第八章 もう一人の使い手
局に戻った蒼とセレナは、しかし、すぐには報告できなかった。
オード局長の態度への違和感。あの戦闘を灰紋が把握していたという事実。局の近くに灰紋の目がある可能性。それらを考えると、迂闊に局を通すわけにはいかなかった。
「灰紋は、私たちがあの場所に来ることを知っていた」セレナが低い声で言った。「あの手紙は罠でした。でもそれ以上に、私たちの動きが筒抜けだった可能性があります」
「局の中に、灰紋と通じている者がいる」蒼は頷いた。「あの戦闘を見ていた者。そして、俺たちが旧時計塔に向かったことを知っていた者」
「カイン……でしょうか」セレナが躊躇いがちに言った。「彼はベルダ博士の事件のとき容疑者でした。手首の紋様も、あなたが〈残滓読み〉で見た保管室の犯人と一致していた」
「可能性はある」蒼は慎重に言った。「でもカインは、あの夜、俺に忠告した。『深入りすれば戻れなくなる』と。もし彼が灰紋の手先なら、わざわざ忠告する理由がない」
「では、なぜ忠告を」
「わからない」蒼は首を振った。「カインは何かを知っている。だが、その立場はまだ読めない。敵か、味方か」
その時、蒼は決断した。
「リーナに会いに行く」蒼は言った。「彼女は核石を知っていた。〈残滓読み〉の使い手を二人知っていた。『もうここにいない人』のことを語らなかった。彼女はこの事件の核心に繋がっている。もう、聞かなければならない」
リーナの部屋を訪ねると、彼女は一人で窓辺に座っていた。フィンはいなかった。
蒼の顔を見て、リーナはすべてを察したようだった。
「……来たのね」リーナは静かに言った。「そろそろ来る頃だと思っていた」
「核石のこと。〈残滓読み〉の使い手のこと。『もうここにいない人』のこと」蒼は言った。「全部話してくれ。もう、断片を繋ぐ時だ」
リーナは長い間黙っていた。それから、窓の外を見たまま語り始めた。
「私には、兄がいた」
蒼は息を止めた。
「兄も〈残滓読み〉の使い手だった。そして〈術式干渉〉も使えた」リーナは静かに言った。「あなたと同じ『型』を持っていたの」
「あんたの、兄」
「ええ。名をライル=クロウ」リーナは目を閉じた。「兄は核石の研究者だった。世界にいくつか存在する核石を、悪用されないように守ろうとしていた。そのために、核石を扱える自分の『型』を使って」
リーナは目を開けた。その目に、深い悲しみが滲んでいた。
「でも五年前、兄は灰紋に殺された」リーナは声を絞り出した。「ヴォルク=エスナに。核石を独占しようとする、あの男に」
蒼はすべてを理解し始めた。
リーナが〈残滓読み〉を見て動揺した理由。「もうここにいない人」と言った理由。核石に詳しかった理由。すべて、彼女の兄に繋がっていた。
「兄が殺されてから、私は情報屋になった」リーナは続けた。「灰紋の動きを探るために。兄の仇を討つために。そして、核石が悪用されるのを防ぐために」
「セレナの父親も」蒼は言った。「核石に関わっていたのか」
リーナが頷いた。
「セレナの父親、ハルト博士は、私の兄の共同研究者だった」リーナは言った。「二人は一緒に、核石を守る研究をしていた。だから二人とも灰紋に殺された。同じ手口で。同じ『型』の術式で」
蒼は衝撃を受けた。
セレナの父親とリーナの兄は繋がっていた。同じ研究をし、同じ組織に殺された。そして今、その娘と妹が、知らないうちに同じ事件を追っていた。
「セレナは、このことを」蒼は問うた。
「知らないわ」リーナは首を振った。「セレナは、父親が何の研究をしていたのか知らない。ただ、密室で殺されたことだけを知っている。私は彼女に話せなかった。話せば、彼女を危険に巻き込むことになるから」
蒼は考えた。セレナは父親の仇を追って刑事になった。その仇が、核石を巡る灰紋との戦いに繋がっていた。そしてその真実を、リーナはずっと隠してきた。
「なぜ、今、俺に話す」蒼は問うた。
「あなたが、兄と同じ『型』を持っているから」リーナはまっすぐに蒼を見た。「あなたが現れたとき、私は運命のようなものを感じた。兄が殺されて、〈残滓読み〉と〈術式干渉〉を併せ持つ者はいなくなったはずだった。核石を扱える者は、灰紋の手の届かないところにはもういないはずだった」
リーナは言葉を続けた。
「でも、あなたが来た。別の世界から。兄と同じ『型』を持って」リーナの声が震えた。「これは偶然じゃない。誰かがあなたを呼んだのよ。兄の遺した戦いを継ぐために」
その時、蒼の頭の中で、すべての断片が一つの線に繋がり始めた。
核石。それを扱える『型』。リーナの兄ライル。セレナの父ハルト博士。二人の研究者。灰紋による殺害。そして、転移してきた自分。
「ライルは」蒼は慎重に問うた。「死ぬ前に、何か術式を遺していなかったか。核石を守るための、最後の手段のようなものを」
リーナの目が見開かれた。
「……なぜ、それを」
「推測だ」蒼は言った。「ライルとハルト博士は、核石を守る研究をしていた。だが、二人は灰紋に追い詰められていた。自分たちが殺されることも予期していたかもしれない。だとしたら、最後の手段を用意していた可能性がある」
「兄は死ぬ直前に」リーナは声を震わせた。「一つの術式を完成させたと言っていた。『次の使い手を呼ぶ術式』だと。でも、それが何を意味するのか、私にはわからなかった」
「次の使い手を呼ぶ」蒼は呟いた。
そして、悟った。
「俺を呼んだのは、ライルの術式だ」蒼は言った。「ライルは、自分が死んだあと、核石を守る戦いを継ぐ者を呼ぶ術式を遺した。同じ『型』を持つ者を。だが、この世界にはもうそんな者はいなかった。だから術式は、世界を越えた」
リーナが口を押さえた。
「別の世界から、〈残滓読み〉と〈術式干渉〉の素質を持つ者を探し出して呼んだ」蒼は続けた。「それが、俺だった」
部屋が静まり返った。
「だから、俺は」蒼は自分の手を見た。「術式の概念すら知らなかったのに、〈残滓読み〉と〈術式干渉〉が最初から使えた。ライルの術式が、俺にそれを与えたんだ」
蒼は転移する直前のあの感覚を思い出した。
誰かに名前を呼ばれた感覚。
それは、五年前に死んだライル=クロウの最後の術式が、時を越え、世界を越えて自分に届いた、その瞬間だったのだ。
「兄が……」リーナの目から涙がこぼれた。「兄が、あなたを呼んだ……」
彼女は長い間、黙って泣いていた。蒼は何も言わず、ただ待っていた。
やがて、リーナは涙を拭った。
「ごめんなさい」彼女は小さく笑った。「みっともないところを見せたわね」
「いや」蒼は首を振った。
「あなたは兄じゃない」リーナは言った。「当然よ。あなたはあなた。ただ、同じ『型』を持っているだけ。でも——」
リーナは蒼を見た。
「あなたが来てくれてよかった」彼女は静かに言った。「一人でずっと戦ってきた。兄の仇を。核石を守るために。でも、もう一人じゃない」
蒼は頷いた。
「核石について、知っていることを全部教えてくれ」蒼は言った。「灰紋は核石を集めている。すでにいくつか手に入れているかもしれない。俺たちはそれを止めなければならない」
「ええ」リーナは頷いた。「核石は世界に七つ存在すると言われている。そのうちいくつが灰紋の手に渡ったのかはわからない。でも、兄の研究によれば、核石がすべて揃ったとき、恐ろしいことが起きる」
「恐ろしいこと」
「七つの核石が共鳴すると、世界中の魔素を支配する力が生まれる」リーナは言った。「その力を持つ者は、文字通り世界を意のままに操れる。すべての術式を無力化し、すべての痕跡を消し、すべての人間を支配する」
蒼はぞっとした。
それがヴォルクの最終目的だった。七つの核石を集め、世界を支配する。そのために、核石を扱える『型』を持つ者を探していた。あるいは、排除しようとしていた。
「だからヴォルクは、俺を消そうとした」蒼は言った。「俺が核石を扱える『型』を持っていて、しかも灰紋に協力しないなら、俺は奴の計画を阻む唯一の存在になる」
「そういうこと」リーナは頷いた。「あなたはヴォルクにとって最大の脅威なの。だからこれからも命を狙われる」
その夜、蒼はセレナとリーナの三人で、これまでの情報を整理した。
セレナは、自分の父親がリーナの兄と共同研究者だったことを知り、しばらく言葉を失っていた。
「父が……核石を守ろうとしていた」セレナは震える声で言った。「ただの研究者だと思っていた。なのに、そんな大きなものを背負っていたなんて」
「あなたの父親は立派な人だったわ」リーナは優しく言った。「兄と一緒に世界を守ろうとしていた。誇りに思っていい」
セレナは涙を堪えながら頷いた。
「ずっと知りたかった、父がなぜ殺されたのか」セレナは言った。「今、ようやくわかった。父は世界を守るために戦って死んだ。なら、私はその戦いを継ぎます。父の娘として」
セレナは顔を上げた。その目に強い決意が宿っていた。
「蒼」セレナは言った。「私も戦います。あなたと一緒に。父と、リーナさんのお兄さんが遺した戦いを終わらせるために」
「ああ」蒼は頷いた。「一緒に戦おう」
三人の視線が交わった。
核石を扱える『型』を持つ、転移者の蒼。核石を守ろうとした兄を持つ、情報屋のリーナ。核石のために死んだ父を持つ、捜査官のセレナ。
偶然ではなく必然のように、三人はここに集まった。灰紋との戦いの輪郭が、ようやく見えてきた。
だが、蒼の頭の中には、まだ一つ解けない断片が残っていた。
オード局長の違和感。そして、局の近くに灰紋の目があるという事実。
「リーナ」蒼は問うた。「灰紋は術式捜査局の内部に繋がりを持っている。俺たちの動きが筒抜けだった。心当たりはあるか」
リーナの表情が曇った。
「……はっきりとは言えない」リーナは慎重に言った。「でも、噂はある。灰紋が局の上層部に繋がりを持っている、という噂は」
「上層部」蒼は反応した。
「あくまで噂よ」リーナは付け加えた。「でも、もしそれが本当なら、あなたたちは局の中ですら安全じゃない」
蒼はオードの穏やかな顔を思い出した。
灰紋を「泳がせる」という方針。疑われても気にしない態度。すべての被害を防ぐことはできないという冷徹な言葉。
断片がまた一つ、不穏な形で繋がりかけた。
だが、まだ確証はない。〈残滓読み〉でも、オードはまだ読んでいない。彼が本当に灰紋と繋がっているのか。それとも、ただ慎重なだけなのか。
「確かめる必要がある」蒼は言った。「だが慎重に。もしオード局長が灰紋と繋がっているなら、迂闊に動けば潰される」
三人は頷いた。
戦いの相手は灰紋だけではないのかもしれない。もしかしたら、もっと近くに——自分たちが味方だと思っていた場所に、敵が潜んでいるのかもしれない。
その夜、蒼は新たな決意を固めた。
核石を巡る戦い。灰紋。そして、局の影。すべての断片を繋ぎ、真実に辿り着く。それが、自分がこの世界に呼ばれた意味なのだから。




