第6話 全部嘘だった
意識が戻った瞬間、体が動いていた。
思考より先に、本能が叫んでいた。
――逃げろ。戦え。
「っ……離して……!」
掴みかかる相手もいないのに、腕が空を切る。
飛び起きようとして、脇腹に激痛が走った。
それでも止まらなかった。
シーツを引き剥がし、足を床に叩きつける。
立てなかった。
膝が崩れ、簡易寝台の端を掴んでかろうじて体を支えた。
息が荒い。全身が燃えるように痛い。
それでも、目だけは鋭く、部屋の隅を睨みつけた。
「……起きたのか」
声が、すぐ近くから落ちてきた。
テントの入口に近い場所。
粗末な椅子に腰かけ、地図を広げている男。
戦場の汚れをそのまま残した装いで、こちらを一瞥もせずに何かを書き込んでいた。
その横顔を見た瞬間、胸の奥から何かが噴き上がる。
「……っ!」
手元にあったものを掴んだ。
水の入った椀だった。
構わず投げつける。
レイヴェルは、わずかに顔を傾けてそれを避けた。
椀が布の壁に当たり、鈍い音を立てて落ちる。
「……起き抜けに物を投げるな」
「うるさい」
「傷が開く」
「どうでもいい」
「俺は開いてほしくない」
淡々とした声。
その余裕が、腹の底から許せなかった。
「……なぜ生かした」
声は、自分でも驚くほど低かった。
「なぜ殺さなかったの。なぜ手当なんてした。なぜ私を――」
「一度に喋るな。傷に響く」
「答えなさいよ!」
テントの空気が、ぴり、と張り詰めた。
レイヴェルがようやく顔を上げる。
その視線は、まるで値踏みするようで。
それでいて、どこか読み取れないものが混じっていた。
「うるさいな」
「うるさくて結構」
喉の奥が震える。
それでも、言葉を止めなかった。
「あなたは私の何を奪ったか、分かっているの?」
怒りで。
憎しみで。
三年間、押し殺してきたものが、一気に溢れ出す。
「家族を失った。国を失った。信じる力を失った」
息が荒くなる。
視界が滲む。
それでも、目を逸らさなかった。
「全部、あなたのせいで」
沈黙。
彼は、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
その視線に、苛立ちが増す。
「……何か言いなさいよ」
掠れた声で、絞り出す。
「違うって、言えばいいでしょう」
「全部誤解だって」
「私を利用なんてしてないって」
――一度でいい。
否定してくれれば、それでいい。
そうすれば。
まだ、壊れずに済むのに。
けれど。
レイヴェルは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、こちらへ歩み寄る。
逃げようとした。
けれど、体が動かない。
距離が、詰まる。
影が落ちる。
目の前で、彼が足を止めた。
「……言わないな」
低い声。
その一言で、すべてが終わった。
期待していた自分が、馬鹿みたいだった。
「……っ」
視界が揺れる。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃにかき乱される。
それでも、涙は流さなかった。
もう、泣く資格すらない気がしたから。
「……最初から、全部?」
震える声で、問いかける。
レイヴェルは、少しだけ間を置いた。
その沈黙が、何より残酷だった。
「……ああ」
短く、肯定された。
その瞬間。
何かが、完全に壊れた。
音もなく。
跡形もなく。
「……そう」
驚くほど、静かな声が出た。
自分でも、何も感じていないみたいだった。
怒りも、悲しみも。
全部、どこかへ消えてしまった。
残ったのは、ただ一つ。
――終わらせなきゃ。
ゆっくりと、指に力を込める。
震える腕を、無理やり持ち上げる。
「……じゃあ、今ここで終わらせる」
掠れた声で言い切った。
「あなたを、殺して」
空気が、凍る。
それでも私は、目を逸らさなかった。
三年間、信じ続けた恋を。
この手で、終わらせるために。
――ようやく、終われると思った。
けれど。
彼は、ほんのわずかに笑った。




