第七章 灰紋、現る
翌朝、蒼が目を覚ますと、ドアの下に一枚の紙が差し込まれていた。
差出人の名はない。ただ、短い文章が書かれていた。
『核石について話がある。今夜、旧時計塔の地下で待つ。一人で来い。——灰紋』
蒼はその紙をじっと見た。
罠だろうか。ほぼ間違いなく、そうだ。だが、灰紋が直接接触してきた。これは無視できない。核石について、何か知れるかもしれない。
蒼はその紙を持って局へ向かった。セレナに相談するためだ。
「行ってはいけません」セレナは紙を見るなり断言した。「明らかな罠です。『一人で来い』なんて、典型的な誘い文句」
「わかっている」蒼は言った。「でも、灰紋が直接接触してきたということは、向こうが俺に何か用があるということだ。話を聞く価値はある」
「危険すぎます」セレナは首を振った。「相手は術式犯罪組織です。あなたは戦闘向きの術式を持っていない。〈術式干渉〉は相手の術式を一瞬乱せるだけ。本格的な戦闘になれば勝ち目はありません」
「だから一人では行かない」蒼は言った。「あんたについてきてほしい。俺が表から一人で入る。あんたは気配を消して後を追う。何かあったら援護してくれ」
セレナはしばらく考えてから頷いた。
「……わかりました。でも無茶はしないでください。少しでも危険だと感じたら、すぐに合図を。私が飛び込みます」
「頼む」
「それと」セレナは付け加えた。「局長には報告しません」
蒼はセレナを見た。
「あなたも感じているでしょう」セレナは静かに言った。「局長の態度の違和感。灰紋を泳がせるという方針。何か、おかしい。この件は局を通さないほうがいい気がします」
蒼は頷いた。セレナも同じ違和感を抱いていた。
その夜。
旧時計塔は、レイアスの旧市街の外れにあった。今は使われておらず、廃墟のようにひっそりと立っている。
蒼は塔の入口に立った。背後の闇のどこかにセレナがいる。気配はまったく感じられない。さすがだと思った。
蒼は塔に入り、崩れかけた階段を地下へと降りていった。
地下は広い空間だった。古い機械の残骸があちこちに転がっている。中央に人影が立っていた。
がっしりとした体格の男だった。無精髭を生やし、眠たげな目をしている。だが、その目の奥には鋭い光があった。
「よく来たな、〈残滓読み〉の名探偵」男はにやりと笑った。「俺はトリス=ヴァーン。灰紋の現場指揮官ってやつだ」
「天宮蒼だ」
「知ってるよ。お前のことは組織でもちょっとした話題でね」トリスは旧友と話すような口ぶりで言った。「ベルダの一件、見事に解いたそうじゃないか。クレイのやつ、相当悔しがってたぜ」
「核石について話があると聞いた」蒼は本題に入った。
「ああ、そうだったな」トリスは肩をすくめた。「と言っても、こっちが教えるんじゃない。お前から聞きたいことがあるのさ」
「俺から?」
「お前のその術式だ」トリスは蒼を指した。「〈残滓読み〉。それと〈術式干渉〉。お前、両方使えるんだろう?」
蒼は警戒した。なぜそれを知っている。〈術式干渉〉は、ベルダ博士の事件の戦闘で初めて使った。その情報がなぜ灰紋に。
「驚いてるな」トリスは笑った。「種明かしをすると、お前の戦闘を見てた奴がいるのさ。クレイを倒したときのな。〈封域〉を〈術式干渉〉で乱して、〈衝脈〉の一撃を通す。鮮やかだった」
蒼の頭の中で警鐘が鳴った。あの戦闘を見ていた者がいた。ということは、灰紋は局のかなり近くに目を持っている。
「お前のその、二つの術式の組み合わせ」トリスは続けた。「組織がずっと探していた『型』なんだよ」
「型」蒼はその言葉に反応した。クレイも最後に言っていた。灰紋は自分のような『型』を持つ人間を探していた、と。
「〈残滓読み〉と〈術式干渉〉。この二つを併せ持つ術者は、ある特別な素質を持っている」トリスは言った。「核石を扱える素質だ」
蒼は息を呑んだ。
「核石は、ただの結晶じゃない」トリスは語り始めた。「あれは膨大な魔素の塊だ。普通の人間が触れれば、魔素の奔流に呑まれて廃人になる。扱える者は限られている」
「その扱える者が——」
「〈残滓読み〉と〈術式干渉〉を併せ持つ術者さ」トリスは頷いた。「〈残滓読み〉は魔素の痕跡を読む力。〈術式干渉〉は魔素の流れに割り込む力。この二つを併せ持つ者だけが、核石の魔素を制御できる」
蒼はようやく、灰紋の狙いの一端を理解した。
灰紋は核石を集めている。だが、核石は扱える者がいなければただの石だ。だから灰紋は、核石を扱える『型』を持つ人間を、同時に探していた。そして自分は、その『型』を持っていた。
「お前を組織に迎えたい」トリスは率直に言った。「お前の素質は本物だ。組織に来れば相応の待遇を約束する。核石の力を使ってみたくないか?」
「断る」蒼は即答した。
「即答かよ」トリスは苦笑した。「理由を聞いても?」
「灰紋は人を殺している」蒼は静かに言った。「ベルダ博士。ヴェイン=コルト。そして数年前のある研究者。みんな密室の中で術式に殺された。そんな組織に協力する理由はない」
トリスの表情がわずかに変わった。
「……数年前の研究者、ね」トリスは呟いた。「お前、そこまで辿ってるのか」
「あんたたちが殺したんだろう」
トリスはしばらく黙っていた。それから、ふと表情を緩めた。だが、その緩み方はどこか苦いものだった。
「俺はな、蒼」トリスは初めて蒼の名を呼んだ。「組織のやり方の全部に賛成してるわけじゃないんだ」
蒼はトリスを見た。
「ヴォルクの——首領のやり方は、確かに効率的だ。目的のためなら手段を選ばない。だが、最近のあいつは変わった」トリスは独り言のように言った。「核石に取り憑かれてる。あれを集めるためなら何人でも殺す。昔はもう少し線を引いてたんだがな」
「なぜそれを俺に話す」
「さあな」トリスは肩をすくめた。「ただ、お前を見てると、何となく話したくなった。お前はあいつとは違う気がするからな」
その時だった。
地下空間に、新たな気配が現れた。
階段の上から、ゆっくりと足音が降りてくる。
現れたのは、白髪混じりの整った風貌の男だった。年は五十代の後半。落ち着いた服装に、穏やかな表情。だが、その全身から底知れない圧が漂っていた。
「トリス」男は静かに言った。「余計なことを喋りすぎだ」
トリスの表情が強張った。「……ヴォルク」
ヴォルク=エスナ。灰紋の首領。
蒼は初めて見るその男を見つめた。穏やかで知的な雰囲気。だが、目の奥に何の感情も読み取れない。深い、底なしの闇のようだった。
「天宮蒼くん、だったね」ヴォルクは蒼に視線を移した。「君のことはよく知っている。〈残滓読み〉と〈術式干渉〉。理想的な『型』だ」
「あんたが灰紋の首領か」
「いかにも」ヴォルクは微笑んだ。「単刀直入に言おう。私と来てもらいたい。核石を扱える者が必要なのだ」
「断ると、もう言った」
「そうか」ヴォルクは残念そうに首を振った。「では仕方がない」
その瞬間、ヴォルクの周囲の空気が変わった。
魔素の気配が消えた。完全に、消えた。
蒼はぞっとした。これが〈霧紋〉。痕跡を消す術式。だが、ただ痕跡を消すだけではない。周囲の魔素そのものを支配下に置いている。圧倒的な力の差を感じた。
「君が来ないというなら」ヴォルクは静かに言った。「核石を扱える『型』を持つ君は、私にとって邪魔な存在だ。生かしておく理由はない」
ヴォルクの手が上がった。
「蒼、伏せて!」
セレナの声が響いた。
階段の上から、彼女が飛び込んできた。〈衝脈〉。魔素を脚に込め、一気にヴォルクへと迫る。
だが——
ヴォルクは振り向きもしなかった。ただ片手を軽く振っただけだった。
その瞬間、セレナの〈衝脈〉が霧散した。魔素がヴォルクの〈霧紋〉に吸収されたのだ。セレナの体が勢いを失い、床に転がった。
「セレナ!」蒼が駆け寄った。
「……っ、術式が消された」セレナが呻いた。「拳に込めた魔素が、触れる前に消えた……」
「無駄なことを」ヴォルクは冷たく言った。「〈霧紋〉の前では、あらゆる術式が無力だ。痕跡も力も、すべて消える」
蒼は立ち上がり、セレナを背に庇った。
絶望的な力の差だった。〈衝脈〉が効かない。なら〈術式干渉〉も、効くかどうかわからない。
だが——蒼は考えた。〈霧紋〉は魔素を消す術式だ。ということは、それ自体も術式だ。術式である以上、〈術式干渉〉で割り込めるはずだ。問題は、その一瞬をどう活かすか。
「トリス」ヴォルクが言った。「お前も手伝え。二人とも、ここで消す」
トリスは動かなかった。
「……トリス?」ヴォルクが振り返った。
「なあ、ヴォルク」トリスはゆっくりと言った。「俺はさ、もう疲れたんだよ」
ヴォルクの目が細くなった。
「あんたの核石への執着に。罪のない研究者を、片っ端から殺すやり方に」トリスは首を振った。「昔のあんたは、もう少しまともだった。少なくとも、無関係な人間は巻き込まなかった」
「……裏切るのか、トリス」
「裏切る、ね」トリスは苦笑した。「そう言われると、そうなのかもな。だが、俺は俺の線を越えたくないだけだ」
トリスは蒼とセレナの前に立ち、ヴォルクと対峙する形をとった。
「悪いな、蒼」トリスは振り返らずに言った。「ここは俺が足止めする。お前らは逃げろ」
「あんた——」
「いいから行け!」トリスが叫んだ。「俺の〈爆砕〉は、〈霧紋〉相手でも多少は時間を稼げる。だが長くは持たない。今のうちに行け!」
トリスの手が床を叩いた。
〈爆砕〉。床の魔素結合が、爆発的に解放される。轟音とともに地下空間が揺れ、土煙が立ち込めた。
「蒼、こっちです!」セレナが蒼の腕を引いた。
二人は土煙に紛れ、別の通路へと駆け込んだ。
背後で、ヴォルクの声が響いた。
「トリス。お前はここで死ぬことになる」
「上等だ」トリスの笑い声が聞こえた。「だがな、ヴォルク。一つだけ教えてやる。あの〈残滓読み〉の小僧——あいつの『型』が、なぜお前の探してたものにぴったりだったか、わかるか」
ヴォルクの答えはなかった。
「あいつは転移者だ」トリスの声が続いた。「別の世界から来た。なぜそんな奴が、お前の探す『型』を持っていた? 偶然か? ……違うだろう。誰かがあいつを呼んだのさ。この世界に。お前の核石の計画を止めるために」
爆発音が響いた。そして、静寂が訪れた。
通路を駆け抜けながら、蒼はトリスの最後の言葉を聞いていた。
誰かが自分を呼んだ。核石の計画を止めるために。
それは、転移する直前に感じたあの感覚と繋がっていた。誰かに名前を呼ばれた、あの感覚と。
外に出た蒼とセレナは、しばらく走り続けた。
旧市街を抜け、人気のない路地に入ったところで、ようやく足を止めた。
二人とも息を切らしていた。
「……トリスは」セレナが息を整えながら言った。
「わからない」蒼は振り返り、時計塔の方角を見た。「でも、あいつは俺たちを逃がすために——」
蒼は言葉を切った。
トリスは敵だった。灰紋の現場指揮官。だが最後に、自分たちを助けた。ヴォルクに背いて。なぜそうしたのか、蒼にはまだわからなかった。だが、トリスの最後の言葉が頭から離れなかった。
「蒼」セレナが静かに言った。「トリスが言っていたこと。あなたが転移者で、誰かに呼ばれた、というのは」
「ああ」蒼は頷いた。「俺自身、転移する直前に感じていた。誰かに名前を呼ばれた感覚を」
セレナは蒼を見た。
「あなたはこの世界に偶然来たんじゃないのかもしれない」セレナは言った。「誰かがあなたを必要として呼んだ。核石を巡る、この戦いのために」
蒼は夜空を見上げた。別の世界の星空。
自分は何のためにここにいるのか。その問いに、おぼろげながら答えの輪郭が見え始めていた。自分は呼ばれた。この世界の誰かに。核石を扱える特別な『型』を持つ者として。
だが、誰が呼んだのか。なぜ自分だったのか。その答えはまだ霧の中だった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。灰紋との戦いは、もう避けられない。そして、その戦いの中心に自分がいる。
「セレナ」蒼は言った。「局に戻ろう。すべてを整理する必要がある。核石。灰紋。そして、俺がなぜ呼ばれたのか」
「ええ」セレナは頷いた。「でも、その前に」
セレナは蒼の顔をまっすぐに見た。
「無事でよかった」彼女は小さく言った。「さっき、あなたが私を庇ったとき……心臓が止まるかと思いました」
「庇ったのは当然だ」蒼は答えた。「あんたは俺の相棒だから」
セレナの頬が赤くなった。
「……相棒、ね」彼女は目を逸らした。「そうですね。相棒」
蒼はその反応の意味を、深くは考えなかった。
ただ、二人は夜の街を並んで歩き始めた。
まだ戦いは終わっていない。むしろ、本当の戦いはこれから始まるのだ。




