第六章 二つ目の密室
ベルダ博士の事件から、二週間が過ぎた。
蒼は術式捜査局の協力者としての生活に、少しずつ慣れてきていた。朝、局に出向き、未解決事件の資料を読み、必要があれば現場に出る。〈残滓読み〉を使う頻度も増え、頭痛との付き合い方も覚えてきた。
その日もいつものように、資料室で過去の事件を整理していた蒼のもとに、セレナが慌ただしく入ってきた。
「蒼。また起きました」
蒼は顔を上げた。「何が」
「殺人です」セレナの表情は張り詰めていた。「被害者はヴェイン=コルト。魔導具の鑑定士です。そして——」セレナは息を継いだ。「現場は、また密室でした」
蒼はペンを置いた。「密室」
「ええ。しかも手口に、ベルダ博士の事件との共通点があります」セレナは言った。「マーゴさんが現場の術式痕跡から、同じ『型』を検出しました」
「同じ『型』」蒼は立ち上がった。「灰紋か」
「その可能性が高い、と」セレナは頷いた。「行きましょう。局長もあなたを呼んでいます」
ヴェイン=コルトの自宅は、レイアスの商業区の一角にあった。
鑑定士の仕事場を兼ねた、こぢんまりとした邸宅だ。一階が店舗、二階が住居になっている。事件現場は、二階の書斎だった。
現場には、すでにマーゴがいた。蒼を見ると軽く頷いた。前回の事件で、彼女の蒼への態度は少し変わっていた。馬鹿にする色はもうなかった。
「状況を説明するわ」マーゴは事務的に切り出した。「被害者は昨夜、この書斎で死亡。死因は心臓への術式干渉。ベルダ博士のときとまったく同じ手口」
「密室の構造は」と蒼。
「これも似ている。でも完全に同じじゃない」マーゴは扉を示した。「今回は〈封域〉じゃない。書斎の扉には〈施錠〉の術式がかかっていた。物理的にも術式的にも、外から開けられない状態だった。窓も、内側から術式で固定されていた」
「〈施錠〉」蒼は扉を観察した。「〈封域〉とは違うのか」
「〈封域〉は術式の発動を封じる結界。〈施錠〉は、扉や窓を術式的に固定する錠前の術式」セレナが補足した。「効果は違うけど、密室を作るという点では同じ役割を果たす」
蒼は部屋を見回した。前回と同じく整然とした書斎。机の上に、鑑定途中らしい魔導具がいくつか並んでいる。
「被害者は鑑定士だったな」蒼は言った。「何を鑑定していた」
「それがわからないんです」セレナが言った。「机の上の魔導具はありふれたものばかり。でも、被害者の鑑定記録には、最近何か『特別なもの』を鑑定したという記述があります。ただし、その『特別なもの』が何なのかは、記録から消されている」
「消されている」蒼は反応した。「誰かが消したのか」
「おそらく。犯人が痕跡を消した可能性が高い」
蒼は机に近づいた。鑑定記録の置かれていた場所に手を伸ばす。
「〈残滓読み〉を使う」
蒼は机に手を当てた。集中する。
頭の奥が弾けた。
映像。断片。
——ヴェイン=コルトが机に向かっている。手元に何かを置いている。布に包まれた、小さな物体。
——切り替わる。彼がその物体の布を解く。中身は見えない。映像がそこだけぼやけている。まるで何かに遮られているように。
——切り替わる。誰かが書斎に入ってくる。フードを被った人物。顔は見えない。
——切り替わる。フードの人物がヴェインに何かを問うている。ヴェインが首を振る。拒否している。
——切り替わる。フードの人物の手が、ヴェインの胸に触れる。一瞬。それだけ。
——切り替わる。フードの人物が布に包まれた物体を手に取り、立ち去る。扉に術式を刻みながら。
映像が消えた。蒼は手を引いた。頭痛が来る。だが、前回ほどではなかった。
「何が見えましたか」セレナが尋ねた。
「フードを被った人物が、被害者を訪ねていた」蒼は額を押さえた。「被害者が鑑定していた『何か』を奪っていった。そして被害者に致死術式を仕込んで立ち去った。手口はベルダ博士のときと同じだ」
「奪われた『何か』とは」
「わからない」蒼は首を振った。「映像がそこだけぼやけていた。まるで何かに遮られているみたいに」
マーゴが眉をひそめた。「遮られている? 〈残滓読み〉が、特定の物だけ読めなかった、ということ?」
「ああ」蒼は考えた。「魔素の痕跡を読めなかった。普通、物体には痕跡が残る。でも、あの物体だけは痕跡が消されていた。あるいは、最初から痕跡を残さない何かだった」
「痕跡を残さない物体」マーゴが呟いた。「そんなもの、聞いたことがない」
蒼は、その『何か』が事件の核心だと直感した。
ベルダ博士はある研究をしていた。ヴェイン=コルトはある『何か』を鑑定していた。そして二人とも、同じ手口で殺された。博士の研究と、鑑定士の『何か』。それは繋がっているのではないか。
その夜、蒼は局でセレナとマーゴを前に、整理を始めた。
「二つの事件には共通点が多い」蒼は言った。「一、術式による殺害。二、密室。三、同じ『型』の術式。そして四、どちらの被害者もある『何か』に関わっていた。博士は研究、鑑定士は鑑定対象」
「その『何か』が灰紋の狙いだと?」セレナが言った。
「その可能性が高い」蒼は頷いた。「灰紋はある特定の『何か』を探している。それを持っている、あるいはそれについて知っている人間を、口封じしながら奪い集めている」
「でも、その『何か』が何なのかがわからない」マーゴが言った。
「手がかりはある」蒼は言った。「ヴェインの〈残滓読み〉の映像で、奪われた物体だけが痕跡を残していなかった。これは重要な特徴だ。魔素の痕跡を残さない物体。あるいは、痕跡を消す性質を持つ物体」
「痕跡を消す……」セレナがはっとした。「それって、灰紋の首領、ヴォルク=エスナの固有術式と似ていませんか。〈霧紋〉。自分と周囲の魔素痕跡を消去する術式」
蒼はセレナを見た。「〈霧紋〉」
「ええ。資料で読みました。ヴォルクの〈霧紋〉は、〈残滓読み〉が唯一通じない相手、と」
蒼は考え込んだ。痕跡を消す術式。痕跡を残さない物体。両者は関係しているのか。
「もし、その物体が」蒼は慎重に言った。「〈霧紋〉と同じ性質を持つものだとしたら——あるいは、〈霧紋〉のような術式の源になるものだとしたら」
部屋が静まり返った。
「灰紋は、その物体を集めることで何かを成そうとしている」蒼は続けた。「魔素の痕跡を消す力。それは犯罪者にとって、究極の武器だ。証拠を一切残さずに犯行を重ねられる」
「それを組織全体が手に入れたら——」セレナが青ざめた。「捜査が不可能になる」
「ああ」蒼は頷いた。「灰紋は、痕跡を残さない世界を作ろうとしているのかもしれない」
翌日、蒼はリーナのもとを訪ねた。
情報屋である彼女なら、何か知っているかもしれないと思ったからだ。
「痕跡を残さない物体、ね」リーナは蒼の話を聞いて、しばらく黙った。「……心当たりが、ないわけじゃない」
「教えてくれ」
リーナはお茶を一口飲んでから、口を開いた。
「『核石』と呼ばれるものがある」リーナは静かに言った。「魔素を極めて高密度に凝縮した結晶。古い文献にだけ記述が残っている。実在するかどうかも定かじゃない、伝説のような代物よ」
「核石」
「核石は特殊な性質を持つとされている」リーナは続けた。「その一つが、周囲の魔素を吸収し、痕跡を消すこと。核石の近くでは、術式の痕跡が残らない」
蒼は息を呑んだ。「それだ」
「ベルダ博士は、核石に関する研究をしていたのかもしれない」リーナは言った。「そしてヴェイン=コルトは、本物の核石を鑑定していた。だから痕跡が読めなかった。核石が近くにあったから」
「灰紋は、その核石を集めている」蒼は言った。「博士から研究を、鑑定士から実物を奪った」
「そういうことになるわね」リーナの表情は硬かった。「核石が本物なら、それは世界の力の均衡を変えうる代物よ。灰紋がそれを独占すれば、誰にも止められなくなる」
蒼はリーナを見た。彼女は核石について、やけに詳しかった。
「リーナ」蒼は問うた。「あんた、核石についてどこで知った」
リーナの目がわずかに揺れた。
「……情報屋だもの。色々と耳に入るのよ」リーナは薄く笑った。だが、その笑みはいつもより固かった。
蒼はそれ以上は聞かなかった。だが、彼の頭の中で、また一つ断片が増えた。
リーナは核石を知っている。〈残滓読み〉の使い手を二人知っている。そして「もうここにいない人」のことを語らない。
彼女の過去が、この事件とどこかで繋がっている。その予感が強くなっていた。
局に戻ると、オード局長が蒼を呼んでいた。
「核石、か」オードは蒼の報告を聞いて、静かに頷いた。「興味深い仮説だ。だが、核石はあくまで伝説上のもの。実在する証拠は、まだない」
「ですが、二つの事件は核石の存在を示唆しています」蒼は言った。
「確かに。だが、慎重に進めるべきだ」オードは穏やかに言った。「核石が実在するとすれば、それを巡って大きな争いが起きる。局としては、まず灰紋の動きを注視する。性急な行動は避けたい」
「灰紋を泳がせるということですか」
「言い方は悪いが、そうだ」オードは微笑んだ。「敵の狙いがわかった以上、こちらは先回りができる。焦って動けば、敵を警戒させるだけだ」
蒼はその言葉に、一理あると思った。だが、同時に違和感も覚えた。
オードは灰紋を「泳がせる」と言った。だが、その間にも灰紋は核石を集め続ける。被害者が増えるかもしれない。それを許容するのか。
「局長」蒼は問うた。「灰紋が次の標的を狙っている可能性は」
「あるだろうな」オードはあっさりと答えた。「だが、すべての被害を未然に防ぐことはできない。それが現実だ」
蒼はオードを見た。彼の穏やかな表情の奥に、何か読み取れないものがあった。
——この人は、何を考えている。
蒼の頭の中で、また一つ、違和感の断片が積み重なった。
その夜。
蒼は一人で、二つの事件の資料を見比べていた。
ベルダ博士。ヴェイン=コルト。二人の被害者。同じ手口。同じ『型』。核石。
そして、セレナの父親の事件も、同じ『型』だった。
ということは、セレナの父親も核石に関わっていた可能性がある。
蒼はその考えに行き当たった。
数年前、セレナの父親——術式研究者だった彼は、核石に関する何かを知っていた。だから灰紋に殺された。密室の中で。
そして今、灰紋は再び、核石を巡って動き始めている。
点が線になりつつあった。
だが、まだ核心が見えない。灰紋の首領、ヴォルク=エスナ。彼はなぜ核石を集めるのか。〈霧紋〉という痕跡を消す術式を持つ彼が、なぜ痕跡を消す核石を必要とするのか。
そして、リーナの言う「もうここにいない人」。〈残滓読み〉のもう一人の使い手。その人物は、この一連の出来事とどう繋がっているのか。
蒼は資料を閉じた。
断片は増え続けている。だが、まだ全体像は霧の中だった。
彼は窓の外を見た。
その時、ふと、街の灯りの一つが不自然に揺れた気がした。
蒼は目を凝らした。
——誰かが、こちらを見ている。
その視線を、彼は確かに感じた。
灰紋が動き始めている。そして、その狙いはすでに自分にも向けられているのかもしれない。
蒼は窓のカーテンを、静かに引いた。




