4話《返せば自由》
ネカフェで、ユカと顔を合わす頻度は減っていた。
ユカは借金返済のため、シフトを増やしていた。
ある夜、ユカはテーブルに突っ伏していた。
俺は無料のコーヒーを二つ淹れ、ユカの前に置いた。
「ユカ……最近、無理しすぎじゃないのか?」
「……んー?」
ユカは顔を上げず、かすかに笑った。
「大丈夫。小さな部屋で、ユウタと普通に暮らして、普通にご飯食べて……それだけだから」
その言葉が、胸に刺さった。
「なんで俺なんだよ……。俺なんか、底辺の中の底辺で……。
よく分からないけど、ユカの客に、いい人いないのかよ。金持ちとか……」
次の瞬間、ユカはテーブルをドンと叩いて立ち上がった。
乾いた音が、店内に響く。
周囲の視線が、一斉にこちらへ集まった。
ユカは俯いたまま、何も言わなかった。
そのまま、足早に自分の個室へ戻っていった。
残されたコーヒーが、少し揺れていた。
それから、ユカがネカフェに戻る日は、まちまちになった。
目が合えば、あの日、何もなかったように笑いかけてくる。
ただ……
ユカは、目に見えてやつれていった。
頬はこけ、目の奥の光が、少しずつ失われていく。
それは、ナツが「学校に行きたくない」と言った、あの日の目と、重なった。
俺は、ポケットに忍ばせてあるナツのフォークを、ぎゅっと握りしめた。
休日、俺はユカの出勤を、気づかれないように後ろから追った。
人混みの中、距離を保ち、同じ信号を渡らないように気をつけた。
ユカは、古い雑居ビルの一室へ入っていった。
看板は色褪せ、階段にはタバコの吸い殻が散らばっている。
俺は、何をするでもなく、ただそのドアを、少し離れた場所から眺めていた。
逃げる理由も、踏み込む勇気も、どちらもなかった。
やがて、そのドアが開き、ひとりの男が出てきた。
金のネックレス。
短く刈り込まれた髪。
目つきで分かる。
反社。
一目で分かる風貌だった。
立ち尽くす俺と、男の目が合った。
すぐに立ち去ればよかった。
でも、足が言うことを聞かなかった。
「なんだ兄ちゃん。何見てんの。客か?」
「あ……いえ……あの……ユカ……」
「あ? ご指名か?あー、アイツ今日、予約でいっぱいだ」
男は、値踏みするように俺を見た。
「あ、あの……彼女の借金って、あとどのくらいあるんですか?」
男の眉が、ぴくりと動いた。
「おぉ、なんだ兄ちゃん。アイツの男か?確か……んー、三百、だな」
「――三百万?」
喉が、音を立てて鳴った。
「兄ちゃん、払ってくれる?ダメなら、アイツを諦めろ。――なんでアイツなんだよぉ。他にも女なんて、いくらでも居るだろうに」
その言葉で、胸の奥が、はっきりと痛んだ。
――ああ。
あの時、ユカが怒った理由が、分かった気がした。
「あの……僕も返済、手伝います。返し終われば……ユカは、辞められるんですよね?」
男は、顎に指を当て、少し考える素振りをした。
「ほう……」
そして、笑った。
「そうだな。じゃあ兄ちゃん、手伝ってやってくれよ」
男は、軽く俺の肩を叩いた。
それから、二週に一度、三万円。
月に六万円。
そんな返済の約束を、当然のように決められた。
ナツへの贖罪の気持ちが、少しだけ和らぐかもしれない。
確信なんて、なかった。
ただ、何か行動を起こすことで、ユカとの“おままごとみたいな未来”が、現実になる気がしていた。
俺は働いた。
昼は解体の現場、夜は警備。
一日置きに寝るような生活。
身体が、確実に悲鳴をあげていた。
腕は常に重く、足は感覚が鈍くなっていた。
シャワーを浴びながら、どこが痛いのかも分からなくなっていた。
ある日、個室にも辿り着けず、テーブルに突っ伏してうたた寝している俺の前に、コーヒーが置かれた。
「ユウタ、最近、無理してない?大丈夫?」
ユカだった。
俺は、返済のことをユカには話していなかった。
話してしまえば、遠慮したユカが、いなくなってしまう気がしたからだ。
あの男にも、ユカには言わないよう、念を押してある。
「あぁ……大丈夫だよ。ユカも最近、痩せたよな。無理しすぎんなよ」
「そんな顔で、ユウタが言うな」
ふたりは、力なく笑った。
コーヒーを飲み終えると、互いに重い足取りで、それぞれの個室へ戻った。
背中が、少しだけ遠ざかる。
俺は、クタクタになりながら金を集め、男に渡し続けた。
最初のうちは、感謝された。
「助かるよ」
そう言って、軽く肩を叩かれた。
ある日の返済日。
その日は、男にファミレスへ呼ばれた。
「すまんな。今日、まだ飯食ってなくてよ。兄ちゃん、なんか飲むか?」
「はい……じゃあ、コーヒーで」
注文を終えると、男は、少し神妙な顔で口を開いた。
「兄ちゃんさ。もうちょっと返済、増やせれば、ユカを早く辞めさせられるんだけどなぁ……」
俺は、黙って聞いていた。
「アイツの母親、病気みたいなんだわ。このままじゃ、親の死に目にも会えねーな」
ユカは、母親から虐待を受けていたと聞いている。
俺も、そうだった。
父が生きていようが死んでいようが、俺の中には、もう何の感情もなかった。
正直に言えば、ユカの母親のことなど、どうでもよかった。
それよりも――
ユカを、早く解放すること。
俺は、頭の中で、静かに計算を始めていた。
「……毎回、もう一万ずつなら、なんとか増やせそうです」
「そうか。兄ちゃん、男だな」
男は、にやりと笑った。
「お前も、なんか食えよ。俺の奢りだ」
「……ありがとうございます」
俺は、ハンバーグ定食を頼んだ。
味覚なんて、とっくに置いてきたつもりだった。
それでも――
ナツを思い出すと、このハンバーグが少しだけ美味しい気がした。
そんな生活が、三ヶ月ほど続いた頃。
ある日、男は、何でもない調子で言った。
「兄ちゃんさ。実は……これ、金利にもなってねぇぞ」
「――え?」
耳が、理解を拒んだ。
元金は、減っていなかった。
それどころか、増えていた。
ユカは、追加で金を借りていた。
理由は、田舎にいる母親。
虐待してきた母親。
それでも、たった一人の母親だと。
その、入院費らしい。
俺には、理解できなかった。
――もう、無理だ……
気づいた時には、俺は走り出していた。
「おい!兄ちゃん!今日の返済分――」
雑踏の中で、男の声は、すぐにかき消された。
俺は、ユカと距離を置いた。
寝床も、変えた。
それが、精一杯の自己防衛だった。
それでも、心は離れなかった。
ナツと、同じだ。
守りたかった。
でも、どうしていいのか、分からなかった。
東京の夜は、相変わらず冷たい。
それでも――
あの田舎よりは、マシだった。
そう、思い込もうとしていた。




