第六話 終着点①
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『人間になりたくはないかい?』
それは猿ではない別のものにかけられた言葉だったが、まるで猿自身に問われているようで酷く心を揺さぶられた。
人間になる。森に暮らす猿は人間というものに出会った事がない。――いや、正確には最近よく一緒に過ごすようになった人間はいたが、自分は別段興味をそそられなかった。
だが人間になる、という問いに猿は心惹かれるものがあった。
人間。今とは違う何か。そういうものになれる可能性があるのかと、胸が躍った。
なりたい、と問われた者は答えた。そうすると問うた者は問われた者に人間になる術を語って聞かせた。
その時に猿の心に宿った暗闇。暗鬱としたその感情を言葉にするのなら、
「――あれは嫉妬だったか。羨望だったか。はたまた憤怒だったか」
人間の身体を手に入れたリマンジャはその時を思い出しながら自虐的な笑みを浮かべる。結果的に人間になった事はよかった。だが、その身には代償として人喰いという枷が嵌められた。
「ああ、忌々しい! こんなしがらみを得るために人になったのではないというのに」
リマンジャは広い執務室の中で毒づいた。ガラドリムの宰相“リマンジャ=アハル=サーム”の執務室は広く雑多で、かつてここに暮らしていた本物のリマンジャ=アハル=サームの人格が手に取る様にわかる。リマンジャはそれをあえてそのままにしておいた。自分は先日死んだ前マスルに永く仕えた名相。主が死んだ後も、その息子のために忠義を尽くす忠臣の鑑。
そういうものに成り代わらなくてはならないのだから。
「しかしそれも悪くない。俺はもう名もなき怪物ではないのだから」
宰相に成り代わるのは本来、獣王が安全に暮らす場所を確保するための措置だったが、その享楽はリマンジャにとっては思わぬ副産物だった。
これでようやく自分は人に慣れた気がする。化け物ではない、獣でもない、完璧な存在に――。
しかしその数年後、リマンジャの理想を打ち砕く出来事が起こる。ジンロが飢餓の本能に負け暴走し、人を無意識に喰い殺した。事件は宰相の地位を持ってもみ消したが、リマンジャの心に浮かぶのは絶望だった。
「俺たちは人を喰わなければ気を狂わす……? そんな事があっていいのか?」
まるで呪縛の様にリマンジャたちに付きまとう業。もしリマンジャも食事を怠れば、あれと同じように暴走してしまうのかと考えると、リマンジャは途端に怖くなった。
――ああ、結局俺は人間になりきれていないのか。
どんな地位を手に入れても、人間の様に振舞っても。この内に秘めた業がある限り、リマンジャは化け物である事に変わりがない。それを知った途端に、リマンジャは一人孤独に狂う事を恐れた。
だから絶対に仲間を死なせないと誓った。
同胞への愛ではない。怖かったのだ。
リマンジャ一人が取り残されることが、末恐ろしかった。
――早く呪いを解く方法を考えなければ。あるいは、この世界の生き物が全てこの呪いにかかってしまえば。孤独の恐怖からは逃れられるだろうか。
あるいは、もう生きる事を諦めるべきなのか。
ずっと、ずっと、ただの猿の頃から思っていた気がする。
他ではない何かになりたいと。一方で一人孤独に死ぬことは恐ろしいと。
だから猿はきっと誰かと共に運命を共にする結末を望んでいたのだ。
◆
それはいつからアルトリカの中に住み着いていたかわからない。
父が母を殺したあの日から。いや、母がアルトリカを逆恨みするようになってから。
いや、もっと前。
アルトリカが生まれたその日から。どうしようもない獣の心がアルトリカには備わっていたのかもしれない。
己ではない誰かが己の舌を動かしている。ぴちゃぴちゃと奇怪な水音を立てながら、何かを必死に貪っている。
「血は入念に飲み干すんだよ。万物の奏者のものが混入している」
すぐ傍で命令を下すものがいる。頭の奥がじんと痺れを発して、アルトリカはその声の赴くままに身体を動かす。
鉄を極限まで凝縮させたような匂い。ごわごわと硬い触感。どれもが不快で吐き気を催す。それなのに、自分はそれをやめられないでいる。
目の前に横たわるその何かを貪る事をやめる事が出来ないでいる。
「どうだい、人の味は。――不味いだろう」
「……」
アルトリカは答える事が出来ない。ただ目の前の食事に集中したいと、本能がそう告げている。
「お前はセルバによく似ているね。我らロースローン家の誇りだよ。……そう、セシリア王――セルバに次いで力を持った一族だ。この世界に馴染めないのも道理だ」
ドロドロとした言葉が食事と共にアルトリカの内面を犯していく。傍らにたつその人物が言っている事をアルトリカはほとんど理解できないでいる。それでも、
――セルバ。失われた神。我らの先祖。
いつだったか、一族のものが教えてくれた。かつてのセシリアは神の国。我らは神の子供にして、神に仕える腹心。それが術師なのだと。
「――さあ、次はお前だよ。猿の王」
少しずつアルトリカの核が違うものに成り代わっていく中、アルトリカの前に現れたのは、かつてロースローンが生み出した化け物。
その目は酷く寂しそうに細められている。孤独と絶望を抱えた哀れな獣は、間違いなくアルトリカの同類だった。
獣はこちらに手を伸ばす。アルトリカを捕らえようとしているのか、縋りつこうとしているのか、掌が間近に迫るまでわからず、アルトリカは頭を鷲掴みにされても危機感を抱けなかった。
《お前なんざ喰い殺してやる》
化け物が呻いた。
《俺たち獣王を、俺たちの唯一無二の存在である万物の奏者を。そのすべてを奪った奴を。俺は許さない》
それは明確な本音だった。だが、アルトリカはその言葉の裏に潜む本心に気づく。
「――嘘だな」
《何……?》
「お前はもう生きたがっていない。もう諦めている」
獣があからさまに動揺した。自分の腕を鷲掴みにする右腕を掴んで、アルトリカはまっすぐに獣を見据えた。
「一体いつから死ぬことを考えていた? いつから一人になるのを恐れていた?」
《……!》
「ああ、お前の憂いが手に取る様にわかる。これは、――なんだ?」
今までは嘘が見抜ける程度だった。相手の本性を薄ぼんやりと捉え虚偽を見通す、それがアルトリカの能力だったはずだ。
だが今はそれよりももっと深く、相手の心を見透かすことが出来るようになっていた。一層クリアになった深層心理の核の部分に、アルトリカは容赦なく潜っていく。
「脳を喰った事で才能が開花したんだね」
すぐ傍で老婆が満足げに笑った。そうか、そういう事か。と、アルトリカは理屈もよくわからないまま納得し、
「なら、お前は僕が喰ってやる、哀れな猿の王」
掴んだ腕に力を込めた。すると相手も抵抗するかのように腕を引く。
《ふざけるな! 誰がお前なんぞに喰われるか!》
「うるさい。獣王としての生に辟易しているというなら僕が終わらせてやる。その腕を寄こせ」
《ほざけ。お前こそその右腕を寄こせ。俺が喰ってやる》
お互いにお互いを喰い合おうとしている。物理的にか、心理的にか、そのどちらでもか。膠着する両者の間をするりと横切ったのはマチルダだった。
「喧嘩はおよしよ。大丈夫、二人とも死なせはしないさ」
そう言ってマチルダは組み合ったままのアルトリカと猿の腕を握った。そして、
「!?」《!?》
両者共に驚愕した。お互いに、何か見えない力に押されて前に倒れる。目の前の者にぶつかりそうになって、――だがぶつかる事はなく。
ドロリ
そう表現するのが的確だった。自分の中に何かが入り込んだ。あるいは何かの中に自分が入り込んだ。
その瞬間、自分のものではない思考と記憶が脳に流れ込んできて、パニックに陥る。自分のものと他人のもの。その明確なはずの境界線があやふやになり、ドロドロに混ざり合って溶けていく。
それは悲鳴を上げた。その声が二重に重なり合い、やがて融合して一つになった。痛みを伴う身体も、次第に融解して新たなものに作り替わった。




