第一章 知らない天井、知らない空
最初に気づいたのは、においだった。
雨上がりの石畳に、かすかに焦げたような何かが混ざっている。東京では嗅いだことのない空気だ、と天宮蒼は思った。次の瞬間、自分が路地裏の地面に尻をついて座っていることに気づいた。
——いつから、ここにいる?
立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。壁に手をついてゆっくり体を起こす。煉瓦のような、でも煉瓦とは少し質感の違う壁。見上げた空は白みがかった青で、太陽の位置から午前の中頃だとわかった。
両隣には三階建てほどの建物が並んでいる。看板に書かれた文字は読めた。不思議なことに、読めた。でも日本語ではない。なのに意味がわかる。まるで生まれたときから知っていたかのように。
蒼は自分のスマートフォンを取り出した。圏外、と表示されている。いや、そもそも電波の問題ではない気がした。アンテナのマークが表示されていない。機種ごと認識されていないような、そんな感じ。
財布を確認する。日本円が入っていた。当然だ、ついさっきまで大学院の図書館にいたのだから。
——ついさっきまで。
蒼は一度目を閉じた。パニックになるのは非効率だ、と自分に言い聞かせる。状況を整理する。わかっていること。一、ここは自分の知っている場所ではない。二、言語は不思議と通じる。三、財布の中身は日本円で、おそらく使えない。四、スマートフォンは使えない。
わからないこと。ほぼすべて。
目を開けると、路地の出口から少年がこちらを覗き込んでいた。
「……生きてる?」
十代後半だろうか。茶色の跳ねた髪に、人懐っこそうな顔立ち。ただし今は警戒した犬のような表情をしている。
「生きてる」と蒼は答えた。
少年がおそるおそる近づいてきた。足元がおぼつかない蒼を見て、少し眉をひそめる。
「術式の使いすぎ? それとも酔ってる?」
「どっちでもない。気づいたらここにいた」
「……どこから来たの」
蒼は少し考えた。正直に言うべきかどうか。でも嘘をついても仕方がない。
「わからない。気づいたら、ここだった」
少年は蒼をじっと見た。嘘をついていないと判断したらしく、ゆっくりと表情を緩める。
「フィン=アルテ。情報屋の見習いをしてる」
「天宮蒼」
「あまみや? 変わった名前だね」と少年——フィンは言った。「外国の人?」
「……そういうことにしておいてくれ」
フィンはしばらく蒼の顔を見てから、ため息をついた。
「まあいいや。とりあえず立てる? この路地、あんまり長居するところじゃないから」
フィンに連れられて路地を抜けると、街が広がっていた。
蒼は思わず立ち止まった。
見慣れた、という感覚がある。電柱に似た構造物が並んでいて、車に似た乗り物が走っている。でも何かが違う。電柱から光の糸のようなものが延びていて、それが街灯や看板に繋がっている。光の糸は肉眼で見えた。透明に近い、でも確かにそこにある何か。
「あの光は……なに」と蒼は言った。
「魔素ライン」フィンは当然のように答えた。「魔素を送電するやつ。見えてるの? 術式使いじゃないのに珍しいね」
「魔素」
「知らないの?」フィンが不思議そうにこちらを見た。「この世界にある基本的なエネルギーのことだよ。人間は誰でも体の中に持ってて、使い方を覚えると固有術式っていう個人固有の能力が使えるようになる。ライフライン全般も魔素で動いてる。インフラとか、交通とか」
「……電気みたいなもの?」
「電気?」
「こっちの言葉じゃないか。似たようなものだと思って」
フィンはふうん、と頷いて歩き出した。蒼はその後を追いながら、街を観察した。人々が行き交い、店が並び、路面電車のようなものが走っている。現代的だ、と思った。でも日本の現代とは微妙にずれている。
「ここはどこ?」
「レイアス。王国の首都。人口は二百万くらいかな」
「王国」
「王制だよ、一応。でも実質的には議会が動かしてる。王様はほぼ飾り」フィンは気軽に言った。「術式捜査局とかの公的機関は王室の管轄だけど、実際はほぼ独立してる感じ」
「術式捜査局」
「警察みたいなもの。特に術式を使った犯罪を専門に扱う機関。うちの親方が……」フィンが一瞬口を閉じた。「まあいいや。とにかく、この街で生きてくには魔素の知識はあったほうがいい。術式使えないと不便なことも多いから」
「俺、術式なんて使えないと思うけど」
「本当に?」フィンがちらりと蒼を見た。「さっき路地で、すごく変な魔素の揺れがしてた。あなたが座ってたあたりから」
蒼は少し考えた。路地裏で目が覚めたとき。自分の手の平が、どこかじんじんしていたような記憶がある。
「わからない」と正直に言った。
「まあ、おいおいわかるよ」フィンは肩をすくめた。「とにかく今日はどうするの? 行くあてある?」
「ない」
「お金は?」
「日本円っていう、たぶんここでは使えない通貨がある」
フィンは立ち止まって蒼を見た。ため息をついた。でも、追い払うような気配はなかった。
「わかった。とりあえず今日はうちに来ていいよ。親方に話してみる」
「親方って?」
「俺の雇い主。情報屋をやってるんだ。あなたみたいな珍しい人間、興味を持つかもしれない」フィンが少し悪戯っぽく笑った。「それに——術式もわからない人間が一人でレイアスを歩き回るのは危ないから」
フィンのねぐらは、大通りから路地を二本入ったところにある雑居ビルの三階だった。ドアを開けると、紙と古いインクと、かすかに甘いお茶のにおいがした。
部屋の中には壁一面の棚があり、書類や紙束が詰め込まれていた。テーブルの上には地図が広げてある。窓際の椅子に、人が座っていた。
長い銀髪を緩くまとめた、二十代半ばほどの女性だった。こちらを見もせずに書類を読んでいる。
「フィン、遅い」
「ちょっとあって」
「事件でもあった?」
「人を拾った」
女性がようやく顔を上げた。涼しい目元に、薄い笑みが浮かんでいる。蒼を上から下まで一瞥した。
「珍しい顔ね。どこの出身?」
「遠いところ」と蒼は言った。
「物好きな答え方するじゃない」女性は書類を置いた。「リーナ=クロウ。情報屋をやってる。あなたは?」
「天宮蒼」
「アマミヤ」リーナは音を確かめるように繰り返した。「どこの国の名前?」
「説明が難しい場所の」
「ふうん」リーナは少し間を置いた。値踏みするような目だったが、不快ではなかった。「いいわ。今日は泊まっていきなさい。フィンが連れてきた人間を追い出すほど薄情じゃないから」
「助かります」
「お礼はいらない。その代わり、色々聞かせてもらうから」リーナが立ち上がった。細身で、身のこなしが静かだ。「お腹空いてる? 食べながら話しましょう」
夕方近くになって、フィンが「市場に行こう」と言い出した。
食材の買い出しだという。蒼も同行した。異世界を——と内心ではもうそう認識していた——少しでも観察しておいたほうがいい。
市場は大通りの一角に広がっていた。野菜や果物を売る露店が並んでいて、色とりどりで賑やかだった。蒼には名前のわからない作物が半分以上を占めていたが、見ているだけで楽しかった。
フィンが慣れた様子で買い物をするのを眺めていたとき、少し離れた露店から声がした。
「ちょっと待って! 財布がない!」
丸々とした体格の中年の男性が、あちこちのポケットを叩いている。露店の店主だ。
「財布がなくなった! 誰かに盗られた!」
周囲がざわつく。フィンが振り返った。
「スリかな」
蒼は男性の方を見た。かなり動揺している。周囲を見回しているが、怪しい人物を特定できていないようだ。当然だ。プロのスリなら、とっくに人込みに紛れている。
男性が地面を見下ろした。露店のすぐ前の石畳に、荷物を下ろした跡がある。
蒼は自分でも理由がわからないまま、そちらへ歩いた。石畳の前にしゃがんで、手を伸ばす。触れた瞬間——
頭の中で、何かが弾けた。
映像だ。でも記憶ではない。誰かが見ていた何か。荷物を置く男性。そのすぐ横に立つ人影。細い指が男性の上着のポケットに触れる。人影が素早く体を翻す。路地の方へ消える。足元には特徴的な靴——右の踵が少し擦り切れている。
映像が消えた。頭の奥がじんじんとしている。
蒼は立ち上がって周囲を見渡した。露店の列。その端、路地の入口の近く。立ち話をしているふりをしている男が一人いた。右足をずっと地面についている。靴の踵を隠すように。
「あの人だ」と蒼は静かに言った。
「え?」フィンが振り返った。
「右の踵が擦り切れた靴を履いてる人。あそこ」
フィンが蒼の視線を追った。
「……どうしてわかったの?」
「地面に触れたら見えた。映像みたいなもの」
フィンが蒼を見た。驚いた顔ではなかった。それより、何かを確認するような目だった。
「魔素の残滓を読んだ。そういう術式があるって聞いたことある。でも使える人、ほとんどいないよ」
蒼は自分の手を見た。まだ少しじんじんしている。
「そうなのか」
「うん。でも……それ、かなり特殊な術式だから」フィンが言いかけて止まった。「まあいいや。とりあえず、あの人を捕まえよう。俺、知り合いの巡査に連絡する」
結果的に、男はその場で取り押さえられた。財布も出てきた。露店の店主は涙ぐんで礼を言った。蒼は「たまたまです」とだけ言った。正直なところ、自分でもよくわかっていなかった。
帰り道、フィンがぽつりと言った。
「ねえ、蒼さん」
「蒼でいい」
「蒼。その術式、どこで習ったの?」
「習ってない。気づいたら使えた」
フィンは少し間を置いた。
「やっぱり変わってる人だね」
「よく言われる」
フィンが小さく笑った。蒼はそれに気づかず、夕暮れの街を観察し続けた。
部屋に戻ると、リーナが窓際に立っていた。外を見ていたが、二人が入ってくると振り返った。
「遅かったわね。何かあった?」
「スリ騒ぎ」とフィンが言った。「蒼が解決した」
「へえ」リーナの目が蒼に向いた。「どうやって?」
「地面に触れたら映像が見えた。それだけ」
リーナが少し動いた。表情は変わらなかったが、蒼には何かが変わったように見えた。
「地面に触れて、映像が見えた」リーナがゆっくりと繰り返した。「詳しく」
「その場所に残っていた痕跡から、過去の出来事の断片が映像として見えた。順番はバラバラで、繋ぎ合わせる必要があったけど」
リーナは何も言わなかった。ただ蒼を見ていた。
「その術式、名前がある。〈残滓読み〉」と最終的にリーナは言った。「かなり珍しい。使える人間を私は二人しか知らない」
「二人?」
「そう」リーナが視線を逸らした。窓の外に目を向ける。「……一人は、もうここにいない人」
声のトーンが一段下がった。それだけだった。何かを聞こうとしたが、蒼は止めた。今は聞くべきではないと、理由はわからないが感じた。
「もう一人は?」と代わりに聞いた。
「あなたよ」リーナが振り返った。いつもの薄い笑みが戻っている。「今日から二人になった」
そう言って、キッチンの方へ歩いて行った。
フィンが小声で「なんか気に入られてる」と言った。
蒼は「そうか?」と答えた。
フィンはそれ以上何も言わなかった。
夜になった。
フィンは早々に眠ってしまい、リーナはテーブルで書類仕事をしている。蒼は窓際に座って、夜のレイアスを見ていた。
魔素ラインが光っている。街灯よりも柔らかい光で、街全体がうっすらと輝いているように見えた。
不思議と、恐怖はなかった。
状況が把握しきれていないから怖くないのかもしれない、と蒼は思った。あるいは、認知科学を学ぶ過程で「不確実な状況に対して過剰に反応しない」という癖がついているのかもしれない。どちらにしろ、今できることをするしかない。
手を見る。じんじんはもう消えている。
〈残滓読み〉。
自分がそんな能力を持っているとは思っていなかった。でも、使えた。石畳に触れた瞬間の感覚を思い出す。映像は確かにそこにあった。断片的で、順序がなくて、でも論理で繋げば意味を持つ。
それは、推理に似ていると思った。
「眠れないの?」
リーナの声がした。振り返ると、書類から目を上げてこちらを見ている。
「考え事をしてた」
「何を?」
「なぜここにいるのか」
リーナはペンを置いた。「わからないの?」
「まったく」
リーナが少しの間、蒼を見た。何かを考えているようだった。
「ねえ、転移する直前、何かなかった? 音とか、声とか」
蒼は少し考えた。図書館。本棚の前。手を伸ばして——
「……名前を、呼ばれた気がした」
「誰に?」
「わからない。声は聞こえなかった。でも、呼ばれたという感覚だけがあった」
リーナが視線を落とした。テーブルの木目を見ているようだった。
「そう」と、静かに言った。
それ以上は何も言わなかった。蒼も聞かなかった。
しばらくして、リーナが「おやすみ」と言ってランプを消した。
蒼は暗くなった窓の外を見た。魔素の光だけが、静かに街を照らしている。
——俺はなぜ、ここにいるんだろう。
答えはまだ、どこにもなかった。
ただ、ここではないどこかから、確かに呼ばれた気がした。その感覚だけが、手の平のじんじんと同じように、まだそこに残っていた。




