第9話 歪んだ執着
どうして、まだ。
この人に、心が揺れるの。
否定できない自分が、何より悔しかった。
「……顔、してるな」
ぽつりと、彼が言った。
「……何よ」
「まだ俺のことが頭から離れてないって顔」
「――っ!」
胸を抉られたみたいに、息が止まる。
違う。
違う、違う、違う。
「ふざけないで……!」
強く言い返したのに、声はわずかに震えていた。
それを見逃す男じゃない。
レイヴェルは、ゆっくりと立ち上がり、こちらに近づいてきた。
視線が、まっすぐに私を捉える。
逃げようとしても、傷が邪魔をする。
後退りもできないまま、その目から逃げられない。
「図星か」
低く、静かな声。
「違う……!」
「じゃあ、なんでそんな顔してる」
言葉が、喉で詰まった。
何も言えない。
言葉にしたら、終わる気がした。
だから、黙るしかなかった。
沈黙が落ちる。
篝火の音だけが、静かにテントを満たしていた。
レイヴェルは、しばらく私を見ていた。
いつもの冷たい目のはずなのに。
どこか、わずかに――揺れている。
「……ほんと、面倒くせえな」
吐き捨てるような声。
視線を逸らしながら、低く呟く。
なのに。
次の瞬間。
「それでも、お前しかいらねえ」
――え?
思考が、一瞬止まった。
今、なんて言った?
聞き間違い?
いや、違う。
確かに。
確かに今――
「……なに、それ」
かろうじて、声を絞り出す。
「意味、わかんない……」
レイヴェルはこちらを見なかった。
珍しく、視線をどこか別のところに向けたまま、わずかに眉を寄せる。
「分からなくていい」
短く、切り捨てるように言う。
「分かる必要もねえ」
「……ふざけないで」
怒りが、じわじわと込み上げる。
「全部壊しておいて、何それ……今さら、そんなこと言われて――」
言葉が、途切れた。
視界が滲む。
悔しくて。
惨めで。
それでも。
――ほんの少しだけ、救われた気がした自分がいて。
それが、何より許せなかった。
「……ほんとに、最低」
掠れた声で呟く。
「知ってる」
即答だった。
「最低で、クズで」
「否定しない」
「……だったら」
震える声で、顔を上げる。
「どうして、そんな顔するのよ」
レイヴェルの動きが、止まった。
ほんの、わずかに。
初めて見た。
言葉に詰まった、この男の顔。
いつも余裕で、いつも飄々として、何を言っても動じないくせに。
今だけは。
どこに視線を向ければいいか、分からないみたいに。
「……気のせいだ」
そう言って、そっぽを向く。
逃げた。
この男が、逃げた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
おかしくて、悔しくて、泣きたくて。
全部ごちゃまぜで。
「何それ……ほんとに、何なの……」
声が、情けなく震えた。
敵で。裏切り者で。私のすべてを壊した男なのに。
どうして。
どうして今さら、そんな顔をするの。
「……離れなさい」
ぽつりと呟いた。
レイヴェルはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……やだ」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
今、この男は。
「やだ」って、言った?
「お前が倒れたら、また手当が面倒だ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
そっぽを向いたまま、答える。
耳の先が、わずかに赤かった。
――見えてるわよ。
胸の奥で、何かが静かに溶けた。
憎しみじゃない。
怒りでもない。
ずっと凍りついていた何かが、ゆっくりと、少しだけ、端の方から溶け始めるような。
「……最低ね」
「知ってる」
「クズだわ」
「知ってる」
「……でも」
声が、自分でも気づかないうちに、柔らかくなっていた。
「その顔、もう一回したら」
「……あ?」
「許してあげてもいいかもしれない」
レイヴェルが、ぴたりと固まった。
三秒。
「……何言ってんだお前」
「さあ、何でしょう」
「熱でもあんのか」
「ないわ」
「……」
また、沈黙。
篝火が、ぱちりと音を立てた。
「……面倒くせえ」
ぼそりと呟いた声は、でも。
どこか、さっきより柔らかかった。
やっぱり、最低だわ。
でも。
胸の奥の、小さな灯りが。
消えなかった。




