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不毛に咲くハルジオン  作者: ユノ・サカリス


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3話《東京》

数年後。

俺は、まだ東京にいた。


都会は、想像していたより冷たかった。

人は多いのに、誰もこちらを見ていない。

全員が他人。

東京に来たばかりの頃は、正直、田舎の孤独よりも、それがきつかった。


俺はネットカフェを転々としながら、日雇いの仕事で食いつないでいた。

運よく、解体現場の親方に気に入られ、ほぼ毎日仕事には呼んでもらえた。

日当から引かれる弁当。

たまに買うカップ麺。

それでも、田舎にいた頃よりは、息ができた。


季節がいくつも過ぎた。

夏も冬も、特別な記憶は残っていない。

ただ、汗をかいて働き、寒さに耐え、気づけばまた次の現場に向かっていた。

何年経ったのかも、正確には分からなくなっていた。


父はいない。

怒鳴り声もない。

でも――

ナツはいない。

それが、一番きつかった。


夜、狭い個室で天井を見つめる。


「ナツ……そろそろ中学生かな。いや、まだ五年生か……?ナツ……今、どうしている?」


俺は、ナツのフォークを握り、指で撫でていた。

時の経過など考えもせず、それは曖昧になり、ただ惰性のように毎日を過ごしていた。

それでも、ナツのことを考えない日はなかった。


ある週末の夜、俺は眠れなかった。

不眠症なのか、もともと寝つきが悪く、疲れだけが身体に溜まりきっていた。

ただ、翌日は現場が休みだったから、眠れないことへの苛立ちはなかった。


午前三時。

俺は無料のコーヒーを淹れ、一人テーブルに着いた。


よく見る顔の連中が、こんな真夜中にも、漫画を読んだり、コンビニの弁当を温めたりしている。

互いを認識はしているが、挨拶も、言葉を交わしたことも一度もない。


それを今は寂しいとは思わなかった。

むしろ、田舎の閉鎖的な空気より、かなり居心地が良くなっていた。


他人に干渉しない。

俺の身の上を知られる必要もない。

あいつらの身の上を知る必要もない。

互いに知ったところで、互いに何もできない。


だから、ちょうどよかった。


そんな中、俺は、ある女と出会った。


出会った場所は、真夜中のネットカフェだった。

ふたつ隣の席で、彼女はずっと同じ姿勢のまま、スマホを見ていた。


俺より、少し年上に見えた。

派手でも、地味でもない。

ただ、目の奥が、妙に疲れていた。


特に興味もなく、俺は、淹れたコーヒーの表面に映る自分の顔を見ていた。


「あの……充電器、貸してもらえますか?」


それが、最初の言葉だった。


だが、俺は自分に話しかけられているとは思わず、そのまま、コーヒーを見つめていた。


「あの……すみません。充電器、貸してもらえませんか?多分、同じ機種なんで……」


気づくと、彼女は俺の横に立っていた。


「え……俺?」


「あ……はい……」


俺は自分の個室に戻り、充電器を持ってきて渡した。


「ありがとう。少し借ります」


その時は、互いに名乗らなかった。

それで、十分だった。


ただ、何度か顔を合わせるうちに、

少しずつ話すようになった。


仕事のこと。

寝る場所のこと。

生き延びる方法。

そして、互いの過去のこと。


いつからか、名前で呼び合うようになっていた。


彼女の名前は、ユカ。


ユカは、風俗で働いていると言った。

驚きは、なかった。

東京では、それもただの生活手段だった。


ユカも、田舎から逃げてきた人間だった。

家庭環境が複雑だという点で、俺たちは、よく似ていた。


ふたりでいる時間が、いつの間にか増えていた。


真夜中のネットカフェ。

終電が終わった後の、妙に静かな時間帯。

俺とユカは、決まった席に座り、コンビニで買った安い弁当を分け合って食べた。


唐揚げは半分。

ご飯も半分。

それに、チョコレートも半分。

味なんて、正直よく分からなかった。


それでも、不思議と腹は満たされた。


「……ねえ」


ユカは、弁当の蓋を閉じながら、よくそう切り出した。


「普通の生活って、どんなだと思う?」


俺は、すぐに答えられなかった。

考えたことは、何度もあった。

でも、言葉にできなかった。


知らなかったからだ。


普通の生活を。

俺は、最初から持っていなかった。


ナツと暮らしていた家。

怒鳴り声。

酒の匂い。

ナツとふたりで三百円以下の夕食。


あれが、俺の“日常”だった。


だから俺は、黙ったまま、ユカの空になった弁当箱を見ていた。


それでも、ふたりで想像することはできた。


ユカがて天井を見上げて話す。


「小さな部屋。最低限のものだけあればいいよね」

 

「そうだな……あと鍵のかかるドア」


「え?鍵なんて当たり前でしょ!」


「あー俺の家、田舎だったから、鍵が壊れててもそのままだった」


「えーそうなの?あぶなー」


ユカの笑顔にふとナツが重なる。


俺は想像した。

朝起きて、同じテーブルで飯を食う。

テレビをつけっぱなしにしても、怒鳴られることはない。

遅く帰っても、理由を聞かれない。


それだけのこと。


ナツと公園で話した未来と、どこか似ていた。


「ハンバーグ作ろうな」

「靴も、服も、机も買おう」


――買おうな、ナツのお茶碗も、お箸も……


あの時のナツの笑顔が、ふいに、胸の奥で疼いた。

今、俺がしているのは、あの時と同じことなんじゃないか。

守れなかった未来を、別の形でなぞっているだけなんじゃないか。


まるで――

おままごとだった。


でも、未来を想像することは楽しかった。


何も約束していないのに、何かを持っている気がした。


そんなある日、ユカが、いつもより真剣な顔で言った。


「この仕事、やめようと思う」


言葉の意味を、俺はすぐに理解した。


風俗。

ユカが、生き延びるために選んだ仕事。


「……なんで」


そう聞くと、ユカは、少しだけ笑った。


「ユウタのため」


その一言で、胸の奥が、冷たくなった。


俺は、首を振った。


「やめろよ。俺のために何かするなんて、そんな資格、俺にはない」


止めた。

必死だった。


ナツの時と、同じだった。


俺のために我慢する誰か。

俺のために、傷つく誰か。


もう、見たくなかった。


でも、ユカは決めていた。


「いいの。私が決めたことだから」


問題は、借金だった。


ユカは、店の人間から金を借りていた。

生活費。

実家への仕送り。

逃げるための、逃げられない金。


相手は、反社だった。


俺は、その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が、ひくりと鳴った。


「返せば、終わるから」


ユカは、そう言った。


軽い調子だった。

まるで、明日の天気を話すみたいに。


俺は、その言葉を信じたかった。


でもそれは、一切れのチョコで、夜を越えられると思っていた頃と、何も変わっていない。


調子の良い期待や妄想など、すぐに叩き潰されるのだから。

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