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残滓の探偵  作者:


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第三章 封じられた部屋の死



 知らせは、朝食の途中で届いた。


 蒼が新居で簡素なパンをかじっていると、扉が激しく叩かれた。開けると、セレナが息を切らして立っていた。制服姿で、表情が張り詰めている。


「事件です。来てください」


「何が起きた」


「殺人。被害者はベルダ=オルム博士。レイアスでも一、二を争う術式研究者です」セレナは早口で言った。「現場は博士の研究室。完全な密室状態で発見されました」


 蒼はパンを置いた。「密室」


「内側から〈封域〉がかかっていました。外からは絶対に開けられない。なのに、博士は中で死んでいた」セレナは蒼の目を見た。「局長が、あなたに現場を読ませろと」


 蒼は上着を取った。「行こう」




 ベルダ博士の研究室は、王立術式研究院の最上階にあった。


 白い石造りの広い建物で、廊下には魔導具や実験器具が並んでいる。最上階に上がると、すでに捜査官たちが集まっていた。その中に、色素の薄い金髪の男がいた。カイン=ドレア。蒼と目が合ったが、彼は何の反応も示さなかった。ただ、静かにこちらを見ていた。


 研究室の扉の前に、白衣を着た女性が立っていた。黒縁の眼鏡をかけ、几帳面そうな印象の人物だ。


「法医術式師のマーゴ=シェルです」セレナが紹介した。「遺体と現場の術式痕跡を分析する専門家」


 マーゴは蒼を一瞥した。「これが噂の協力者? 〈残滓読み〉とか」


「天宮蒼です」


「ふうん」マーゴは興味なさそうに鼻を鳴らした。「言っておくけど、〈残滓読み〉は精度が低いの。あれは断片しか見えないし、術者の主観が混じる。私の〈解析眼〉のほうが、よほど信頼できる。期待しないでね」


「期待されても困る」と蒼は答えた。


 マーゴが少し意外そうな顔をした。


「現場を見せてもらえますか」


「ええ。ただし、何も動かさないこと」マーゴは扉を示した。「言っておくけど、この密室、相当に厄介よ」




 研究室の中は、整然としていた。


 壁一面に書架が並び、机の上には書きかけの研究資料が広げられている。床の中央に、白い布がかけられていた。その下に、博士の遺体がある。


 マーゴが布をめくった。


 初老の男性だった。穏やかな顔で、外傷はない。まるで眠っているようだった。


「死因は、表面的には心臓麻痺」マーゴが説明した。「でも、これは自然死じゃない」


「なぜわかる」と蒼。


「私の〈解析眼〉が、博士の心臓周辺に術式干渉の痕跡を検出したから」マーゴは遺体の胸元を指した。「誰かが術式で、博士の心臓に負荷をかけた。それも、外傷を残さない、極めて繊細な方法で。これは高度な術式の使い手にしかできない」


「術式で殺された、と」


「そう。問題は——」マーゴが立ち上がり、扉を示した。「この部屋が完全な密室だってこと」


 セレナが扉を指した。「発見時、扉は内側から〈封域〉で封鎖されていました。〈封域〉は指定範囲内の術式発動を完全に封じる結界術式。一度かければ、術者本人か、それを上回る術者でなければ解除できません」


「ベルダ博士本人がかけたのか」


「そう考えるのが自然です。〈封域〉は博士も使えました。研究のために、よく自室を封鎖していたそうです」セレナは続けた。「つまり、博士は自分で部屋を封鎖した。その密室の中で、術式によって殺された。でも、術式は〈封域〉の中では発動できない。なのに、博士は術式で殺されている」


 蒼は黙って状況を整理した。


 矛盾している。〈封域〉は内部の術式発動を封じる。ならば、密室の中で術式による殺害は不可能のはずだ。だが、博士は術式で殺された。


 二つの事実が両立しない。どちらかが間違っているか、あるいは——前提のどこかに、誤りがある。


「窓は」と蒼は尋ねた。


「嵌め殺しです。開きません。それに、ここは最上階。外壁を伝って侵入するのは、術式を使っても困難です」セレナが答えた。


「換気口や、隠し通路は」


「マーゴさんが調べました。ありません」


 蒼は部屋をゆっくりと見回した。完全な密室。術式による殺害。両立しない二つの事実。


「……容疑者は」


「三人います」セレナが言った。「昨夜、博士と会っていた人物です」




 三人の容疑者は、別室で待たされていた。


 一人目は、恰幅のいい中年の男だった。名をハーグ=レン。博士の研究の出資者で、大手の魔導具製造企業の幹部だという。


「私はあの夜、慈善晩餐会に出席していたんだ」ハーグは汗を拭きながら言った。「何百人もの前で挨拶までした。博士の研究室になど、行けるはずがない」


 二人目は、若い男だった。博士の助手のティム=ロウ。神経質そうな顔をしている。


「僕は隣の実験室で、ずっと記録をつけていました」ティムは早口で言った。「魔導具の連続稼働実験で、ログが自動的に残ります。僕が部屋にいた証拠です」


 三人目は——カイン=ドレアだった。


 蒼は少し驚いた。容疑者として、彼の名前が挙がっているとは。


「私はあの夜、博士に呼ばれてここへ来た」カインは淡々と言った。感情のない声だった。「だが、博士とは玄関で短く話しただけだ。研究室には入っていない。私が帰ったあと、博士は一人で最上階へ上がった。それが、博士を見た最後だ」


「証人は」とセレナが尋ねた。


「研究院の警備記録に、私の入退場時刻が残っている。滞在は十五分。博士を殺す時間はない」


 三人とも、アリバイを持っていた。


 蒼は三人を順に観察した。ハーグは汗をかき、明らかに動揺している。ティムは神経質に指を組み替えている。カインは——無表情だった。何も読み取れない。


 だが、蒼の頭の中で、昨日の保管室の映像が蘇った。手首の紋様。カインのものと一致した、あの印。


 偶然だろうか。それとも、、、


「現場をもう一度、読ませてほしい」と蒼は言った。




 研究室に戻った蒼は、扉の前に立った。


 ここで〈封域〉がかけられた。その瞬間の痕跡が、扉に残っているはずだ。


 蒼は扉に手を当てた。集中する。


 頭の奥が、熱を持って弾けた。


 映像。断片。順不同。


 ——博士が、部屋の中で書き物をしている。穏やかな夜。


 ——切り替わる。博士が立ち上がり、扉の方を見る。何かに気づいたように。


 ——切り替わる。博士が扉に駆け寄る。手をかける。だが、開かない。激しく叩く。何度も。表情に焦りがある。


 ——切り替わる。博士の胸を、見えない力が締めつける。膝をつく。床に倒れる。


 ——切り替わる。扉の外側。誰かの手が、扉の表面に術式を刻んでいる。〈封域〉の紋様。だが、それは内側からではない。外側から、かけられている。


 映像が消えた。蒼は手を引いた。激しい頭痛が押し寄せる。膝が崩れかけた。


「蒼!」


 セレナが駆け寄り、蒼の肩を支えた。「大丈夫ですか」


「……ああ」蒼は額を押さえた。頭が割れそうに痛む。だが、彼の頭の中では、論理が組み上がり始めていた。


「重いわよ」セレナがぼそりと言った。蒼を支えたまま、顔を背けている。


「悪い」


「いえ……それより、何が見えたんですか」


 蒼は深く息を吐いた。痛みをこらえて、口を開いた。


「この密室は、博士が作ったんじゃない」


 セレナが目を見開いた。「どういう……」


「〈封域〉は、外側からかけられていた」蒼は言った。「博士は部屋に閉じ込められたんだ。自分で閉じこもったんじゃない。外から封じられて、出られなくなった。そして、その中で術式に殺された」


「待ってください。〈封域〉の中では術式は発動できないはずです。なのに、どうやって博士を殺したんですか」


 蒼は顔を上げた。痛みの向こうで、答えは、もう見えていた。


「順番が、逆なんだ」




 その夜、蒼は局の一室で、セレナとマーゴを前に、考えを整理していた。


 机の上に、現場の図面が広げられている。


「もう一度、最初から考える」と蒼は言った。「俺たちは、ある前提を信じ込んでいた。『博士が自分で部屋を封鎖し、その密室の中で殺された』という前提だ。だから矛盾が生じた。〈封域〉の中では術式は使えない。なのに博士は術式で殺されている、と」


「ええ」とセレナ。


「でも、その前提が間違っていたとしたら?」蒼は図面を指した。「殺害が先で、封鎖が後だったとしたら、矛盾は消える」


 マーゴが眉をひそめた。「殺害が先? でも、〈封域〉は発見時にかかっていた。死後にかけたなら、誰が、どこからかけたの?」


「ここがトリックの核心だ」蒼は身を乗り出した。「〈封域〉は、二重にかけられていた」


「二重?」


「犯人は、まず外側から、研究室の扉に〈封域〉を仕込んだ。ただし、すぐには発動しない、遅延式の〈封域〉だ。条件が満たされたときに、自動で発動する」蒼は説明した。「その条件とは——博士が、自分で部屋を封鎖したとき」


 セレナが息を呑んだ。


「博士には、夜に自室を〈封域〉で封鎖する習慣があった。犯人はそれを知っていた」蒼は続けた。「博士が、いつものように自分の〈封域〉をかける。その瞬間、外側に仕込まれた遅延式の〈封域〉が反応して、発動する。二つの〈封域〉が重なる。外側の〈封域〉は、博士の〈封域〉の『上』からかぶさるように展開する」


「つまり」マーゴが理解し始めた。「博士は、自分で部屋を封じたつもりでいた。でも実際には、外側からもっと強力な〈封域〉が二重にかかっていた。だから、あとで博士が自分の〈封域〉を解こうとしても——」


「解けない。外側の〈封域〉が、それを許さないからだ」蒼は頷いた。「博士は部屋から出られなくなった。〈残滓読み〉で見えた、扉を叩く博士の姿。あれは、自分で封じたはずの扉が開かず、焦っていた瞬間だった」


 セレナが声を絞り出した。「でも、術式での殺害は……」


「ここが二つ目のトリックだ」蒼は言った。「博士を殺した術式は、〈封域〉が発動するより『前』に、すでに博士の体に仕込まれていた」




「術式は、即座に効果を発揮するものばかりじゃない」蒼は続けた。「遅効性の術式がある。体に刻まれ、一定時間後に発動する。マーゴさん、博士の心臓の干渉痕は、死亡時刻に発生したものだと、どうやって特定した?」


 マーゴが言葉に詰まった。「それは……痕跡の鮮度から……」


「痕跡の鮮度は、術式が『発動した』時刻を示す。でも、術式が『仕込まれた』時刻は別だ」蒼は言った。「犯人は、博士と接触したときに、遅効性の致死術式を仕込んだ。それは数時間後に発動するよう設定されていた。そして、ほぼ同じタイミングで〈封域〉が発動するよう、計算されていた」


「だから……」セレナが愕然とした。「博士が自分で部屋を封じる。外側の〈封域〉が二重にかかる。博士は閉じ込められる。そして、その直後に、すでに仕込まれていた致死術式が発動して、博士は死ぬ」


「そう」蒼は頷いた。「〈封域〉の中で術式を発動させたんじゃない。〈封域〉がかかる前に術式を仕込んでおいて、中で発動させただけだ。だから矛盾はない。〈封域〉は『新しい術式の発動』を封じるが、『すでに仕込まれた術式の自動発動』までは止められない」


 部屋が静まり返った。


「……完璧な密室の正体は」マーゴが呟いた。「博士自身を、時限装置にした殺害だった」


「そういうことだ」蒼は息を吐いた。「博士は、自分が時限爆弾を抱えていることも、部屋が外から封じられることも知らないまま、いつも通りの夜を過ごし——閉じ込められて、死んだ」


 セレナが拳を握りしめた。「許せない」


「問題は、誰がやったかだ」蒼は言った。「この方法を実行できるのは、三つの条件を満たす人物だけだ。一、遅延式の〈封域〉を仕込める高度な術式の使い手。二、博士に致死術式を仕込めるほど近くで接触できた人物。三、博士の『夜に自室を封鎖する習慣』を知っていた人物」


「三人の容疑者のうち、誰が……」


「それを確かめるために」蒼は立ち上がった。「明日、もう一度、三人のアリバイを検証する。完璧なアリバイほど、疑わしい」




 その夜遅く。


 局の廊下を歩いていた蒼は、ふと足を止めた。


 窓の外、研究院の方角を見ていると、背後に気配を感じた。振り返ると、カイン=ドレアが立っていた。


「天宮蒼」カインは静かに言った。「君は、保管室の件で、何かを見たな」


 蒼は無言でカインを見た。


「私の手首の紋様を、見たのだろう」カインは続けた。感情のない声だった。「だが、君はそれを報告しなかった。なぜだ」


「断片だったからだ」蒼は答えた。「確証がなかった。それに——あんたが盗ったとは限らない。〈残滓読み〉は、術者を特定できない。手首の紋様が見えただけだ。同じ紋様を持つ人間は、他にもいるかもしれない」


 カインはしばらく蒼を見つめた。


「賢明だな」と、彼は言った。「だが、忠告しておく。この事件、君が思っているより、ずっと深い。深入りすれば、戻れなくなる」


「忠告か。それとも、脅しか」


「どちらでもない。事実だ」カインは踵を返した。「博士を殺した方法に、君は気づいた。だが、なぜ殺されたかには、まだ気づいていない。それを知ったとき、君は選択を迫られる」


 カインは闇の中に消えていった。


 蒼はその背中を見送りながら、考えた。カインは何を知っている。そして、なぜそれを、わざわざ自分に告げたのか。


 彼の頭の中で、いくつもの断片が、まだ繋がらないまま漂っていた。


 ——明日、すべてを繋げる。


 蒼は窓の外の、魔素の光を見た。その光の中に、まだ見えない真実が、静かに沈んでいた。

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