第九章 局の影
翌日、蒼は術式捜査局に出向いた。
いつも通りに振る舞いながら、彼はオード局長の動きを注意深く観察していた。もしオードが灰紋と繋がっているなら、必ずどこかに痕跡がある。
昼過ぎ、蒼はある機会を得た。
オードが局を離れたのだ。私用だという。蒼はセレナと示し合わせ、その隙に局長室に近い機密資料室へ向かった。
「ここに入退室記録があります」セレナが小声で言った。「局長を含む上層部の、すべての出入りが記録されている。もしオード局長が不審な動きをしているなら、ここに痕跡が残っているはずです」
「俺が〈残滓読み〉で読む」蒼は言った。「記録の改ざんがあれば、痕跡が見えるかもしれない」
蒼は記録の保管された棚に手を当てた。
頭の奥が弾けた。
映像。断片。
——記録をめくる、誰かの手。
——切り替わる。その手が、ある日付の記録を書き換えている。
——切り替わる。書き換えられたのは、蒼が転移してきた当日の記録だった。
蒼ははっとした。
蒼が転移した当日、局の機密記録に不審なアクセスがあった。その断片が、今、繋がった。
——切り替わる。記録を書き換えた手の袖口がめくれる。そこに、見覚えのある紋様があった。
蒼はその紋様を知っていた。
保管室の犯人の手首にあった紋様。そして、カイン=ドレアの手首の紋様。
映像が消えた。蒼は手を引いた。
「何が見えましたか」セレナが尋ねた。
「俺が転移した当日の機密記録が、書き換えられていた」蒼は言った。「書き換えた人物の手首に紋様があった。カインの紋様と同じものだ」
「カインが……」セレナが息を呑んだ。「やはり彼が灰紋の」
「いや、待て」蒼は考え込んだ。「断片だけで決めつけるのは危険だ。前にも言ったが、〈残滓読み〉は術者を特定できない。手首の紋様が見えただけだ」
その時だった。
「私の紋様を見たのか」
背後から声がした。
振り返ると、カイン=ドレアが立っていた。いつものように、感情のない表情で。
蒼は身構えた。セレナが前に出る。
「待て」カインは手を上げた。「戦いに来たわけじゃない。話をしに来た」
「話」蒼は警戒を解かなかった。
「機密記録を書き換えたのは私だ」カインは淡々と言った。「君が転移した当日の記録を。だが、それは君を害するためじゃない。守るためだ」
「どういうことだ」蒼は問うた。
「順を追って話そう」カインは静かに言った。「まず、私の手首の紋様。これは灰紋の構成員の証だ」
セレナが緊張した。
「正確には、元・構成員だ」カインは続けた。「私はかつて灰紋にいた。だが五年前、ある事件をきっかけに組織を抜けた」
「五年前」蒼は反応した。「ライル=クロウとハルト博士が殺された頃か」
カインの表情がわずかに動いた。
「……そこまで辿っているのか」カインは息を吐いた。「そうだ。五年前、私は灰紋の命令で、ある研究者の監視をしていた。その研究者は、核石を守ろうとしていた二人のうちの一人だった」
セレナが声を上げかけた。蒼がそれを制した。
「私は命令に従い、彼らを監視した」カインは苦しげに言った。「だが、私が報告した情報をもとに、組織は彼らを殺した。私は直接、手を下していない。だが、私の報告が二人を死に追いやった」
「あなたが……」セレナの声が震えた。
「すまない、とは言わない。言葉で償えることではない」カインは目を伏せた。「私はその後、組織を抜けた。自分のしたことに耐えられなかった。そして術式捜査局に潜り込んだ。灰紋を内側から知る者として、奴らを追うために」
蒼はカインを見た。彼の感情のない表情の奥に、深い後悔があった。
「なぜそれを今話す」蒼は問うた。
「君が来たからだ」カインは顔を上げた。「ライルと同じ『型』を持つ、転移者。私は君が転移した瞬間に気づいた。これはライルの術式だと。彼が死ぬ前に研究していた『次の使い手を呼ぶ術式』が、発動したのだと」
蒼は息を呑んだ。カインはライルの術式のことを知っていた。
「私は機密記録を書き換えた」カインは続けた。「君が転移した当日、局の魔素観測機が異常な術式反応を検知していた。世界を越えるほどの巨大な術式の痕跡を。それが記録に残っていた」
「世界を越える術式」蒼は呟いた。「ライルの術式」
「そうだ。もしその記録がそのまま局に残れば」カインは言った。「灰紋と通じている者がそれを見る。そして、君がライルの術式で呼ばれた特別な存在だと気づく。君はすぐに標的にされる」
「だから記録を書き換えて隠した」
「そういうことだ」カインは頷いた。「だが、遅かったかもしれない。灰紋はすでに君の『型』に気づいている。旧時計塔の件で、それがわかった」
蒼は考えた。カインの話が本当なら、彼は敵ではない。むしろ、自分を守ろうとしていた。だが、その動機は贖罪だった。五年前、彼が死に追いやった二人の研究者への贖罪。
「カイン」蒼は問うた。「あんたは、局の中に灰紋と通じている者がいると知っているのか」
カインの表情が固まった。
「……気づいているのか」
「オード局長」蒼は言った。「彼の態度に違和感があった。灰紋を泳がせる方針。疑われても気にしない態度。あれは何かを隠している」
カインはしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。
「オード=ナイン局長は」カインは言った。「灰紋の協力者だ」
蒼とセレナは言葉を失った。
「証拠はまだない」カインは続けた。「だが私は確信している。五年前、ライルとハルト博士の事件は迷宮入りした。あれほどの重大事件が、なぜ解決しなかったのか。それはオードが捜査を妨害したからだ」
「局長が……」セレナの声がかすれた。
「オードは灰紋に情報を流し、捜査を骨抜きにしてきた」カインは言った。「核石を巡る事件は、すべて彼の手で闇に葬られてきた。だから灰紋は何年も自由に動けた」
「なぜオードは灰紋に協力する」蒼は問うた。
「わからない」カインは首を振った。「金か、地位か、あるいは核石の力に魅入られたのか。彼の本当の目的は私にも読めない。だが、一つだけ確かなことがある」
カインは蒼をまっすぐに見た。
「オードは君を危険視している」カインは言った。「君がライルの術式で呼ばれ、核石を扱える『型』を持ち、しかも推理で灰紋の手口を暴いていく。君は彼らの計画にとって最大の脅威だ。だからこそ、君を協力者として局に迎え入れた」
「迎え入れた?」蒼は眉を寄せた。「敵なら排除すればいい。なぜ迎え入れる」
「監視するためだ」カインは言った。「君を自分の目の届く場所に置いておくため。そして、いざとなればいつでも消せるように」
蒼はぞっとした。
オードの穏やかな微笑み。協力者としての手厚い待遇。それはすべて、自分を監視し、いつでも消せるようにするためのものだった。
「君は今、檻の中にいるんだ」カインは言った。「術式捜査局という名の檻の中に」
その時、資料室の扉が開いた。
オード=ナイン局長が立っていた。
穏やかな表情で。だが、その目は笑っていなかった。
「……困ったな」オードはゆっくりと言った。「カイン。君がこちら側だとは思っていなかった。残念だよ」
蒼とセレナ、カインは身構えた。
「いつから気づいていた」カインが問うた。
「今、この瞬間まで確信はなかった」オードは微笑んだ。「だが、君たちがここに集まっているのを見てわかったよ。三人とも、私の敵だと」
オードはゆっくりと部屋に入ってきた。
「天宮蒼くん」オードは蒼を見た。「君を迎え入れたのは間違いだったかもしれない。君は優秀すぎた。これほど早くここまで辿り着くとは」
「あんたが灰紋の協力者か」蒼は問うた。
「協力者、という言葉は正確じゃないな」オードは首を振った。「私は灰紋の協力者ではない。むしろ——」
オードの目が暗く光った。
「灰紋は、私の駒だ」
蒼は息を呑んだ。
「ヴォルク=エスナは表向きの首領にすぎない」オードは言った。「核石を集める汚れ仕事をさせるための、ね。だが、本当に核石の力を手にするのは、この私だ」
「あんたが……黒幕」セレナが呻いた。
「黒幕、か。古典的な言葉だ」オードは微笑んだ。「だが否定はしない。私は長年、術式捜査局の局長として、すべての核石に関する情報を掌握してきた。捜査を操り、邪魔者を消し、核石の在処を突き止めてきた。ヴォルクは私の指示で動いていたにすぎない」
蒼はすべてを理解した。
ヴォルクは駒だった。本当の黒幕は、術式捜査局の局長、オード=ナイン。彼は捜査機関の最高権力者という立場を利用して、誰にも疑われずに核石を集めていた。完璧な隠れ蓑だった。
「なぜ核石を集める」蒼は問うた。
「世界を変えるためだ」オードは静かに言った。「この世界は、術式という不平等な力の上に成り立っている。生まれつき強い術式を持つ者が支配し、持たざる者が虐げられる。私はそれを終わらせたい」
「終わらせる?」
「七つの核石が揃えば、世界中の魔素を支配できる」オードは言った。「すべての術式を無力化できる。そうすれば、術式による不平等は消える。誰もが平等になる。私がその力で、世界を作り変える」
蒼はその言葉に、ある種の狂気を感じた。
「そのために何人殺した」蒼は問うた。「ベルダ博士。ヴェイン=コルト。ライル=クロウ。ハルト博士。あんたの理想のために、何人の命を奪った」
オードの表情がわずかに揺れた。
「……犠牲は避けられない」オードは言った。「より良い世界のためには、痛みが伴う」
「それはただの言い訳だ」蒼は言い返した。「あんたは理想を口実にして人を殺している。平等な世界を作りたいんじゃない。世界を自分の思い通りに支配したいだけだ」
オードの目が冷たく光った。
「議論は無意味だな」オードは言った。「君とは相容れない。残念だが、ここで消えてもらう」
オードの手が上がった。
その瞬間、部屋全体に〈封域〉が展開し始めた。局長クラスの高位術式。逃げ場を塞ぐ結界。
「蒼!」セレナが叫んだ。
「わかってる!」
オードの〈封域〉が部屋を包み込もうとする。セレナの〈衝脈〉も、カインの〈糸縛〉も、〈封域〉の中では封じられてしまう。
だが、蒼には〈術式干渉〉がある。
彼は手をかざし、オードの〈封域〉に割り込んだ。相手の術式の流れに自分の魔素をねじ込む。〈封域〉の展開が一瞬乱れた。
「ほう」オードが目を細めた。「〈術式干渉〉。なるほど、それが君のもう一つの力か」
「カイン、セレナ! 今だ!」蒼が叫んだ。
〈封域〉の綻んだ一瞬。
カインの〈糸縛〉が放たれた。不可視の糸がオードの腕を絡め取ろうとする。同時に、セレナの〈衝脈〉が床を蹴った。
だが、オードは容易には倒れなかった。
「甘い」オードは〈糸縛〉を力ずくで引きちぎった。「私を誰だと思っている。術式捜査局の局長だぞ」
オードの別の術式が発動した。空間が歪み、セレナの〈衝脈〉が逸らされる。
「くっ……」セレナが体勢を崩した。
オードは強かった。〈封域〉だけでなく、複数の高位術式を操る。三人がかりでも押し負けそうな力だった。
「蒼」カインが低い声で言った。「私がオードを足止めする。君はセレナを連れて逃げろ。そしてリーナと合流しろ。核石を巡る真実を世に明らかにするんだ。それが君にしかできないことだ」
「あんたを置いていけない」
「私は五年前の罪を償わなければならない」カインは言った。「ライルとハルト博士を死に追いやった、私の罪を。ここでオードを足止めすることが、せめてもの償いだ」
「カイン……」
「行け、蒼!」カインが叫んだ。「君が生きていれば、まだ戦える!」
カインの〈糸縛〉が、無数の糸となってオードに襲いかかった。オードの注意がカインに向く。
「今です、蒼!」セレナが蒼の腕を引いた。
蒼は一瞬躊躇した。だが、カインの覚悟を無駄にはできなかった。
「カイン」蒼は振り返らずに言った。「必ず戻る。あんたを助けに」
「……期待しないで待っている」カインの声が聞こえた。かすかに笑っているような声だった。
蒼とセレナは資料室を飛び出した。
背後で激しい術式の衝突音が響いた。カインとオードの戦い。
蒼は走りながら奥歯を噛み締めた。
オードが黒幕だった。術式捜査局の最高権力者。誰も疑わなかった安全な場所に、最大の敵がいた。自分は檻の中にいた。カインの言った通りに。
だが今、その檻から飛び出した。戦いはこれからだ。本当の敵の正体がわかった今こそ。
「セレナ」蒼は走りながら言った。「リーナのところへ。すべてを伝える」
「ええ」セレナが頷いた。「でも蒼——カインさんは」
「必ず助けに戻る」蒼は言った。「今は生き延びることが最優先だ。情報をリーナに伝えて、態勢を立て直す」
二人は局を後にした。
背後の局長室の方角から、まだ術式の衝突音が響いていた。
局を出た蒼とセレナは、人込みに紛れた。
追っ手が来る可能性がある。オードの息のかかった捜査官たちが。二人は慎重にリーナの部屋へと向かった。
道中、セレナがぽつりと言った。
「カインさんは……五年前、私の父を死に追いやった一人だったんですね」
蒼はセレナを見た。彼女の横顔は、複雑な感情を湛えていた。
「あなたは彼を許せますか」蒼は問うた。
セレナはしばらく黙っていた。
「……わかりません」彼女は正直に言った。「彼を憎む気持ちもあります。でも、彼はずっとその罪を背負って戦ってきた。父を殺した組織を内側から追って。そして今、私たちを逃がすためにオードと戦っている」
セレナは目を伏せた。
「許せるかどうか、わからない。でも、彼を見殺しにはできない」彼女は言った。「彼には罪を償う機会が必要です。死んで償うんじゃなく、生きて」
蒼は頷いた。
「だから必ず助けに戻る」蒼は言った。「カインを。そして、オードを止める」
二人はリーナの部屋に辿り着いた。
扉を叩く。
リーナが扉を開けた。蒼とセレナのただならぬ様子を見て、彼女の表情が変わった。
「何があったの」
「全部わかった」蒼は言った。「核石の黒幕。灰紋の本当の主。すべて」
蒼はリーナの目を見た。
「黒幕は、術式捜査局の局長——オード=ナインだ」
リーナの目が見開かれた。
そして、彼女の表情に深い衝撃と、そしてどこか納得したような色が浮かんだ。
「……そう」リーナは静かに言った。「兄を殺した本当の相手は、そこにいたのね」
夜のレイアスに、魔素の光が瞬いていた。
第一巻の戦いは、ここで一つの区切りを迎える。だが、それは終わりではない。オードという巨大な敵の正体が明らかになった今、本当の戦いはこれから始まるのだ。




