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不毛に咲くハルジオン  作者: ユノ・サカリス


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2話《守れなかった日》

ある日、ナツは学校を休むと言い出した。

熱はない。体調も悪くない。


ただ、目に光がなかった。


朝の支度は、いつもより静かだった。

ランドセルも開いたまま、畳に置かれている。

ナツは布団の中で、天井を見つめていた。


俺は、すぐに察した。

――いじめだ。


俺自身、学校では誰とも話さない。

一人で登校し、机に突っ伏し、時間が来たら一人で帰る。

それでも、ナツだけは、そうなってほしくなかった。


「お兄ちゃん……大丈夫だから」


ナツは布団の中から言った。

俺を見送るために、無理に口角を上げた。


その笑顔が、怖かった。


家を出る時、胸がざわついた。

靴を履く手が、うまく動かなかった。

ナツのそばにいてあげたい。

それに、嫌な予感がずっと消えなかった。


学校では、授業の内容は一つも頭に入らなかった。

時計の針ばかりを見ていた。

早く終われと願いながら、同時に、帰りたくないとも思っていた。


その日は、寄り道せず、真っ直ぐ家に帰った。


玄関の前で、少しだけ立ち止まる。

中から、テレビの音が漏れていた。


扉を開けると、父は夕方から酒を飲み、テレビをつけたまま、ソファーに寝そべっていた。

散らかったテーブル。

床に散らばる空き缶。

そんなもの、ナツはすぐに片付けるはず。

嫌な予感が、確信に変わった。


無言で、二階に上がる。

階段が、やけに軋んだ。


二人の部屋の襖を開ける。


そこにいたのは――

目をぶす色に腫らし、腕も、足も、あざだらけのナツだった。


布団を胸まで引き上げ、声を殺して、静かに泣いていた。


「――ナツ!」


名前を呼んだ瞬間、ナツの肩がびくりと跳ねた。


俺は、ナツを抱き上げた。

軽すぎて、腕が震えた。


「どうして……何があった……?」


「お兄ちゃん、ごめんなさい……」


ナツは、俺の服を掴んだ。


「ナツね、チョコレート食べたくて……。一人で、全部食べちゃった……」


ナツの口元にはチョコの跡が残っていた。

 

それだけだった。

たった、それだけ。

 

「クッ……ナツ……」

 

俺はナツを胸に抱きしめ頭を撫でて泣いた。


殴られてどれだけ痛かったろう。

どれだけ怖かったろう。


拳に、力が入る。

肩が、勝手に震えた。


その様子を見て、父が怒鳴った。


「そのガキが悪いんだよ!百円もちょろまかして!チョコ買って、布団の中で食ってやがった!学校も行かねーで!言うこと聞かねーからだろが!」


こんな小さな子供が、チョコを食べるためだけに、どれほどの覚悟がいるのだろうか。

 

――ぜんぶ、こいつのせいだ。

――過去も真っ暗。未来も真っ暗。


父の声が、遠くなる。

代わりに、頭の奥で何かが軋んだ。


次の瞬間、何かが切れた。


正直、記憶はほとんどない。


気がついた時、父は床に倒れていた。


歯が何本も折れ、口から血を流し、動かなかった。


俺は、自分で通報した。

手は震えていたが、番号は間違えなかった。


救急車が二台来て、それぞれ、父とナツを運んでいく。


白いシーツに包まれたナツの顔を、俺は、ただ見ていた。


ナツの唇がかすかに動き、こちらに手を伸ばす。


「お兄ちゃん……」


そして俺はパトカーに乗せられる。


それが――

ナツを見た、最後の姿だった。


俺は、警察に連れて行かれた。


パトカーの後部座席は、思ったより狭かった。

両手は自由だったが、逃げ場がない感じがした。

窓の外の街は、いつもの帰り道なのに、まるで別の場所みたいだった。


警察署では、長い時間、待たされた。

硬い椅子。

白い壁。

時計の音だけが、やけに大きかった。


「落ち着いて、話してくれればいいから」


そう言われて、俺は何度も同じことを聞かれた。


いつ殴ったのか。

どこを殴ったのか。

誰かに相談したことはあるか。


俺は、聞かれたことだけを答えた。

余計なことを言う気力は、なかった。


途中で、ナツのことを聞かれた。


「妹さんは、今どうなっているか分かる?」


「分からない……」と答えた。

 

それは、本当だった。


その日の夜は、警察署の一室で過ごした。

布団はあったが、ほとんど眠れなかった。

目を閉じると、ナツの顔が浮かんだ。


翌日、家庭裁判所に送られた。


部屋は静かで、そこにいる大人たちは、みんな落ち着いた声で話した。


「あなたは十八歳ですから……」

「今回は、在宅での調査になります」

「妹さんについては、児童相談所が対応しています」


何を言われても、頭の中には、言葉が入ってこなかった。


聞きたかったのは、ただ一つだった。


ナツは、無事なのか。

それだけだった。


そして、聞かされる。

ナツは退院後、養護施設に行くことが決まったと。

行き先はまだ分からないが、おそらく今後、面会の許可は下りないだろうと。


数日後、俺は、家に戻された。


家は、静かだった。

あのソファーも、散らかっていたテーブルも、すべて、そのままだった。


ナツのいない部屋は、やけに広く感じた。

ナツの少ない荷物だけが、持ち出されていた。


俺は、畳の上に座り込んだ。


ナツを守れなかった。

来年、この家を出て、一緒に暮らそうと話したときの、ナツの笑顔が頭から離れなかった。


この先、どうなるのかは、まだ分からない。

ただ一つ分かっているのは、あの日を境に、俺の時間は止まったままだということだった。


父は、入院していた。

誰もいないこの家は、初めてだった。


俺は、恐る恐る父の寝室に入る。

居間よりも酷い、タバコの匂い。

何ヶ所も焦がされた畳の焼け跡。

枕元のコンビニ袋の中には、ツマミやチョコの空き袋が、いくつも詰め込まれていた。


俺は、そのゴミを、怒りに任せて父の布団にぶちまけた。


「――ふざけんな!」


そのまま、父の寝室のタンスの中身を部屋にぶちまけた。

居間の引き出しを床に叩きつけ、台所の食器を壁に投げつけた。


そして、そこにあった――

ナツの使っていた、小さなフォーク。


俺は、それを握り、小さく胸に抱いて、ただ泣いた。


「……ナツ……ごめんな……」


俺は父の寝室に戻り、荒らし、父が隠していた金を探した。


見つかったのは、五万円だけだった。

ナツのフォークとそれを握りしめ、家を出た。

 

バスに乗り、隣町の、さらに隣の大きな街へ。

フェリー乗り場に向かい、東京行きのチケットを買う。


顔も連絡先も知らぬ母が、東京に居ると噂に聞いたことがある。

ただそれだけが、東京をに向かう理由だった。


当てはない。

目的もない。


ただ、都会にはきっと何かがある。

田舎とは違う、何か救いがあるかもしれない。

そんな、漠然とした思いしかなかった。


――もう、あそこにはいられない……。


俺は、街を逃げるように、上京した。

 

 

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