第五話 悪夢の夜⑤
狭い螺旋階段を降りていくにつれて、腐臭は濃くなっていった。それに加えて微かに鉄臭さも混じる。本来なら気を失いかねないほどの空気の澱み。意識を保っていられるのは、懐にしまいこんだジンロの羽のおかげだろうか。
「ねえ、ジンロ」
イスカは隣を歩くジンロに耳打ちした。
「なんだ?」
「さっき、呪詛って言ったけど、ジンロはこれを誰がやったかわかるの?」
「……」
ジンロはこれ以上なく苦い顔をした。この反応は、呪詛を仕掛けた人間に心当たりがあるとみていいだろう。けれど、
「まだ確証がない。呪詛の効力を明るみにしない事には」
「わかった。とにかく今は状況把握だね」
「ああ、だが恐らくこの城はすでに落ちてる。危険なのは間違いない。だから絶対に離れるな」
ジンロがそう言い切ったところで、螺旋階段を降り切った。回廊に続く扉をリシュリューが躊躇なく開くと、
「――!」
言葉を失った。美しい大理石の回廊はあたり一面血に染まっていた。床はもちろん壁や遥か高くの天井に至るまで。血痕が付着していない場所なんて見当たらないくらい、紅く染まった地獄には、夥しい数の肉片が散乱している。
「ひっ――」
「あまり見るな」
ジンロが庇ってくれるものの、僅か一瞬に見たその光景が衝撃的過ぎて、瞼に焼き付いて離れない。
人間だったはずのものが、完膚なきまでに破壊されている。皮膚を喰い破られ、臓物を引き出され、骨も筋も無残に引きちぎられ食べられた後の姿。
――そう、食べられた。
五十メートルほど離れた壁際に蠢く影が見えた。それは床に這いつくばり、人間とは思えないうめき声を上げながら、一心不乱に何かを食している。それがイスカたちの存在に気が付くと、
「うあああああああああ」
不快な奇声を上げてこちらに向かってきた。身体をありえない方向に折り曲げたまま、とんでもないスピードでこちらに手を伸ばしてくるが、
キィン
リシュリューがその腕を目にもとまらぬ速さで切り落とした。そのまま綺麗な回し蹴りを腹に叩きこむと、化け物は後退し、
「ぎゃああああ」
ジンロが起こしたかまいたちで切り刻まれ断末魔を上げて絶命する。化け物は床に落ちている肉片と同等になり、床を一層血に塗れさせた。
「なあ、今の奴近衛兵の制服を着てた」
口元を押さえながらも、チェスターは今自身らを襲った化け物を冷静に分析する。イスカも一瞬しか垣間見れなかったが、襲ってきた化け物は挙動が異様だったこそあれ、見た目は普通の人間だった。
「恐らく呪詛は人間の気を狂わせる。狂った人間が理性を失い、人間を喰らい始める」
「人間を喰らう……、じゃあまさかこれは――」
「ああ、――共喰いだ」
あたり一面に散らばった死体の残骸。それは、人間同士が理性を失いお互いを喰いあった痕。その悍ましさに、イスカは気が遠くなるようだった。
「ジンロ……もしかして、この城にいた、全員――?」
「おそらく」
よく耳をすませば、城のあちこちから呻き声や悲鳴。そして微かに――何かを咀嚼する音が聞こえる。宵の刻とはいえ、王都の中心であるこの城には何百という官吏や兵が詰めているはずだ。それが、全員――。
「……逃げるなら今かもしれない」
その時、ジンロがぽつりと呟いた。それを聞いたイスカははっとする。
(そうか……今なら、城の中は混乱している。城のものの目をかいくぐって逃げられるかも――)
だがあたり一帯が呪詛で狂った人々で囲まれている状況で、上手く追っ手を躱し脱出できるかは賭けだ。それでも、
「ジンロ、お願いできる?」
「ああ、勿論だ」
イスカはジンロと頷き合い、次に双子を見た。同じ顔をした二人の神父は、苦い顔をしながらもどこか諦観した表情をしている。
「あの――」
「いい、言わなくて」
二人はアルトリカの部下。つまり、イスカにとっては敵だ。しかし、彼等にも彼らなりの事情があり、アルトリカに付き従っているのだとわかった。ここでイスカたちを逃がせば二人は確実にアルトリカに罰せられる。それをわかってもなお、チェスターはイスカを止めようとはしなかった。
「俺たちも潮時だと思ってた。これ以上、アルトリカさんの元についてはいられない」
「……いいんですか?」
「ああ。今日の、あの王の実験を目の当たりにして確信した。狂ってるのは、――あいつらだって」
狂っているのは騎士、術師――そして彼らに命を下す国王。
「俺たちは離反する。――リシュリュー、お前は」
「当然異論はない」
リシュリューは兄の決断に何一つ反論することなく従った。四人の決意は固まった。未だあちらこちらで呻き声と血の匂いがはびこるこの地獄から逃げる事を誓う。
「悪いが俺はイスカを守る事を最優先する。お前たちの事まで気にかけてる余裕はない」
「もちろん承知の上だ。自分の身くらい自分で守れる」
チェスターは少し不服そうに口を尖らせてそう言った。――その時だった。
「――」
微かな、本当に微かな音だった。張りつめた空気に交じる金属音。イスカがふとそれに意識を逸らされたその瞬間、
――目の前で紅い血が舞った。
「――リシュリュー!」
それは瞬く間の出来事でイスカには到底追いつけなかった。気が付いたら目の前でリシュリューの首から鮮血が噴き出していた。彼は何かからチェスターを守る様に体勢を崩したまま、大きく目を見開いて驚愕の顔でゆっくりと地面に倒れていく。
「リシュリューさん!」
イスカが叫んだのと、ジンロが翼を展開しイスカたちを庇うように立ちふさがったのが同時、再びあの金属音が聞こえイスカの元に迫ろうとしていた何かをジンロの羽が遮った。
「お前は……っ」
ジンロが瞬時に抜いた剣で切り結んでいたのは、甲冑に身を包んだ聖騎士。ここ数日毎日の様に顔を見せていたその男が、悍ましい形相をして笑っていた。
「アルトリカ、さん……?」
だが、輪郭や表情でなんとかアルトリカと識別できるだけで、はっきりとアルトリカだと断定することが出来ないでいた。
(何……? この気配――)
腹の底からぞわりと悪寒が沸き立つ。それは人間に相対した時には感じえない。――そう、化け物との邂逅だった。




