第五話:実感
放課後の改札を抜けると、いつもの穴が、いつもの顔で口を開けていた。
昨日と同じ。一昨日とも、同じ。
変わったのは、たぶん、俺の方だけだ。
石の階段を、地の底へ降りていく。
降りるごとに、土と苔の匂いが濃くなる。壁の光苔が、ぼんやり青白い。
たった一階分。それでも、地上の音は、もう聞こえない。
草原に出る。
スライムが、間延びした動きで揺れていた。毎日、何十匹と斬ってきた、見飽きた相手だ。
でも今日は、その一匹が、やけにくっきりと、目に映る。
剣を抜く。
握りの感触は、いつもの安物のまま。なのに、柄を持つ手だけが、妙に汗ばんでいた。
スライムの間の抜けた突進をよける。
斬る。
よける。
斬る。
一匹、倒す。
いつもなら、ここで切り上げる。今日のところはこのくらいで、って。
今日は、剣を下ろさなかった。
もう一匹。次の、一匹。
二十を数えたあたりで、握る指が、自分の指じゃないみたいになってきた。
肩の付け根が、内側から焼けるみたいに熱い。
それでも、振った。振り続けた。
その夜、茶碗を持つ手が、かたかたと鳴った。
手の皮が剥けて、何をするにも痛くて、情けないくらい、握力が残っていなかった。
* * *
それから、来る日も来る日も、剣を振った。
学校では、普通にしていた。
田島のくだらない話に笑って、適当に相槌を打って。
でも、頭の中は、ずっとダンジョンのことだった。早く放課後にならないか、そればかり考えていた。
最初のうちは、ただ、しんどいだけだった。
朝、まぶたを開けるたび、全身が抗議の声をあげる。
それでも、足はダンジョンに向いた。行かない言い訳を探す自分の方が、よっぽど嫌だった。
何日かして、ふと、気づく。
いつも俺をからかうみたいに跳ねるホーンラビットに、切っ先が、届いた。
かすめただけだ。倒せちゃいない。
それでも。
「お」
間の抜けた声が、勝手に出た。
誰もいない草原で、ひとり、突っ立ったまま。
胸の奥が、ほんの少しだけ、軽くなる。
昨日の自分より、ほんの少し。前に出られた気がした。
そんな気がした瞬間に。
頭の隅で、石田の腕がちらつく。
俺がこうやって、ちょっと前に進んで、嬉しくなってる、今この時も。
あいつの腕は、戻らない。
笑っていいのか、俺が。
たった1階層ウサギに剣が当たったくらいで、浮かれて。
軽くなりかけた胸がまた、ずん、と重くなる。
それでも、剣は下ろさなかった。
下ろせなかった。
* * *
そうやって、1ヶ月。
ときどき、足が止まる。
これで、合ってるんだろうか。
誰かに教わったわけじゃない。我流で、ただ、腕を振り回しているだけだ。
強くなっているのか。
進んでいるのか。
それとも、ただ、疲れることに慣れただけなのか。
それを教えてくれるものは、どこにもなかった。
それに。
ここは、一番浅くて、一番ぬるい場所。
命を懸けたことなんて一度もない。
ここで何匹倒したって、意味は無い。
石田が立っていた場所には、届かない。
あいつは、とっくにこんなところを通り過ぎていた。
ためしに、息を、深く吸ってみる。
この階の空気は、薄い。
魔力が薄いんだ、と、いつか授業で聞いた。
浅い階は力が淡くて、だから、弱い魔物しか育たない。
半歩前に出た、あの小さな嬉しさが、急に、ばかみたいに思えた。
もっと前に進むべきだ。
俺は森の方に足を向けた。
森の中は薄暗かった。
高くのびた木々の合間から、かろうじて陽が差し込んでいる。手元がやっと見えるくらいの明るさだ。
足もとは、木の根があちこちで地面から飛び出していて、気を付けないと、つまずいて転んでしまいそうだった。
草原の、あの間延びした空気はもう、どこにもない。
葉ずれの音さえ遠くて、自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
ここには強いモンスターがいる。
でも、こんなところで止まっているわけにはいかない。
周囲を警戒しながら前に進む。
足もとが、ふいに、やわらかく沈む。
あ、と思ったときには、片足が、地面に飲まれていた。
落とし穴、じゃない。
穴の縁の土を押しのけて、何かが這い出してくる。
節くれだった黒い脚。一本、二本、三本——数えるのは、やめた。
ピットスパイダー。穴に潜んで、獲物を待つ。
今日の獲物は、俺だ。
剣を抜く。両手で、握る。
飲まれた足を引き抜きながら、軽くピットスパイダーに向かって振り下ろす。
脚の一本に刃が食い込んで、硬い手応えが、肩まで跳ね返ってくる。
蜘蛛が、たたらを踏むみたいに後ろへ下がった。
倒せる。
そう思った次の瞬間。
口元から、白いものが、こっちに飛んできた。
よけきれない。糸だ。
左の腕に、べたりと巻きついて、ねばつく。引いても、剥がれない。
腕一本、持っていかれた気分だった。
「クソッ」
それでも、右手一本で、剣を振った。
重い。糸を引きずって、よけて、また振る。
当たらない。
毎日振って、軽くなってきた剣が、片手になった途端、邪魔をする。
あいつは、跳ねて、回って、俺の攻撃を避けているのか、おちょくっているのかわからない。
息が、すぐに上がる。手の皮の剥けたところが、柄にこすれて痛い。
ちくしょう。
ちくしょう、当たれ。
当たれよ。
一度だけ、脚の運びが、噛み合った。
踏み込んで、体ごと、剣を叩きつける。
蜘蛛の胴に、刃が深く入った。
脚が、いっぺんに、ばたついて——やがて、動かなくなる。
倒した。
肩で息をしながら、勝利をかみしめる。
初めてだ。こんなふうに、本気で、命を懸けたのは。
「はは」
楽しい。
自然と口角が上がる。
案外、あっけなかったな。
俺の勝ちだ、蜘蛛野郎。
瞬間、その熱が、ぞくりと冷えた。
背中の、すぐ後ろ。
土を押しのける、あの音が、もう一度した。
ふり返る。
さっきより、ひとまわり大きいのが、穴から、ゆっくりと這い出してくる。
足が、動かなかった。
さっきの一匹で、もう、腕が上がらない。糸の巻きついた左腕は、感覚が遠い。
やれる、と、口の中で言ってみる。
やれる。まだ。俺は——。
言葉が、続かなかった。
無理だ。
体の、ずっと奥の方が、そう言っていた。理屈じゃない。
ここで意地を張ったら、死ぬ。
瞬間、俺は背を向けて走った。
木の根に、何度もつまずきながら。
かっこ悪いとか、情けないとか、そんなことを考える余裕も、なかった。
ただ、生きて、森を出ることだけを、考えていた。
明るい草原に転がり出て、膝に手をついて、はじめて、自分が震えているのに気づいた。
「あんた」
声に、顔を上げる。
斎藤だった。少し離れた所で短剣を収めて、まっすぐ、こっちに歩いてくる。
俺の、糸の巻きついた腕。木の枝で切ったらしい頬。たぶん、ひどい顔。
斎藤の目が、その一つ一つを、順番に、たどっていくのが分かった。
「森、入ったの?」
責める声じゃなかった。問い詰める声でも。
ただ、分かってしまった、という声だった。
「ちょっと、迷い込んだだけ」
笑って、軽く返したつもりだった。
声が、思ったより、かすれていた。
斎藤は、何も言わずに、俺を見ていた。
まっすぐ。いつものやつだ。何かを、見透かすみたいに。
何か言われる、と思った。焦ってるとか、無理してるとか。
でも、斎藤は、ひとつ息を吐いて、それだけだった。
「無茶しないでよ。見てるこっちが、ひやひやするから」
それから、もう何も言わずに、行ってしまった。
その目線の感覚だけが、いつまでも、残っていた。
* * *
その夜、布団にもぐって、スマホの光を顔に浴びていた。
強くなる方法。剣術。独学。コツ。
思いつく言葉を打ち込んでは、ぴんと来なくて、消す。
我流じゃ、限界だ。
そんなことは、もう嫌になるほど分かっている。今日、体で、思い知った。
このまま一人で続けたら、強くなるより先に、死ぬ。
何度目かの検索の、その先に、それはあった。
『初心者向け・探索者ステップアップ講習』
ただ、知りたかった。
どうすれば、強くなれるのか。
あの場所に立っている石田に、少しでも、近づけるのか。
親指が、申し込みのボタンの上で、止まる。
それから、押した。
進もう。




