第四話:一歩
朝になっても、結局、頭の芯は冴えたままだった。
窓の外はやけにまぶしい。
体は鉛みたいに重いのに、頭の真ん中だけが、変に起きている。
昨日のことが、寝てないあいだもずっと、どこかで回り続けていたみたいだ。
着替えようとして、椅子にかけた制服が目に入る。
裾が、破れたままだ。
俺はそれを見ないようにして、別の制服に袖を通した。
階段を降りると、台所に母さんが立っていた。
「おはよ。悠。朝ご飯、食べてく?」
いつもより、ほんの少し慎重な声だった。
「いいや」
時間はあった。
ただ、何かを口に入れる気に、どうしてもなれなかった。
母さんは「そう」とだけ言って、それ以上は聞いてこない。
鞄を掴んで、家を出る。
外の空気は、まだ少し湿っていた。
いつもの通学路。同じコンビニ、同じ信号。すれ違う学生も、信号待ちの車も、昨日と何ひとつ変わらない。
ダンジョンの方を見る。
こうして俺が普通に歩いてるこの時間にも、石田は病院のベッドにいるんだろう。
それなのに、街はいつも通りだ。
それが、なんだか変な感じだった。
俺は、ダンジョンの方から目を逸らして、歩き出す。
公園に紫陽花が咲いている。
学校までの道のりは、いつもよりほんの少しだけ長い気がした。
教室の戸を開けた瞬間、空気が、いつもと違うのに気づいた。
うるさいのに、どこかひそひそとしている。
「中村、おはよ。お前、顔やばくね? ぜんぜん寝てないだろ」
前の席の田島が、振り返って笑う。
「あー、まあな。ゲームやりすぎた」
俺も笑って、適当に返す。
ただ、みんなの視線が、ちらちらと一か所に集まっているのに気づいた。
石田の席だ。
今日は、誰も座っていない。
「石田、ダンジョンで事故ったんだって」「異常個体が出たらしい」
切れ切れの噂が、あちこちから聞こえてくる。
みんな、もう知っているらしい。
でも。
その現場に俺がいたことは、誰も知らない。
同じ教室で、同じ噂を聞いていて。
俺だけが、ひとりだけ、違う場所に立っているみたいだった。
朝のホームルームで、担任が出席簿をめくりながら、事務的な声で言った。
「石田君は、しばらく欠席します。怪我の治療で入院中ですが、命に別状はありません。みんなも、ダンジョンは
それだけだった。
そして、すぐに次の連絡事項へ移っていく。
命に別状はありません、か。
昨日、ギルドの男も、まったく同じことを言っていた。
みんな、判で押したように、同じ言葉を使う。
その言葉の外側で、石田の腕が、実際どうなったのか。
それについては、誰も、何も言わない。
あんな経験をしたのはこの教室で、俺だけだ。
休み時間も、授業中も、俺はずっと、ぼんやりしていたと思う。
田島が何か喋ってきた気もするけど、何を返したのか、よく覚えていない。
ひとつ、引っかかっていることがあった。
石田とは、同じクラスってだけで、ろくに喋ったこともない。
なのにあいつは、俺を庇うみたいにして、あのウルフの前に立った。
なんで、あんなことしたんだろう。
俺なんかのために。
考えても、答えは出ない。
授業も、ほとんど頭に入ってこなかった。
黒板の字が、ただの模様にしか見えない。
気がつけば、考えているのは、ダンジョンのことばかりだ。
どうやったら強くなれるんだろう、なんて。
チャイムが鳴って、授業が終わって、また次が始まる。
ノートは、ほとんど白いままだ。
気が付くと放課後になっていた。
いつもなら、ダンジョンに寄って、スライムを倒してから帰る。
なのに、なんとなく足が止まる。
昇降口を出ると、地面が濡れていた。
昼間、ひと雨降ったらしい。
道の端の水たまりに、俺が映っている。
頬に貼った絆創膏。たいした傷でもない。
ひりひりと痛む。
水たまりの中の俺は、何も答えない。
ただ、じっと、こっちを見ている。
俺は、歩き出した。
学校から、そう遠くない、見慣れた道。
何度も通った道を抜けると、いつもの入口が見えてくる。
足は止まらなかった。
逃げたいわけじゃない。
強くなる。
昨日の夜、そう決めた。
決めたんだ。
ならやるしかない。
前に進もう。
うじうじ悩んで、それで石田の腕が元に戻るなら、いくらでも悩んでやる。
でも、戻らない。
石田は、俺なんかよりずっと先の階まで、潜っていた。
あいつがどれだけのことを積み上げて、そこまで行ったのか。
俺には、想像もつかない。
でも。
鞄から、剣を出して、握ってみる。
いつもと同じ、安物のバスタードソードだ。
重さも、握り心地も、何も変わらない。
みぞおちの奥が、少し、熱くなる。
「よし」
誰にも聞こえないくらいの声で、自分に言った。
とりあえず、今日から。
ほんの少しずつでも、変えてみる。
ブックマークしてくれると嬉しいです。




