第五話 悪夢の夜③
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――今とは違う自分になりたくはないか。
いつか遠い昔、リマンジャはそう問われている者を見た事がある。
そいつははっきりと首肯して、やがて修羅の道に堕ちていった。
かつてあの獣たちの楽園に暮らし、人間を愛し人間になる事を望んだ。醜い鱗に覆われたかつての同胞。
一筋の糸に縋る様に人間になりたいと請うたあの哀れな姿を思い出して、リマンジャは腹の底から大笑いした。
「何がおかしい?」
そしてそれを侮辱と捉えた目の前の若者は、戸惑いながらリマンジャに剣を向け続ける。何故そんな疑問を口にしたのか? あらゆる推論を建てる事が出来るが、一つ確実な事があるとすれば、
「なぜ俺にそんな事を聞く? なぜ俺がそんな事を知っていると思った?」
「……、それは」
「愚かな奴だ。ロースローン。その答えを誰より雄弁に語っていたのは、他でもないお前たちの方だというのに」
八百年前、いったい誰が獣王を生み出したのか、この男が知らないはずはない。だがその技術はとうに忘れ去られ、そしてこの男がロースローン家の爪弾きものだというのなら、
「……誰に唆された?」
「え――?」
「俺に聞けば教えてくれるとお前に告げ口をしたのは一体誰なんだ?」
だが、その答えを聞く前に、――また一人新たな影がこの部屋に集う。
「――随分楽しそうだね、猿の王」
高揚したリマンジャに冷や水を浴びせかける声が響いた。振り返ると、この地獄の中で涼やかに立っている小さな老婆の姿が目に飛び込んできた。
「あ? なんだ、婆さん」
苛立ち気に声を荒げたが、すぐにその異様さに気づく。混沌とした世界で蜃気楼のように佇む老婆の姿に、リマンジャは強烈な既視感を覚えた。
「――⁉」
瞬間に右手が燃えるように熱くなった。体内で何かが暴れまわり制御が効かなくなる。
「どうだ? 主導権を取られる気分は、いつもお前がやっている事だ」
目の前の老婆は先ほどから全く微動だにしていない。何かをしている様には見えないのに、その目深にかぶったローブの奥に隠れた視線が、間違いなくこちらを捕らえている。
――ああ、そうだ。こいつはあの時の。
忘れもしない、ブリドリントの森に暮らしていた時、あの大蜥蜴と話していた奴がいた。
(俺は見たんだ……、あの時、あいつを唆していた怪しい奴を)
蜥蜴は人を喰えと唆され、そして森から姿を消した。その後に続く惨劇をリマンジャは決して忘れる事はない。
すると右腕の熱が勢い良く全身を駆け巡り、リマンジャの中にある憎悪に火をつけた。表皮が泡立ち、リマンジャの姿を悍ましい獣の姿に変えていく。
《――貴様が》
人間より二回りは大きい毛むくじゃらの狒々の姿を前にしてもその老婆は動じる事はなかった。
「やれやれ。お前は昔から怒りっぽいね。そんなにお前とお仲間を修羅の道に落とした私が許せないかい?」
その老婆は泰然とその怪物を見上げて笑っていた。益々怒りに震えあがるリマンジャは咆哮を上げ膨れ上がった右腕を振るう。
たった一打で王の寝室が三分の一ほど大破した。豪勢な調度品が一瞬のうちに瓦礫と化す。鋭い悲鳴は先刻から息を殺して存在を消していた国王のものだ。肝心の老婆は傷一つつくこともなく、同じ場所に立っている。
《貴様は一体何者だ? 何故八百年も変わらず生きている?》
「それをお前が問うのか? 同じく何一つ変わらずに生き続ける化け物のお前が」
《質問に答えろ! 我々を化け物に陥れた元凶が‼ 知らぬとは言わせない! お前が、蜥蜴を唆しセシリア王を喰わせ、――そしてロースローン一族に獣王を生み出す術を伝授していた事を》
リマンジャは見たのだ。あの日、あの森で、蜥蜴に人間になる方法を教えてやると唆した魔女の姿を。そしてその同じ口で、蜥蜴の王を討伐するための手段として、ロースローン家に獣王の秘術を教えていたことを。その魔女こそ、ここにいる老婆であった。
何故、八百年の時を超えてこいつがこの場にいるのかは定かではない。だがあの凄惨な獣王戦争の全てが、目の前のこの邪鬼によって齎された事をリマンジャは知っている。こいつさえいなければ、蜥蜴がセシリア国を陥落させることもなく、シルキニス公とロースローン一族が狂気の実験に駆られることもなく、
《我らのあの平穏が食い潰されることはなかったのだ!》
リマンジャは再び腕を振るった。リマンジャの力は一日に三度しか使えない。今、己が振るっている力が何回目に当たるのか、リマンジャはもう推移することが出来なかった。
「馬鹿な事を言うんじゃないよ。私は願いを持つ者にそれを成就する術を与えただけだ」
老婆はいけしゃあしゃあと答える。その細い身体に何度剛力を叩きこもうとしても、老婆はびくともしない。
これは人ではない。怪異かともすれば幻か。
「それよりそんなに力を使っていいのかい? お前の能力は制限があるはずだろう?」
その言葉を合図に、リマンジャの右腕が血しぶきを上げて弾けた。身を引き裂かれる激痛にリマンジャは悲鳴に近い咆哮を上げる。
日に三度以上、右腕の力を行使しようとした弊害か、或は己の中の感情が飽和して覆いきれなくなったか。人型に戻ったリマンジャは何も出来ぬままその場に崩れ落ちる。
「お前も難儀な身体になったね。お前は獣王の誰よりも知能があり賢かったから、その屈辱に耐える事は難しかったろう?」
老婆は一転して宥めるような優しい声でリマンジャに問いかけた。
苦しい。苦しい。もうこんな人生はごめんだ。だからリマンジャは一人になる事を恐れた。仲間を――獣王たちを誰よりも守ろうとした。
「お前は優しい子だね。猿の王。本当は辛かったんだろう? 仲間を死なせないために、分不相応な地位まで手に入れて、その居場所を守ろうとした。とても名誉な事だ」
《あ……、ああ》
リマンジャの中から憤怒が消える。身体は見る見るうちに縮み上がり、まるで叱られた後の子供の様に蹲って震え始めた。
「そうだ、そうだよ。それがお前の本当の姿だ。臆病な猿、誰よりも気弱で心が弱い。でも獣王としての適性があったから、彼らに選ばれたんだ。――可哀そうだね」
《おれ……は》
「なに、もう心配することはない。お前の苦しみはここで終わりだ。私がお前の望みを叶えてやろう」
《のぞみ……?》
そして老婆は、リマンジャの前にゆっくりと跪く。同時に老婆はその様子を呆然と見ていたアルトリカにも同じ視線を注ぐ。
「哀れな猿。そして人の心を恐れている可哀そうな少年」
慈悲深い聖母の様に、その老婆は二人を見て笑った。
「今とは違う自分に、なりたくないかい?」
その魅力的な誘いに、リマンジャとアルトリカは小さく――でもはっきりと首肯した。




