第60話 出発の日
「さて、食後のお茶を淹れるわね」
レーシェがキッチンへ向かった。
食後は紅茶派とコーヒー派に分かれている。
俺はもっぱらコーヒーなのだが、一つ試したいことがあった。
「テネヴァス、もう一つお願いがあるんだが」
「なあに?」
「コーヒーに圧力をかけて抽出する飲み方を聞いたことがあってな。エスプレッソと言うんだが、それを試してみたいんだ」
「いいよ。でもそれって美味しいの?」
「俺も初めてだからなんとも言えん。濃厚で苦いから、たくさん砂糖を入れるんだ。コーヒーと言うより、飲むデザートみたいなもんだな」
「デザート!? やるやる!」
砂糖が好きなテネヴァスは、もしかしたら気に入るかもしれない。
テネヴァスが重力場を作り、高圧でコーヒーを抽出してくれた。
いつものコーヒーより色も匂いも濃い。
小さなコーヒーカップに注いだエスプレッソに、これでもかというくらい砂糖を入れていく。
「甘さのあとに苦みが来るけど嫌じゃない。これはなんというか大人の味だね。美味しい」
テネヴァスは気に入ったようだ。
大人の味という発言が子供っぽいが、そもそもテネヴァスは十五億歳だ。
苦みも大したことはないだろう。
「確かに苦みと酸味が強いが、砂糖のおかげで角が取れたような旨さだ。コクと風味も最高だな」
エスプレッソを飲み干すと、残った砂糖が溶けて固まっていた。
それをスプーンですくい口にする。
「こりゃ完全にデザートだな。うん、旨い」
噂に聞いた通りの味だ。
最後の砂糖の塊は甘さと苦みが溶け合っており、シャリシャリとした歯ごたえが癖になる。
「ん?」
スプーンを口に運んでいると、レーシェの視線に気づいた。
羨ましそうに俺とテネヴァスを眺めている。
「テネヴァス様がいらっしゃると、エスプレッソまでできるのね」
「レーシェも飲むか?」
「いただいてもいいかしら。私、エスプレッソが好きで、よくカフェで飲んでいたの」
「カフェ!? かああ、さすが都会の女は違うな。お洒落すぎるぜ」
傭兵だった俺は、カフェになんて行ったことはない。
レーシェのそこはかとない上品な佇まいが理解できた。
都会の女は洒落ている。
突然レーシェが頬を膨らませた。
「もう! バカにしてるでしょ!」
「な、なんだよ。してねーって。なあシルヴァ」
俺は助けを求めるかのように、エスプレッソを楽しんでいるシルヴァを見つめた。
カップを置き、目線だけを俺に向けるシルヴァ。
「私のことバカにしてるでしょ? 三百年も森に住んでた田舎者って」
「ち、ちげーよ!」
二柱から睨まれてしまった。
「なんなんだよ。ったく、被害妄想強すぎるっつーの。なあ、アクアス」
「なに? どうせ私のことなんて、数十億年も湖にいた寂しい女だと思っているのでしょう?」
「ち、ちがっ!」
女たちが勝ち誇ったような顔を浮かべていた。
美しき三柱は、この世で最も強い女たちだ。
濡れ衣も甚だしいが、俺が敵うわけない。
***
数日が経過し、俺たちはいよいよ出発の日を迎えた。
グラキャス氷河で氷を採掘し、マレム海峡で魚を獲る。
目的がただの食材確保で、何か大きな使命があるわけでもない。
気軽に行けるはずなのだが、テラムの顔色は蒼白だ。
「テ、テネヴァス。くれぐれも姉様の睡眠を邪魔するでないぞ」
「久しぶりにグラキャスお姉ちゃんに会えるのかあ。楽しみだなあ」
テラムのことを完全に無視しているテネヴァス。
この様子を見るに、グラキャスを起こす気満々のようだ。
しかし、起こして大丈夫なのだろうか。
「アレファス、気をつけていってらっしゃい」
レーシェがエプロン姿で庭に姿を見せた。
「レーシェ、本当に行かなくていいのか?」
「ええ、この地を留守にしたくないもの」
今回の遠征にレーシェは同行しない。
以前、俺たちがセディルナ村から離れたことで、襲撃され壊滅してしまった。
レーシェはその襲撃を指揮する将軍だったが、今は心から懺悔している。
もうこの地を襲う者などいないと思うのだが、レーシェはここを守ると言ってくれた。
「僕も残りますので、ご安心ください」
「ありがとう。フェルムがいてくれたら、より安心だよ」
フェルムも残るという。
フェルムの欲望はテラムの食とは違い、温泉とサウナに向けられている。
なるべくこの地を離れたくないのだろう。
「今回は私も残るわね」
「え? アクアスは行かないのか?」
「ええ、新しいチーズを作り始めたの。熟成には湿度の管理がとても重要なのよ。トリュフも作りたいしね」
アクアスのおかげで、この地で良質なチーズを作ることができる。
水を司るアクアスの存在は、チーズ作りになくてはならない。
「そうか。だけどその……アクアスがいなくて、グラキャスさんは平気なのか?」
テラムが恐れるグラキャスだ。
グラキャスは、過去世界を三回も凍らせているという。
もし暴走したら止められる者は、姉であるアクアスしかいないだろう。
「大丈夫よ。グラキャスちゃんはとても優しい子よ。テラムちゃんの躾にだけ厳しかったのよ。あと、ちょっとだけ寝起きが悪いだけだから。うふふ」
「そ、それなら大丈夫か」
アクアスがテラムの肩に手を乗せた。
「もしグラキャスちゃんが起きたらよろしくね。また会いに行くって伝えてね」
「あ、姉上。自分で言えばいいではないか。その……」
「もう、いつまでもお姉ちゃんを頼らないの。男の子でしょ?」
「うぅ……。わ、分かったのだ……」
この時ばかりは、テラムが小さな弟に見えた。
なんだかんだ言って、テラムは弟属性だ。
「トリュフを作り始めるし、他のキノコも育てて待ってるから。ね?」
「本当か! よし! すぐ行ってすぐ帰ってくるぞ!」
「もう、現金ねえ」
結局、今回の遠征は俺、テラム、シルヴァ、テネヴァスで向かうことになった。
テラムが魔竜の姿に戻る。
「じゃあ、アクアス。後のことはよろしくな」
「ええ、気をつけていってらっしゃい。お魚期待してるわよ。うふふ」
「ああ、たくさん獲ってくるぜ。ははは」
「あ、アレファスちゃん。大丈夫だと思うけど念のために。グラキャスちゃんとケンカしちゃダメよ?」
「ケンカ?」
「魔竜の権能はみんな凄いけど、グラキャスちゃんは特別凄いからね。気をつけなさい」
「す、するわけねーだろ!」
「うふふ、そうよね。」
俺とシルヴァとテネヴァスが移動用の小屋に入ると、テラムがゆっくりと持ち上げた。
そして、上空へ羽ばたく。
向かうは北西、極寒の地グラキャス氷河だ。




