第五話 悪夢の夜②
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アリッサが憤怒の獣に惨殺されたのと同じころ、宮殿の主、シャルル国王の私室でもその異変が起きた。
「……っ! ヒューリック……」
王は長年自分に仕えていた側近の変わり果てた姿を見上げ顔を歪めた。あの冷静沈着でいかなる時も平静を崩さない、理性の塊のような男が、目を血走らせ口から涎を滴らせながら奇怪な雄たけびを上げてシャルルに襲い掛かっているなんて。
「……何かに憑りつかれたか!」
掴まれた肩にかかる握力が尋常ではない。明らかに普段のヒューリックとは違う、常軌を逸した様子にシャルルは歯噛みする。だが、王は決して躊躇う事はなかった。
たとえ長年仕えた側近であろうとも、それが本人の意思に関係のない謀反であったとしても、王は己を危機にさらすものに対しては容赦なく刃を向ける。
「――っ、ガハッ――!」
押し倒されたままの体勢でシャルルはとっさに寝台の側に立てかけてあった剣を抜いた。自身とヒューリックの間に滑り込ませると、躊躇なくその刃でヒューリックの心臓を一突きにする。
激しい血しぶきと血反吐をまき散らしてヒューリックは絶命した。その身体を乱暴に投げ出すと、シャルルはべっとりと返り血に塗れた頬を拭って大きく息を吐いた。
(一体何だというんだ? ヒューリックの突然の異変。それにこの匂いは――)
あたり一面に漂う腐臭。その腐臭が充満し始めたと思えば、寝室の外に控えていたヒューリックが突然部屋に押し入りシャルルを襲ったのだ。室内は腐臭と噴き出した血の匂いでむせ返っている。シャルルが剣を手に立ち上がろうとした時、
「――っ!」
強烈な吐き気がこみ上げてきて剣を取り落とす。それは体の内側から湧き上がり全身を拘束し、強烈な熱を発した。
(なんだ、なんだこれは――)
シャルルは自身の身体の変化に頭が真っ白になる。次から次へと湧き上がる衝動。身体が何かを欲し続けている。シャルルはその強烈な衝動に抗うために歯を強く食いしばった。口内に鉄の味が混じり、奥歯がきしみを上げても王は耐え続ける。
(臆するな。私は王だ。王たるものがこれしきの事で正気を失ってどうする――)
この時のシャルルは知らない。城全体を包み込む呪詛の正体に。そして、それに抗う事の出来る存在は、この城に控えている者の中でもほんの一握りだという事に。
正気を保つ事だけでも計り知れない精神力を要する。そしてそれを成し遂げている彼はやはり王の品格にふさわしいのだと、
――衝動に耐え続ける王を眺め、その影は不敵に笑った。
「ほう、さすが人間の王。その胆力は素晴らしいものだ、称賛に値する」
そう遠くないところから聞こえた悍ましい声にシャルルは顔を上げた。
そこにいたのは何の変哲もない一人の男だった。薄汚い襤褸布を纏ったその男が、哀れな家畜を見るような目でシャルルを見下ろしていた。
「強靭な精神力。――ああいや、それだけではないな。その身体から馨しい匂いがする」
「誰だお前は?」
怒りの湧きあがるシャルルは、強烈な吐き気に抗いながらその男を睨みつける。
「初めまして、若き獅子王シャルル=ド=シルキニス。私ははるか遠くガラドリムから参りました。リマンジャ=アハル=サームと申します」
リマンジャ=アハル=サーム。その名を聞いた瞬間、シャルルに衝撃が走る。国の権力者でその名を知らぬ者はいない。
砂漠の賢人。マスルの懐刀。そして、
「ガラドリムの怪物……」
その噂はまことしやかに囁かれていた。代替わりするマスルの傍らに常に侍る参謀の存在。もう何百年も変わらぬその姿は、いつしか化け物と揶揄され、それでも圧倒的な権力を持つがゆえに誰一人その者に逆らえない――不死の化け物。
「砂漠の賢人とあろうものが一体私に何用だ?」
「仰々しい事は何もない。私はただ貴方のお体の具合を見に参ったまでですよ」
その発言は、今ここにある異常を理解している、或はその元凶であると自白したも同然だった。シャルルは身体中に沸き立つ不快感を何とか抑え、目の前の男を見る。
「この異変は、貴様の仕業か?」
「如何様に取っていただいても構わない。私はただ、災厄の種を育てただけ」
「戯言を……」
どう考えても災厄の大本は目の前のこの化け物に違いなかった。今すぐにでもこの災厄を断ち切りたい。だが、王の意識はすでに朦朧として立つ事さえやっとの状態だった。
そんな王に、砂漠の賢人はゆっくりと近づいていく。
「万物の奏者の血を飲んだか? 人間の王よ」
「⁉ 貴様、何故それを――」
「気配で分かる。貴方が今正気を保っているのもそのおかげだ」
シャルルは我知らず喉を鳴らした。昼間、ゴブレットから摂取した僅か数滴の血。味は他の人間のものと何一つ変わらなかったが、
(やはりあの娘の血には特別な加護があったというのか――)
その事実を目の当たりにして、シャルルの胸中に宿ったのは歓喜だった。血の数滴でこれほどの効果だ。あの少女の肉体を喰らえば、果たしてどれほどの効能が得られるか。考えるだけで高揚する。だが、
「解せんな」
目の前の化け物の纏う気配が一変した。柔和な笑みを浮かべていたそれは、悍ましいほどの憎悪を浮かべていた。憤怒に彩られた濁り切った目が、シャルルを射抜き捕らえた。
「たかが人間ごときがあれを喰おうなど、セルバ神への冒涜だ」
「なっ……」
「シルキニス……。お前たちはいつもそうだ。セルバを侮り獣界の理を捻じ曲げる。あのロースローンもそうだ。あの者たちの暴挙がセルバの信仰を失わせた」
――何の話をしている?
シャルルは畏怖に押しつぶされそうになりながらも、その真意を探ろうとした。だが、目の前で揺れる憤怒の炎がついにはじけ、不意に獣の右腕がシャルルの首を掴んだ。
「がっ……」
およそ人間とは到底思えない握力で首を締め上げられ、シャルルは抵抗できずに剣を取り落とした。身体が宙に浮き重力が首にかかって益々気道が圧迫される。
死ぬ、という直感が脳裏をよぎる。その時、
「陛下!」
力強い呼び声と刃の一閃が、シャルルと悪魔の間を駆け抜けた。シャルルは一命をとりとめた事に安堵し、そして目の前に立ちふさがる騎士の背を見上げて呆けた。
「アルトリカ……」
「陛下、到着が遅れて申し訳ありません」
かつて王族が迫害していた術師の一族。その蟠りを呑み込み、シャルルに忠誠を誓った黒衣の騎士が目の前の化け物からシャルルを守ろうと剣を抜いていた。彼の顔色はそれほど通常と変わりない。この異変に飲み込まれることなく、猛然と自身の役目を遂行使用している。
だが、そんな誉れ高き騎士に対しても化け物は冷酷だった。
「何故ここにいる? 砂漠の賢人――いや、猿の王」
猿の王。
やはりその正体はシャルルが追い求めていた悲願の一つ。だが、それは想像を遥かに超える危険なものである事を身に染みて知った今、それを手に入れようなどという浅はかな妄言がシャルルの頭に浮かぶことはない。
「やあ、また会ったな。ロースローンの若造」
「……」
「律儀な奴だ。忠誠を誓う王の元にはせ参じるとは、騎士の鑑だな」
猿の王は心にもない拍手を贈っている。この地獄の様な空気の中でその笑い声がやけに強く響いた。
アルトリカは王を庇うように奮い立つ。だが、その胸中にはまた別の思念がよぎっていた。
――願いを叶えたくば獣王に会え。
先日あの老婆がアルトリカに告げた助言が、またしても浮かんできた。
目の前にいるのは敵だ。それも死の匂いをふんだんに漂わせた、恐ろしい不死の化け物。
(悍ましい。こんな化け物に何を聞けというんだ?)
言葉を交わすことは可能だろう。だが、彼とアルトリカとでは思考が根本的に違う。そう思わせられるのに十分なほど、目の前の化け物の纏う空気は異次元だった。だが、
(……何故、僕はこんなにも高揚しているんだろう?)
意思に反してアルトリカはまるでこの男との邂逅を待望していたかのようだ。
「どうした? 騎士の若者、俺に何か言いたいことがあるのか?」
「お前は――」
何を、どう言葉に表現すればわからない。その時また、アルトリカの耳に幻聴が聞こえてきた。アルトリカを惑わす、心無い声。己を否定し続ける悪魔の言葉の向こうに、目の前の獣に投げかけるべき問いが浮かんできた。
「あんたは知っているのか? 今とは違う自分に、なれる方法を」
アルトリカは縋る様に問うた。その瞬間、目の前の獣の表情が一変する。
それはアルトリカにとって、――そして獣にとって破滅の引き金になる事を知る由もなく、ただ遠くで餌を求め続ける悍ましい呻き声だけが響いていた。




