第14話 その涙は、俺のものだ
草を踏む音がした。
咄嗟に袖で顔を拭ったが、間に合わなかった。
「……いましたか」
セインの声だ。
「テントから出ないでくださいと、申し上げたはずですが」
冷たい声だった。責めているわけではない。ただ、事実を並べるような言い方。
「さあ、早く戻ってください。焦りましたよ」
焦った、という言葉と、その平坦な声が、どこか噛み合っていない。
セインが一歩、近づいてくる。
――いや、来ないで。今、来られたら……。
そのとき、彼の足が止まった。
「……泣いていたんですか」
「……違う」
喉が痛い。顔を見られないように、俯く。
「目が赤い」
「夜風のせいよ」
セインはしばらく、私の顔を見ていた。
何かを考えるような、わずかな間。
篝火の遠い光が、彼の横顔を照らしている。
ふいに、空気が変わった気がした。
それまでの事務的な気配が、ほんのわずかに揺らぐ。
「……可愛い顔をしますね」
低く、独り言のように呟いた。
「え?」
「いえ」
セインの手が、ゆっくりと持ち上がる。
私の頬へと、伸びてくる。
何――?
身体が、固まった。
その手が触れる、直前。
「セイン」
低く、冷えた声が、空気を裂いた。
振り返る。
レイヴェルが立っていた。
宴の余熱を残した頬。
けれどその目は、冷たいまま。
まっすぐに、セインの手を見ている。
「……殿下」
セインが手を下ろす。
「彼女がテントを抜け出したようで、連れ戻そうとしていました。私がお送りします」
「俺が行く」
「ですが――」
「俺が行く」
それ以上の言葉を許さない声。
セインは、静かに一歩引いた。
レイヴェルが、こちらへ歩いてくる。
目が、合った。
その視線が、私の赤い目を捉える。
一瞬だけ、揺れた気がした。
けれど、すぐに消える。
何も言わず、彼は屈んだ。
「っ……何を」
「うるさい」
腕が回る。
背中と、膝の裏。
次の瞬間、身体が浮いた。
「降ろして」
「嫌だ」
「自分で歩ける」
「知ってる」
低く返される声。
けれど、腕の力は緩まない。
むしろ――少し、強くなった気がした。
そのまま、歩き出す。
宴の喧騒から、遠ざかっていく。
顔が、近い。
さっきまで笑っていたはずの横顔は、今は何も映していない。
「……宴はいいの」
「よくない」
「じゃあ、なぜ」
答えなかった。
テントに入ると、そっと寝台に下ろされた。
それでも、すぐには離れない。
近いまま、見下ろされる。
「泣いたのか」
「……夜風よ」
「そうか」
信じていない声。
けれど、それ以上は踏み込まない。
代わりに、ふいに手が伸びた。
指先が、頬に触れる。
さっき、セインが触れようとした場所。
びくりと身体が震える。
「……泣くな」
低く、押さえた声。
「別に……」
「俺の前でだけでいい」
「……え」
一瞬、息が止まる。
「他の奴の前で、そんな顔するな」
視線が、逸らされる。
「……見せたくない」
その一言が、やけに静かに落ちた。
胸が、苦しくなる。
「あなたはさっきまで、遊女と――」
言いかけて、止まる。
レイヴェルが、じっとこちらを見ていた。
「……見てたのか」
「……たまたま」
沈黙。
彼は小さく息を吐く。
「酒を飲まされただけだ。お前が心配することは何もない」
短く言って、視線を外す。
そして――腕が、引き寄せた。
「っ……何してるの」
「来い」
抗う隙もなく、抱き寄せられる。
心臓の音が、近い。
規則正しく、強く、鳴っている。
それを聞いているうちに。
さっきまでの涙が、嘘みたいに遠くなっていく。
「……離して」
「嫌だ」
即答だった。
腕の力が、ほんの少しだけ強くなる。
「もう少し、このまま」
ぽつりと落ちた声。
それ以上は、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
宴の声は、まだ遠くで響いている。
けれど――今はもう、どうでもよかった。




