか、まったく持っていなかった。おそらく、現代日本からの転生者だったことが原因だと思われる。魔法がない世界には魔力も存在しない。当然のことだ。
一応、この世界では、魔力をこれっぽっちも宿さない命というのは存在しない。ということになっている。最も保有量が多いのは魔族を含む長命種で、次点が魔獣、そして人間、魔獣には分類されないその他の動物、植物と続く。そこらの雑草にも、微々たる魔力は宿っているのである。
もちろんこれは平均値なので、それぞれの種のなかでも個体差がある。
たとえばノイムのように、ミリの魔力もない場合は、魔力の保有量でいったら雑草よりも下に置かれるが……異世界に来るまで、ノイムはまさか自分が雑草以下の存在だと大真面目に断言する日が来ようとは思わなかった。できれば二度と言いたくない。
とにもかくにも、これは前世の話だ。今のノイムの体は、この異世界の、どこの誰とも知らぬ女が産んだものである。言い方は悪いが、異世界産であれば魔力は必ず宿っているはずだった。
(集中……)
冷たい床に体育座りをしたノイムは、まぶたを下ろした。
体の内側に意識を向ける。心臓の鼓動を感じることに神経を注ぐ。前世ではしゃぎながら魔法の手ほどきを受けたとき、ノイムに指導をした先生はまず「魔力の流れを感じ取り、その存在を認識する」ところから始めるべしと言っていた。結果、魔力がまったく存在しないことが判明したわけだが……。
(……ん?)
黙々と意識を集中させても、ノイムの五感に変化はない。静寂が起こす耳鳴りのような小さな音と、脈打つ心臓の音。あとは自分の呼吸。感じるのはそれだけだ。
よく、似ていた。
前世で、自分に魔力がないと気づいたときと、ものすごく。
「……まさか」
今世でも、ノイムに魔力はないのか。
体の問題ではなく、魂の問題だったのだろうか。ノイムの魂は現代日本から来たものだから、生まれ直しても変わらないということか。
思えばそもそも、現代日本から異世界に来たときだって、ノイムがしたのは転移ではなく転生だった。現代日本でのノイムは、不審者との取っ組み合いの末に土手から転げ落ちて死んだのだ。異世界で過ごしたノイムの体は、現代日本で生まれ育った体とは違う存在だっということだろう。
最初から、ノイムに希望はなかったのである。
「そんな都合よくはいかないか……」
魔法が使えれば、レオとタランを助ける計画も多少は捗ると思った。その後のノイムとカデルの逃亡も。しかし、現実はそこまで甘くはないらしい。
結局、ない知恵を絞って、小さな手足を目いっぱい動かして働くしかなさそうだ。
ふ、と息をついたノイムは、諦めて階下に戻ることにした。
▼ ▽ ▽
夕食に出てきたイモのポタージュを一杯、コップに入れて戸棚に隠した。
何食わぬ顔で自分のぶんをよそったノイムは、食堂の隅のテーブルに着く。やや遅れてカデルが隣に座った。
「さすがに危ないだろ。昨日、あれだけ……」
まだ渋っている。計画を立てるだけならまだしも、昨日の今日でさっそく動き出すのは不安らしい。
ノイムだって不安だ。でも、悠長な真似はしていられないのである。
人間が飲まず食わずで生きられる時間には限りがあった。とくに飲まずについては、ほんの数日が限界だ。そしてその基準はおとなのもので、対象が子供だとすると耐え忍ぶことができる期間はさらに短くなる。
レオもタランも、すでにデッドラインの上に立っている。
「レオはとくに、もう意識がないみたいだし……」
ノイムとカデルが開かずの間を覗いたとき、たまたま寝ていただけという可能性もあるが、楽観は危険である。命がかかっているのだ。常に最悪の想定をしながら動かなければいけない。
「もしかしたら、タランももう動けなくなってるかもしれない」
はたして、ノイムの予想は当たった。
ノイムとカデルは、孤児院のなかのなにもかもが寝静まるまで辛抱強く待って、布団を抜けだした。靴は履いていない。外に出たらどうせ脱ぐからである。
最初に向かったのは厨房だ。皮剥き用の小ぶりなナイフをひとつ、隠しておいたポタージュのカップ、また別のカップに汲んだ一杯の水。それだけ持って、泥棒ふたりは慎重に庭へとすべり出した。
「カデル、お願い」
「おう」
ひとまず水とポタージュは下に置き、ナイフだけを手に、カデルに背負ってもらう。昼間の練習のとおり、彼はなめらかに壁を登った。窓の横にぴたりとつく。
「窓、開けられるのか?」
そのナイフで? と言いたげだったが、実はノイムも半信半疑である。口には出さないが。
窓を静かに割る方法、それも今のノイムに実行できる範囲でとなると、思い出すのにもなかなか苦労した。参考にできるのが刑事ドラマの泥棒くらいしかない。それも、二度の転生を果たしたノイムにとっては十年近く前の記憶である。
「……まあ、見ててよ」
ノイムは内鍵にほど近い、窓枠とガラスの間にナイフを差しこんで力を込めた。みし、とガラスに亀裂が入る。ごくごく小さな範囲だったが、ノイムはほっとした。やり方は合っている。
場所を変えて何度か繰り返すと、放射状に広がったヒビがうまく繋がった。ノイムはナイフの柄を咥えて、パズルのように窓ガラスを外す。生じた穴から手を突っこんで、掛け金を外した。
「ほんとに開いた……」
「すごいでしょ」
ノイムが考えたわけではないが、カデルの感嘆の声にちょっと気分がよくなった。
窓を押し上げる。
――死が間近に迫った匂いがした。
部屋に横たわる小さな体は、昨晩見たときからほとんど位置が変わっていない。そして、外からの侵入者にも反応を示すことはなかった。そっと体を揺すってみる。レオはぴくりともしない。まだ、息だけはしている。
タランが辛うじて目を開けた。
「たすけにきたよ」
話す気力も残っていなさそうだが、とりあえず静かにするようにとジェスチャーをして、猿ぐつわを解いた。カデルに頼んで、レオのほうもほどいてもらう。ついでにナイフを渡して、ふたりの手足の縄もまとめて切ってもらった。
「ちょっと待っててね」
言い置いて、ノイムとカデルは外へと戻る。今度はポタージュと水を抱えて、もう一度部屋に登った。
それぞれに水を飲ませてやる。レオに変化はなかったが、タランの淀んだ瞳にわずかな生気が宿った。たっぷり時間をかけてさらに口に含ませる。
「……あり、がと」
耳を澄まさなければ聞こえないような、か細い礼がタランの口からこぼれた。
「動けるようになったら、ポタージュも飲んでね。レオにも飲ませてあげて。一気に飲むと気持ち悪くなっちゃうから、ひと口ずつ、絶対に時間をかけること」
タランはかすかに頷いたようにも見えた。
ノイムたちにできるのはここまでだ。あとは本人たちの回復力に期待をかけるしかない。ふたりとも――特にレオにはかなりの不安が残るが、それでもどうしようもなかった。
明日また来ることを告げて、ノイムたちは開かずの間をあとにした。




