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第3話 名前しか知らない男に、すべてを奪われた


パーティの翌日から、世界は変わった。

毎日のように手紙が届くようになったのだ。


差出人の名前は、

――レイ。


家名も、肩書きも書かれていない。

けれど私は、その文字を見るだけで胸が熱くなった。


「君のことを考えていた」

「君の瞳は夜の湖みたいだ」

「君がいないと、時間が遅く感じる」


赤い薔薇と共に届けられる甘い言葉は、少しずつ、確実に私の心を溶かしていった。

封を切るたび、鼓動が速くなる。


侍女のマリアは露骨に眉を顰めていた。

「お嬢様、差出人も分からない手紙なんて怪しすぎます」

「……そうかしら」

「そうです。絶対にそうです」


だが、私は彼を疑う気持ちなど、一ミリも持っていなかった。


彼の言葉は不思議なほど真っ直ぐで、すべてが疑いようのない真実のように感じられた。


初めて彼と二人で街へ出た日のことを、今でも鮮明に覚えている。


護衛も、侍女も置いて。

ただの男女として歩いた。

市場の喧騒の中、彼は迷いなく私の手を引いて人混みを抜けていく。


「どこへ?」

「いいから来て」

そう言って笑う横顔が、眩しかった。


連れていかれたのは、王都外れの小さな花屋だった。

ひっそりと咲く花々の中で、彼は迷いなく白い薔薇を手に取った。


「ここの薔薇が一番きれいだ」

「……なぜ知っているの?」

「昔、一人でよく来てた」


それだけ言って、彼は肩を竦める。


私は深く考えなかった。

ただ、そんな場所を知っている彼が愛しかった。


「君に似てる」

白い薔薇を私の髪に添えながら、彼は言った。


「強くて、凛としてて……それでいて、ひどく繊細だ」


誰にも言われたことがなかった。


強い、と言われることはあった。

優秀だとも。


だが、その奥を見ようとした人は、一人もいなかった。


この人だけが、見えている。


そう思った。


王女イレーネではなく、“私”として彼の隣を歩く時間が、どうしようもなく幸せだった。


手紙は、それからも続いた。


「今日、ずっと君のことを考えていた。困ったものだ」


そんな一文だけで、胸が高鳴り眠れなくなる夜もあった。


疑わなかった。

疑う理由がなかった。


彼は私の話を聞いてくれたからだ。


ある夜、宮殿の庭で並んで座りながら、私は初めて口にした。


幼い頃から剣を握ってきた理由を。

女として扱われたことが一度もない話を。

強くあり続けなければ、存在を許されない気がしていた話を。


ずっと、誰にも言えなかったことを。


彼は何も言わず、ただ黙って聞いていた。



長い沈黙のあと。


「……よく頑張ったな」


静かに、そう言った。

慰めでもない。

励ましでもない。


ただ、それだけ。


なのに。


目の奥が熱くなった。

誰かに「頑張った」と言ってもらえたのが、生まれて初めてだった気がしたのだ。


この人に認められたかった。

この人にだけ、必要とされたかった。


だから私は、彼が何者なのか深く問わなかった。


問う必要を、感じなかった。


気づけば、三ヶ月が過ぎていた。

その日も私は、市場で彼を待っていた。


約束の時間を少し過ぎても、彼は来なかった。


胸の奥に、小さな不安が滲む。


その時だった。


「お嬢様、大変です!」


後ろから、侍女のマリアが血相を変えて駆けてきた。


「何があったの」

「アルセリオ王国が……東部国境に兵を集めているそうです」

胸の奥が、すっと冷えた。


「それと……お嬢様がお会いになっていた方のことで、旦那様がお調べになって……」


嫌な予感がした。


「……何を調べたの」


マリアは一瞬躊躇い、それでも震える声で言った。


「その方は……アルセリオ王国の第一王子殿下だそうです」


世界が、止まった。


王子。


彼は笑いながら言っていた。

商人みたいなものだ、と。

複雑なんだよ、って。


頭の中で、三ヶ月分の記憶が音を立てて崩れていく。


あの手紙。

あの白い薔薇。

優しかった声。


触れた指先。

私が何気なく話した、東部の守りが手薄だという話。


彼が興味深そうに聞いていた、あの顔。


全部が、一瞬で意味を変えていく。


「……っ」


膝から力が抜けた。

崩れ落ちそうになる私を、マリアが慌てて支える。


「お嬢様!」


違う。


そんなはずない。


だって彼は、あんな顔で笑っていた。


あんな風に、私を見つめていた。


あれが全部嘘だったなんて。

信じたくなかった。


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