5話《共に生きること》
あれから二ヶ月。
俺は、夜の警備の仕事を辞めていた。
日雇いの仕事を終えた俺は、ネカフェに入る時間を少しでも遅らせるため、公園のベンチに腰を下ろしていた。
ポケットの中には、小銭と、ナツのフォーク。
空を見上げると、街の明かりに濁った雲が、低く垂れ込めている。
その曇り空を見た瞬間、ふいに、思い出してしまった。
――ナツ。
給食のパンを、いつもランドセルの奥に隠して持ち帰ってきた妹。
「お兄ちゃん、お腹すいてるでしょ」
そう言って差し出す、小さな手。
ちゃんと学校で食べろと、何度叱ってもナツは笑って誤魔化した。
そして、重なるようにテーブルにコーヒーを置いてくれたユカの姿が浮かぶ。
ベンチに座ったまま、俺は、拳を握りしめた。
――どこに行ったって……同じだ。
立ち上がろうとした、その時だった。
視界の端に、見覚えのある背中が映った。
――あの男だ。
その後ろを、ふらつくように歩く、ユカがいた。
一瞬、息が止まった。
痩せ細った体。
伏せられた視線。
そして、足首に残る、不自然な痣。
ナツと、同じだった。
気づけば、俺の足は、前に出ていた。
「……あの」
声をかけた瞬間、男が振り返り、にやりと笑った。
「お、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
馴れ馴れしい声。
ユカの肩を乱暴に引き寄せながら、
男は続ける。
「この女、もうダメだ。仕事も出来ねぇ、借金も減らねぇ。なぁ?」
ユカは、何も言わず、俯いたままだった。
俺は、視線を外せなかった。
足首の痣が、夕暮れの光に照らされ、黒ずんで見える。
「……足、怪我してませんか」
男は、鼻で笑った。
「あぁ?これか。借金もあるのに、仕事辞めたいとか言い出してな。しつけだよ、しつけ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷えた。
「……もう、自由にさせてあげてください」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
男の笑顔が、消える。
「はぁ?だったら、お前がまた払えよ。あん時ぃ、三百万だったのがぁ……あっ、今は五百万だ。可哀想だろ?」
俺は、言葉を失った。
その時、ユカが、かすれた声で囁いた。
「……助けて……お願い……助けて……」
――助けて、お兄ちゃん……
ナツの面影が、ユカに重なった。
次の瞬間、男が女の髪を掴み、乱暴に引き上げた。
「何言ってんだ、お前!」
――考える前に、体が動いていた。
俺は、男にタックルをかまし、地面に押し倒した。
「逃げろ!早く!」
叫び声が、空に響いた。
「なんだ、オマエー!」
男の拳が容赦なく、下から俺の顔に降り注いだ。
肘が、拳が、何度も、何度も叩きつけられる。
それでも、俺は、離れなかった。
雨が、降り出した。
激しい夕立が、アスファルトを叩きつける。
視界が、滲む。
その瞬間だった。
――父だ。
倒れている男の顔が、父の顔に重なった。
怒鳴り声。
酒の匂い。
振り下ろされる拳。
夜中にナツを外へ行かせた、あの背中。
気づけば、俺は無心で殴り続けていた。
殴らなければ、また奪われる。
殴らなければ、また守れない。
ポケットから、ナツのフォークを取り出した。
それを、男の肩に突き刺す。
何度も。
何度も。
「よくも、ナツを――!」
雨と血が混ざり、歩道を流れていく。
遠くで、サイレンが鳴った。
駆けつけた警官に、地面へ押さえつけられた時、俺は、抵抗しなかった。
視線の先で、男が逃げようとしてふらつき、別の警官に取り押さえられる。
救急車の赤色灯が、雨に滲んで、揺れていた。
ユカは、もう、その場にいなかった。
俺は、空を見上げた。
ナツを、守れなかった。
でも、今度は――
逃げなかった。
その事実だけが、胸に残っていた。
留置場から拘置所、そして刑務所へ。
俺の刑は、重くはなかった。
男は反社会的勢力で、複数の余罪があり、路上での暴行、恐喝、監禁の疑いまで浮上したことで、事件は単純な「傷害」では終わらなかった。
男は、俺に殴られた被害者としてではなく、別件を含めた「被疑者」として再逮捕されたらしい。
詳しいことは、俺には知らされなかったし、知ろうとも思わなかった。
時間は、鉄格子の向こうでも、外と同じ速さで流れていく。
朝は決まった音で始まり、夜は、決まった暗さで終わった。
俺が刑務所に入って、二ヶ月が過ぎた頃。
最初の面会に、ユカが来た。
痩せていた。
けれど、あの夜、街で見たような、壊れきった目はしていなかった。
アクリル板越しに、ユカは何度も、何度も頭を下げた。
「ユウタ……ごめんね。ユウタ……ありがとう」
声は、震えていた。
ユカは、あれから逃げたのだという。
あの日、俺が叫んだ「逃げろ」という声に、背中を押され、
二度と振り返らずに雨の街を走った。
男は捕まった。
逃げ切れたのは、たまたま運が良かっただけかもしれない。
それでも、ユカは“あの世界”から抜け出した。
面会の許可は月に一度。
ユカは、一度も欠かさなかった。
俺は、自分がユカを救ったとは思っていなかった。
ただ、ナツを守れなかった自分が、同じ目をした誰かを見過ごせなかっただけだ。
ある日、ユカは静かに言った。
「……お母さん、亡くなった」
淡々とした声だった。
悲しみきった人間の声は、逆に感情が削ぎ落とされている。
「ひどいことも、たくさんされたけど……それでも、たった一人の母親だった」
俺は、何も言えなかった。
理解は、できなかった。
それでも、否定する資格はないと思った。
短い刑期を終え、俺が外に出た日。
ユカは、門の前に立っていた。
東京の空は、相変わらず低く、重かった。
「……これから、どうする?」
ユカは、少し考えてから答えた。
「ここから、離れたい……誰も、私たちを知らない場所へ」
俺は、黙って頷いた。
東京は、二人にとって出会いの街であり、同時に、暴力と絶望を刻みつけた場所だった。
この街で、“普通”を築くには、あまりにも傷が深すぎた。
結婚は静かに決めた。
派手な指輪も、祝福もなかった。
ただ――
一緒に、生きる。
それだけを選んだ。
ふたりは東京を離れた。
名前も、過去も、事情も、誰も知らない土地へ。
そこが、終着地だとは思っていない。
けれど、少なくとも――
殴られない夜と、怯えずに眠れる朝がある場所だ。
俺は空を見上げながら思う。
――救われたのは、ユカだけじゃない。
俺もユカに救われている……。
これは幸福な人生ではない。
だが、絶望だけで終わる人生でもない。
傷を抱えたまま、それでも生きることを選んだ、ふたりの人生だ。




