第五章 残滓と、これからの話
事件は解決した。
クレイ=ヴェントは殺人を自供し、灰紋との繋がりも認めた。だが、組織についての詳細は固く口を閉ざした。背後にいる人物の名前も、灰紋の目的も、ついに語らなかった。
「ベルダ博士の研究が何だったのかも、わからずじまいですね」セレナが報告書をまとめながら言った。「クレイは、それだけは絶対に話そうとしません」
「組織の核心に関わることだからだろう」蒼は窓の外を見ていた。「クレイは末端の実行犯だ。本当に重要なことは、知らされていないか、知っていても口にできない」
事件の余韻が、まだ局内に漂っていた。研究院という身近な場所で起きた巧妙な殺人。それが多くの人間を不安にさせていた。
オード局長が、蒼を局長室に呼んだ。
「見事だった」オードは穏やかに微笑んだ。「正直に言うと、この事件は迷宮入りすると思っていた。完璧な密室、完璧なアリバイ。並の捜査官では手も足も出なかっただろう」
「運がよかっただけです」と蒼は答えた。
「謙遜は美徳だが、事実を曲げるものではない」オードは首を振った。「君の〈残滓読み〉と、その推理力。二つが揃ったとき、君は局にとってかけがえのない存在になる」
オードは机の引き出しから、新しい身分証を取り出した。
「正式な術式外部協力者の認定証だ」オードはそれを蒼に差し出した。「臨時ではない。これで君は局の正式な協力者となる。報酬も待遇も、相応のものを用意する」
蒼は認定証を受け取った。冷たい金属の感触。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらのほうだ」オードは微笑んだ。「これからもよろしく頼むよ。天宮蒼くん」
蒼は局長室を出た。
廊下を歩きながら、彼は一つの違和感を抱えていた。
オードは事件の解決を、純粋に喜んでいるように見えた。だが、〈封域〉を使える人物の照合をしたとき、最初に疑われたのはオード自身だった。彼はそれを知っているはずだ。なのに、その件には一切触れなかった。
疑われたことを気にしていないのか。それとも、気にしていないように振る舞っているのか。
蒼はその違和感を、頭の片隅に置いた。今はまだ確かめようがない。
局を出ると、リーナが待っていた。
「お疲れさま、名探偵」リーナは軽く笑った。「事件、解決したんですって? フィンが自慢げに話してたわよ。『俺が拾った人がすごいことになった』って」
「フィンが拾ってくれなかったら、俺は今頃、路上で野垂れ死んでた」
「あら、自覚はあるのね」リーナは隣に並んで歩き始めた。「正式な協力者になったとか。出世したじゃない」
「出世というのか、これは」
「立派な出世よ。身分なしの転移者が、術式捜査局の正式協力者。レイアスじゃ、なかなかない話」
二人はしばらく、夕暮れの街を歩いた。魔素ラインが、徐々に光を強めていく。
「リーナ」蒼はふと口を開いた。「事件の最後に、犯人が妙なことを言った。灰紋は、俺のような『型』を持つ人間を探していた、と」
リーナの足がわずかに止まった。
「……『型』」
「俺の〈残滓読み〉の話だと思う」蒼は続けた。「あんた、最初に俺の術式を見たとき、動揺していた。覚えてるか。『使える人間を二人しか知らない。一人はもうここにいない人』と言った」
リーナは答えなかった。歩みを再開する。横顔はいつもの薄い笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
「その、もうここにいない人っていうのは、誰なんだ」蒼は問うた。
リーナはしばらく黙っていた。それから静かに言った。
「……いつか話すわ。今はまだ、その時じゃない」
「なぜ」
「あなたが知る準備ができていないから」リーナは前を向いたまま言った。「それに、私自身もまだ整理がついていないの」
蒼はそれ以上は聞かなかった。彼女の声に、無理に踏み込めない何かがあった。
「わかった」と蒼は言った。「準備ができたら、聞かせてくれ」
リーナはちらりと蒼を見た。その表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……素直ね、あなた」
「そうか?」
「そういうところよ」リーナは小さく笑った。「まあ、嫌いじゃないけど」
蒼はその言葉の意味を、深く考えなかった。リーナがそういう言い方をする人間なのだろう、とだけ思った。
リーナはそれに気づいて、少しだけため息をついた。だが、何も言わなかった。
数日後。
蒼はセレナと二人で、局の資料室にいた。
「クレイの自供で、いくつか過去の事件が灰紋絡みだったとわかってきました」セレナが資料を広げた。「術式を使った巧妙な殺人。表向きは事故や自然死に見せかけられたもの。そのいくつかに、灰紋の手口と共通点があります」
「共通点というのは」
「術式の『型』です」セレナは資料の一枚を指した。「マーゴさんが解析した結果、複数の事件で同じ術式の癖——『型』が使われていることがわかった。同一犯か、同じ術式を学んだ人間の仕業」
蒼はその資料を見た。そして、ある一件で手が止まった。
数年前の未解決事件。被害者は術式研究者。密室。担当はセルヴィア=セレナ。
「これは——」蒼は顔を上げた。「あんたが追っている事件だな」
セレナの表情が固まった。
「……知っていたんですか」
「協力者の資料に載っていた」蒼は言った。「あんたが、巡査になりたての頃から個人的に追い続けている事件だと」
セレナはしばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「あの事件の被害者は……私の家族でした」
蒼はセレナを見た。
「父です。父も術式研究者でした」セレナは資料を見つめたまま言った。「ある日、研究室で死んでいた。密室の中で。死因は不明。事故として処理されかけたけど、私は納得できなかった。だから刑事になった。父を殺した犯人を、自分の手で見つけるために」
「家族にも、その理由を話していない、と聞いたが」
「ええ。話せば止められると思ったから」セレナは小さく笑った。寂しげな笑みだった。「『個人的な復讐のために刑事になるな』と。正論です。でも、私にはそれしかなかった」
蒼はしばらく考えた。それから、ゆっくりと言った。
「あんたの父親の事件と、今回のベルダ博士の事件」蒼は資料を指した。「術式の『型』が同じだ」
セレナの目が見開かれた。
「……え」
「マーゴさんの解析を、もう一度確認した方がいい」蒼は言った。「もし同じ『型』なら、あんたの父親を殺した犯人と、ベルダ博士を殺した灰紋は繋がっている」
セレナは資料を握りしめた。手が震えていた。
「……ずっと追ってきた」セレナの声はかすれていた。「何年も。何の手がかりもなく。それが、今——」
「焦るな」蒼は静かに言った。「まだ確証はない。でも、糸は繋がりかけている。一つずつ手繰っていけばいい」
セレナは蒼を見た。その目に涙が浮かんでいた。だが、彼女はそれをこぼさなかった。ぐっと堪えた。
「……あなたがいてくれて、よかった」セレナは絞り出すように言った。「一人じゃ、たぶんここまで来られなかった」
「俺は、ただ見えたものを言っただけだ」
「それでも、です」セレナはまっすぐに蒼を見た。「ありがとう、蒼」
蒼は少し戸惑った。こういうまっすぐな感謝を向けられることに、慣れていなかった。
「……うん」蒼はぎこちなく頷いた。「また何かあったら、呼んでくれ」
セレナはふっと笑った。涙の滲んだ目で。
「はい。呼びます」
蒼はその笑顔に何かを感じた。だが、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。だから、いつものように、ただ頷くだけにした。
セレナはそんな蒼を見て、少しだけ複雑な顔をした。けれど、それ以上は何も言わなかった。
その夜。
蒼はフィンと一緒に、リーナの部屋にいた。事件解決のささやかな祝いだという。
「すごいよ、蒼!」フィンは興奮していた。「密室殺人を解決したなんて! 局でも噂になってる。『〈残滓読み〉の名探偵が現れた』って」
「大げさだ」
「大げさじゃないよ! ねえ、リーナさん」
「そうね」リーナはお茶を淹れながら言った。「ただ、あんまり目立つのも考えものよ。〈残滓読み〉が使えるって知られると、厄介な連中に目をつけられる」
「灰紋、とか」と蒼。
リーナの手が一瞬止まった。「……ええ。そういう連中に」
フィンは二人の様子に気づかず、無邪気に喋り続けていた。
「でもさ、蒼が来てから、なんか毎日が面白いよ」フィンは笑った。「俺、術式も使えないし、ずっと半人前扱いだったけど。蒼の手伝いができるなら、それでいいかなって思えるんだ」
「フィンの観察力と記憶力は、術式より役に立つ」蒼は言った。「市場であんたが俺を拾ったとき、最初に俺の魔素の揺れに気づいたのはあんただ。あれはただの観察じゃない。素質がある」
フィンが目を丸くした。「……そうかな」
「そうだ」
フィンは嬉しそうに、でも少し照れたように頭をかいた。
リーナがその様子を、優しい目で見ていた。それから、ふと窓の外に視線を移した。
その横顔を、蒼はふと見た。リーナは何かを思い出しているような、遠い目をしていた。
——もう、ここにいない人。
蒼はその言葉を思い出した。リーナにとって〈残滓読み〉の使い手とは何なのか。それが彼女の過去とどう繋がっているのか。
まだわからない。だが、いつか知ることになる。その予感だけがあった。
夜が更けて、フィンが眠ってしまったあと。
蒼は窓辺で、夜のレイアスを見ていた。
魔素の光が、街を静かに照らしている。
この世界に来て、まだほんの数日。だが、すでに多くのことが起きた。転移。〈残滓読み〉。術式捜査局。密室殺人。灰紋。そして、セレナの過去。
断片がいくつも、頭の中に漂っている。
灰紋はなぜ、〈残滓読み〉の使い手を探しているのか。リーナの言う「もうここにいない人」とは誰なのか。カインはなぜ、あの夜、自分に忠告したのか。オード局長のあの違和感は何だったのか。そして、なぜ自分はこの世界に呼ばれたのか。
答えはまだ、どこにもない。
だが、蒼は不思議と焦りを感じていなかった。
断片はいつか繋がる。〈残滓読み〉の映像が、最初はバラバラで、論理で繋げば意味を持つように。この世界の謎も、一つずつ手繰っていけば、いつか形になる。
その時まで、自分はここで生きていく。
蒼は夜空を見上げた。
日本で見ていた空とは、星の並びが違う。当然だ。ここは別の世界なのだから。
——俺は、なぜここにいるんだろう。
その問いに、答えはなかった。
ただ、転移する直前に感じた、あの感覚。誰かに名前を呼ばれたあの感覚だけが、まだ、手の平に確かにそこに残っていた。
誰かが、自分を呼んだ。
その誰かに、いつか辿り着く。
そんな予感を抱きながら、蒼は新しい世界の夜を、静かに見つめていた。
彼の物語は、まだ始まったばかりだった。




