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残滓の探偵  作者:


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2/10

第二章 術式捜査局、門をくぐる



 翌朝、蒼が目を覚ますと、リーナがすでに外出の支度を整えていた。


「ちょうどいいわ」リーナは外套の襟を直しながら言った。「あなたを連れて行きたいところがある」


「どこ」


「術式捜査局」


 蒼は体を起こした。「昨日フィンが言ってた、警察みたいなところ」


「そう。あなた、身分証も戸籍もないでしょう。このままだとレイアスで生活できない。不法滞在で捕まる前に、こちらから出向いて事情を説明したほうがいい」リーナは振り返った。「それに、あなたの術式は局が放っておかない。〈残滓読み〉が使えるとなれば、なおさら」


「放っておかないというのは」


「いい意味でも、悪い意味でも、ね」


 フィンはまだ眠っていた。リーナは「あの子は寝かせておきましょう」と言って、蒼を連れて部屋を出た。


 街は朝の光に満ちていた。昨日よりも人通りが多い。リーナは慣れた足取りで大通りを進み、やがて大きな建物の前で立ち止まった。


 灰色の石造りの、四角く無骨な建物だった。正面の入口の上に、紋章が刻まれている。天秤と、その上に開いた目。


「あれが局の紋章」リーナが言った。「天秤は公正。目は……まあ、すべてを見通すという意味でしょうね」


「すべてを見通す」蒼はその目をしばらく見た。「皮肉な気もする」


「どうして」


「見通せていれば、犯罪は起きない」


 リーナがふっと笑った。「言うわね」


 二人は門をくぐった。




 受付でリーナが事情を説明すると、しばらくして奥から一人の女性が出てきた。


 短く切り揃えた赤茶の髪の、若い女性だった。蒼と同じくらいの歳に見える。きりっとした目元で、姿勢がよく、制服を一分の隙もなく着こなしている。見習いを示す肩章をつけていた。


「セルヴィア=セレナ巡査です」女性は事務的に名乗った。「転移者の件と聞きました。こちらへ」


 硬い声だった。リーナを見る目に、わずかな警戒がある。


「お久しぶり、セレナ」とリーナが軽く言った。


「……情報屋に知り合い面されるのは好きじゃありません」


「冷たいわね」


 セレナはそれには答えず、蒼を見た。値踏みするような、でもどこか挑むような目だった。


「あなたが転移者ですか」


「そう言われている」と蒼は答えた。


「証拠は」


「ない」


 セレナの眉が動いた。「ない、とは」


「自分が転移者だと証明する手段を、俺は持っていない。記憶はあるが、それは証拠にならない。だから『そう言われている』としか言えない」


 セレナは少しの間、蒼を見つめた。それから、ふっと息を吐いた。


「……正直なのは認めます。嘘をつく転移者志願者はたまにいますから。身元を偽って局に取り入ろうとする人間が」


「そんなことをして何の得がある」


「術式捜査局の協力者という肩書きは、それなりに使い道があるんです。悪いことにも」セレナは踵を返した。「来てください。局長が直接お会いになります」




 局長室は、最上階にあった。


 広い部屋の奥に、大きな机がある。その向こうに、白髪混じりの穏やかな風貌の男が座っていた。年は五十代の半ばだろうか。蒼たちが入ってくると、ゆっくりと顔を上げ、柔らかく微笑んだ。


「ようこそ。私はオード=ナイン。この局の局長を務めている」


 声に圧はなかった。むしろ、聞いていて安心するような響きがある。だからこそ、蒼は少し警戒した。安心させるのが上手い人間は、それを意図的にやっていることが多い。


「天宮蒼です」


「珍しい響きの名だ。座りたまえ」


 蒼は勧められた椅子に座った。リーナとセレナは後ろに立っている。


「セレナ巡査から報告を受けた」オードは机の上で手を組んだ。「君は転移者で、〈残滓読み〉を使うと」


「使える、らしい。意図して習得したわけじゃない」


「興味深い」オードの目が少しだけ細くなった。「〈残滓読み〉は希少な術式だ。この国でも数えるほどしか使い手がいない。それが、術式の概念すら知らなかった転移者に発現している。これは、放っておける話ではない」


「俺をどうするつもりですか」


「どうもしないさ」オードは穏やかに言った。「ただ、提案をしたい。君は今、身分も住む場所もない。このままでは生活が立ち行かないだろう。そこで——術式捜査局の外部協力者にならないか」


 蒼は黙ってオードを見た。


「協力者になれば、臨時の身分証が発行される。住居の手配もしよう。報酬も出す」オードは続けた。「その代わり、局が必要とするとき、君の〈残滓読み〉を貸してほしい。捜査において、過去の痕跡を読める能力は計り知れない価値がある」


「断ったら」


「無理強いはしない。ただ、身分のない転移者がレイアスで暮らすのは、想像以上に困難だということは伝えておこう」オードは微笑んだ。「これは脅しではなく、事実だ」


 蒼は少し考えた。選択肢はそう多くない。身を寄せる場所も、生活の手段もない以上、この申し出を断る理由は薄い。それに——術式捜査局という組織の内側を見られるのは、この世界を理解する上で都合がいい。


「わかりました。引き受けます」


「賢明だ」オードは頷いた。「セレナ巡査、彼の担当は君に任せる」


 セレナの表情が一瞬固まった。


「私が、ですか」


「不満かね」


「いえ……ですが、転移者の監督は、もっと経験のある捜査官のほうが」


「君は若いが優秀だ。それに、歳が近いほうが彼も話しやすいだろう」オードは温和に言った。「頼んだよ」


 セレナは何か言いたげだったが、結局「……承知しました」とだけ答えた。


 その横顔を、蒼は観察していた。彼女はこの任務を望んでいない。明らかに。だが拒否もできない立場にいる。組織の中での力関係がそこに見えた。




 局長室を出ると、セレナは廊下を早足で歩いた。蒼はその後を追う。


「歓迎されていないみたいだ」と蒼は言った。


 セレナが足を止めて振り返った。「気づいていましたか」


「顔に出ていた」


「……失礼しました。あなた個人への感情ではありません」セレナは少し言葉を選んだ。「ただ、私は転移者というものを、あまり信用していないだけです」


「なぜ」


 セレナは答えなかった。代わりに、別の話を始めた。


「あなたの担当として、いくつか説明しておきます。協力者の身分証はこれです」彼女は薄い金属板を差し出した。蒼の名前と、簡単な紋様が刻まれている。「魔素認証付きです。偽造はできません。これがあれば局の一般区画には出入りできます」


「ありがとう」


「住居は局の手配で、ここから歩いて十分の集合住宅になります。今日中に案内します」セレナは事務的に続けた。「報酬は事件ごとの出来高制。生活が安定するまでは、最低保障も出ます」


「手厚いな」


「あなたの術式が、それだけの価値があると判断されているということです」セレナの声に、わずかな棘があった。「私の〈衝脈〉なんかより、ずっと重宝される」


「衝脈」


「私の固有術式です。魔素を拳に集めて衝撃波として撃ち出す。戦闘には向いてますが——」セレナは少し自嘲気味に言った。「繊細さが要る捜査には、向いていない。上はそう思っているようです」


 蒼はセレナを見た。その言葉に、悔しさのようなものが滲んでいた。


「戦闘ができるのは、捜査でも役に立つと思うけど」


 セレナが少し意外そうな顔をした。


「……気休めはいりません」


「気休めじゃない。事実だ」蒼は淡々と言った。「捜査の最後には、たいてい犯人がいる。犯人は抵抗する。そのとき戦える人間がいないと、推理は意味を失う」


 セレナはしばらく蒼を見つめた。何か言おうとして、やめた。それから、ぼそりと言った。


「……変わった人ですね、あなた」


「よく言われる」




 その日の午後、ちょっとした事件が起きた。


 セレナに連れられて局の一般区画を見て回っていた蒼のもとに、慌ただしい知らせが届いた。証拠品保管室から、押収品が一つ消えたという。


「術式封印具です」セレナが早足で保管室へ向かいながら説明した。「危険な術式を一時的に封じるための魔導具。過去の事件で押収されたものが、今朝の点検で一つ足りないことがわかった」


 保管室は、地下にあった。重い扉に厳重な魔素錠がかかっている。中は棚が整然と並び、押収品が番号順に並べられていた。


 管理担当の職員が青ざめた顔で待っていた。


「昨夜の閉室時には、確かにありました。今朝来たら、なくなっていて」


「外部からの侵入の痕跡は」セレナが尋ねた。


「ありません。扉の魔素錠は無事です。記録上、昨夜から今朝にかけて、この部屋に入った者はいません」


 セレナが唸った。「密室か」


 蒼はその言葉に少し反応した。「密室?」


「外部から侵入した痕跡がなく、内部の人間も入っていない。なのに物が消えた。そういう状況を密室と呼びます」セレナは棚を見回した。「厄介ですね。これは局の威信に関わる。内部に裏切り者がいるとなれば」


「俺が見てもいいか」と蒼は言った。


 セレナが振り返った。「〈残滓読み〉で?」


「使えるなら使う」


 セレナは少し迷ったが、頷いた。「やってみてください」


 蒼は封印具があったとされる棚に近づいた。空いた一区画。番号札だけが残っている。そこに手を伸ばし、触れた。


 頭の奥が、また弾けた。




 映像は、相変わらず断片的だった。


 暗い保管室。ランプの灯り。手——手袋をした手が、封印具を掴む。番号札を残し、品物だけを抜き取る。その手の主の顔は見えない。ただ、その手首に、わずかに魔素の揺らぎがあった。術式を使った直後の、特有の残り香のようなもの。


 映像が切り替わる。扉。魔素錠は確かにかかっている。だが、その鍵穴の周囲に、かすかな干渉の痕跡がある。誰かが術式で、一時的に錠を「すり抜けた」ような。


 もう一つ、別の断片。手袋の手が立ち去る瞬間、袖口がわずかにめくれた。そこに、小さな印が見えた。皮膚に刻まれた、紋様のような何か。


 映像が消えた。蒼は手を引いた。頭が痛む。


「何か見えましたか」セレナが尋ねた。


「内部の人間だ」蒼は額を押さえながら言った。「手袋をしていた。術式で魔素錠を一時的にすり抜けて、中に入った。封印具だけを抜き取って、番号札は残した。すぐに気づかれないように」


 セレナの目が見開かれた。「そこまで……」


「もう一つ。その人物の手首に、印があった。皮膚に刻まれた紋様のようなもの。袖口がめくれた一瞬に見えた」


 蒼はそこで言葉を止めた。


 その紋様を、彼は今朝、別の場所で見ていた。局の廊下ですれ違った、ある人物の手首に。


 ——カイン=ドレア。


 上級捜査官だと、セレナが紹介してくれた人物。色素の薄い金髪の、感情を表に出さない男。


 蒼は、それを口に出さなかった。


「どうしました」セレナが訝しげに言った。


「……いや」蒼は首を振った。「紋様の形まではよく見えなかった。断片だったから」


 嘘だった。形ははっきり見えていた。だが、確証がない状態で名前を出すのは危険だと判断した。〈残滓読み〉は断片的で、誤読の可能性が常にある。それに——もし本当にカインが関与しているなら、迂闊に騒げば証拠を消されかねない。


「もう少し調べてからのほうがいい」と蒼は言った。「断片だけで人を疑うのは、危険だ」


 セレナは蒼をじっと見た。何かを察したような目だったが、追及はしなかった。


「……わかりました。一旦、内部に術式で錠をすり抜けられる者がいる、という線で報告します」


「それがいい」


 二人は保管室を出た。階段を上りながら、セレナがぽつりと言った。


「あなた、何か隠していますね」


 蒼は足を止めなかった。「気のせいだ」


「……まあ、いいです」セレナは小さく息を吐いた。「ただ、一つだけ。私を信用しなくてもいい。でも、嘘をつくなら、せめて下手な嘘はやめてください。すぐにわかるので」


 蒼は少し驚いて、セレナを見た。彼女は前を向いたまま歩いていた。耳が、わずかに赤い気がした。


「覚えておく」と蒼は答えた。




 夜、新しく手配された住居に落ち着いた蒼は、窓辺で今日のことを整理していた。


 手元には、局から渡された資料がある。協力者として目を通しておくべき、過去の主要事件の概要だ。


 ページをめくっていた手が、ある記述で止まった。


 数年前の、未解決事件。被害者は術式研究者。死因は不明。現場には侵入の痕跡がなく、密室状態だった。担当捜査官の欄に、見覚えのある名前があった。


 セルヴィア=セレナ。


 まだ巡査になりたての頃に、彼女が個人的に追い続けている事件だと、注釈に書かれていた。


 蒼はその記述をしばらく見つめた。


 密室。術式研究者。未解決。


 今日の保管室の一件とは関係ないかもしれない。だが、何かが引っかかった。論理ではなく、もっと曖昧な、痕跡のようなもの。


 彼はその資料を閉じ、ランプを消した。


 明日、セレナにこの事件のことを聞いてみよう、と思った。


 だがその機会は、思っていたよりずっと早く、そして思っていたのとはまったく違う形で訪れることになる。


 翌朝、レイアス随一の術式研究者が、自らの研究室で死体となって発見されるのだ。


 ——完全な、密室の中で。



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