第五話 悪魔の夜④
◆
「さあ、アルトリカ。お前の願いが叶う時がやってきたよ」
「……?」
「お前は獣王になれるんだ」
そう言ってマチルダは放心状態の国王の元へアルトリカを誘った。
「お前がいてくれてよかったよ、猿の王。いくら強靭な精神を持つアルトリカでも、これからする事は正気でいられないからね。お前のおかげで少しは希望が見出せそうだ」
猿の王は俯いたまま答えない。毒気を抜かれた獣でも、その肉体は必須だ。
「王を喰え、アルトリカ」
マチルダはアルトリカに恐ろしい命令を下した。指示された先にいたのは、この異形がはびこる空間で、一人放心していた哀れな国王。
「王を、喰えだって――」
「そうだ。獣王になる方法はただ一つ。『王』と呼ばれる存在を喰う事だ」
マチルダの口調は嘘を言っているようにも、からかっているようにも聴こえなかった。ただ茫然と、返答の言葉が見つからずアルトリカは立ち尽くす。
「王を喰う事。それが、今とは違う自分になるための唯一の方法だ」
「……」
「怖いかい? でも人ならざる者になるという事はそういう事だ。人間の倫理を捨て、心のうちにある欲望と本能のためだけに身体を使いなさい」
マチルダがアルトリカの心臓のあたりにそっと手を添えた。想像以上にどくどくと鼓動を打つ自分の心臓に初めて気づき、体中から大量の汗が噴き出しているのを感じる。
「これまでの獣たちは皆そうして己の箍を外した。お前は人類で最初の『人間の王』になるんだ」
「人間の、王――」
「これはそのための第一歩さ。さあ、まずはそこにいる哀れな『人の王』から」
国王は先ほどから黙ったまま気配もなく大人しくしているからどうしたのかと思えば、なんてことはない。
この異常な空気に充てられて、正気を失いぶつぶつと何かを呟いていた。
「さあ、どこでもいいよ。腕でも、足でも、目でも、心臓でも――」
アルトリカの手が無意識に剣へと伸びた。標準を定めたのは、
「――そうかい。お前は蜥蜴と同じものを欲するんだね」
興味深そうにくつくつと笑う老婆の目の前で、アルトリカは国王の頭蓋骨めがけて勢いよく剣を振り下ろした。
◆
異変が起こったのは、ジンロがチェスターたちに獣王の事をある程度語り終えた時だった。
イスカは空気が揺れたのを微かに感じた。風が吹いた時の様な微弱な揺れ、だが、次の瞬間空気がずんと重くなるのを感じた。
「えっ――」
間違いなく、世界が変わった。
「っ⁉ まずい! お前らこっちにこい!」
突如慌てたジンロがそこにいた全員を引き寄せた。暗闇で金に光る美しい翼が広がり視界が覆われる。綺麗だ、と考える間もなく、強い地響きがイスカを襲った。
「地震か⁉」
「いや、違う……。これは――!」
怖くなってジンロの服にしがみつくと、程なくして揺れはやむ。しかし、後には仄かに鼻を衝く腐臭が漂っていた。
「なんだ……、この匂い……」
リシュリューが顔をしかめて呻く。揺れが収まってもなお、ジンロは三人を何かから守る様に翼で覆い続けた。
「ジンロ……、ねえ、これって――」
「……」
ジンロは黙ったまま明後日の方を向いている。その横顔は険しく、イスカをますます不安にさせた。
「いいか、お前ら。今から俺の言うとおりに行動しろ」
ややあって、ジンロは深刻な顔でイスカたちに告げる。
「まず俺の翼から羽を一枚取れ」
ジンロはイスカたちを覆うように広げる翼を指して言った。
「えっ、取るって……、いいの?」
「いいから、早くしろ」
チェスターとリシュリューも怪訝な顔を見合わせていたが、やがてジンロの言う通りすぐ傍の翼から羽を一枚毟り取った。イスカも同様に傍で光り輝く金色の羽を一枚手に取る。
「三人とも、その羽を懐にしまえ。いいか、この城を出るまでは、どんなことがあっても手放すな」
「おい、もう少しわかるように説明してくれよ」
「説明しなくてもわかる。……全員ちゃんと持ったな? なら解放するぞ」
イスカが羽をポケットにしまい込んだのを見て、ジンロが翼を畳んだ。その途端、
「――っ!」
仄かだった腐臭が突然強烈になってイスカたちを襲う。たまらず鼻を覆ってもこみ上げてくる吐き気に顔をしかめた。
「――おい、何だこれは?」
リシュリューが額に汗を浮かべながらジンロを睨みつける。この空間の中で唯一平気そうなジンロは、イスカの肩を抱き寄せ呼吸に喘ぐイスカの背を撫でてくれた。
「呪詛だ」
「呪詛?」
「ああ、何者かがこの城全体に呪詛をかけた。この城にいる、生きるものすべてにかかる呪いだ」
ジンロに宥められると不思議と呼吸が楽になってくる。イスカはゆっくりと平常心を取り戻しながら、ジンロの述べる推測に耳を傾けた。
「今お前たちには『加護の鳥』の羽を渡したから、多少は呪詛を弾き返せる。だが、恐らくこの城にいる他の奴らは犠牲になっているだろう。精神力の強い人間なら、あるいは正気を保ってられるだろうが……」
「呪詛にかかったらどうなるんだ?」
「効力は分からない。確かめないと――」
だが次の瞬間、部屋の扉が乱暴に叩かれた。ノック、というよりも扉をたたき壊さんとしているかのようで、
扉の向こうから呻き声が聞こえる。複数の強打の音はどんどん強まり、やがて鍵をかけていたはずの強固な扉がぶち破られた。
「――ひっ」
現れたのは見張りの兵士たち。いつもイスカの部屋の前で立っている若い兵が三人。だが、明らかに様子がおかしい。頬はやせこけ目を血走らせ、涎を垂らしながらこちらに手を伸ばして身体を引きずるようににじり寄ってくる。その狂気じみた光景にイスカは乾いた悲鳴を上げたが、
「――っ!」
真っ先に動いたのはリシュリューだった。いつの間にか抜いていたナイフで、兵たちに躍りかかり、鮮やかに喉を掻き切って絶命させる。尋常ではない血しぶきの量だったが、一帯に漂う腐臭のせいで、血の匂いは驚くほど感じなかった。
「怪我はないか、チェスター」
「ああ、助かった、リシュリュー」
「こいつらがその呪詛とやらにやられた奴か?」
たった今葬り去った兵の頭を足蹴にするとリシュリューはジンロを振り返る。イスカはジンロに守られながら、たった今絶命した兵たちを恐る恐る観察した。
いつもイスカの部屋の前にいたので顔は馴染みのある者たちだ。でも今床に転がっている彼らはあの時の面影などみじんもない。まるで理性を失った獣の様に悍ましい顔をして絶命している。ふと、倒れている兵の一人の身体がピクリと動いた。
「――セロ」
「……え?」
微かな声にイスカは息をひそめた。まだ息があったと思われる兵の一人が、何かにすがるようにこちらに手を伸ばして、
「クワ――セロ」
消え入るような声だったが、確かに彼はそう言った。イスカとその兵の視線が合った瞬間、兵の頭はリシュリューによって踏みつぶされる。
「――っ!」
「……おい、もう少し配慮しろ」
残虐な光景を見せないようにジンロがイスカを抱き込んだ。それでもイスカは今しがたの光景が目に焼き付いて離れない。
「なあ、今こいつ『喰わせろ』って言わなかったか?」
「言ったな。まさかとは思うが俺たちを喰おうとここまで来たのか?」
双子が同時に苦い顔をすると、ジンロはわからんと首を振った。
「とにかく塔を降りてみるしかない。ここにいても状況は変わらないしな」
「……どう考えても嫌な予感しかしないんだが」
「安心しろ、チェスター。何が襲ってきても俺が返り討ちにしてやる」
そう言って真っ先に部屋を出ていったのはリシュリューだった。ジンロはチェスターと顔を見合わせ深く頷き、その背についていく。




