1話《チョコレート》
田舎街だった。
駅前にコンビニが一軒あるだけで、夜になれば街灯の光が虫のように点々と浮かぶ。
ボロい賃貸の一軒家。
その二階の一室で、俺たちは暮らしていた。
俺――ユウタ。
高校三年生。十八歳。
腹違いの妹、ナツ。八歳。
そして、足の悪い父親。
俺は、自分の母親の顔を知らない。
ナツの母親の顔は知っている。
どちらも、父の暴力に耐えかねて、この家から消えた。
そのくせ父は、親権だけは頑なに主張した。
暴力と脅しで、俺とナツを囲い込むように。
生活は、生活保護だった。
狭い街の中で、俺たちは分かりやすい“異物”だった。
学校でも、近所でも、白い目で見られる。
家の外に、居場所はなかった。
高校に上がった頃から、俺は父とほとんど話さなくなった。
理由は単純だった。
俺の身体が、父より大きくなったからだ。
ある日、殴られた拍子に、反射的に父を突き飛ばしてしまった。
父は床に倒れ、しばらく起き上がれなかった。
それ以来、父は俺に手を出さなくなった。
代わりに――
その捌け口は、ナツに向かった。
「ナツー!降りてこーい!」
父の怒鳴り声が、階段を抜け、部屋に響く。
俺はナツを見る。
小さな身体はすぐに立ち上がり、襖に手を掛けた。
「ナツ、お兄ちゃんも一緒に行こうか?」
ナツは振り返らず、首を振った。
「大丈夫……それでまたお父さん怒るでしょ?」
「そっか……。気をつけてな」
ナツが階段を降りる音が、少しずつ遠ざかる。
父は夜中に、小銭を握らせて酒を買いに行かせる。
少し前までは、俺の役目だった。
コンビニでの年齢確認は、しない。
一度、お酒を売ってもらえず、そのまま帰宅したことがある。
父に殴られ、目を腫らし、もう一度買いに行かされた。
助けを求めるように、再びレジカウンターに酒を置いた。
そのまま会計され、袋に入れた酒を渡された。
俺ら一家には関わりたくないという、店員の意思表示だった。
父は家事をすべて押し付ける。
テレビの前の、敗れたソファー。
そこ以外にいるところを、ほとんど見たことがない。
少しでも言い返せば、怒鳴り、叩く。
でも今は、そのほとんどがナツに向けられている。
俺がナツを手伝おうとすると、父は鋭い眼光で睨みつけた。
まるで、お前はこの家に必要ないと言っているようだった。
身体の差があっても、俺は父が怖かった。
十八年間で刷り込まれた恐怖は、理屈じゃ消えなかった。
二十分ほどして、ナツが帰ってきた。
階段を駆け上がり、勢いよく襖を開け、そして、静かに閉じた。
「お兄ちゃん、これ!」
ナツは片手に、チョコレートを揺らしていた。
「ナツ……どうしたんだ、それ?」
「うんとね。お父さん、お釣りちゃんと見ないでしょ。お買い物行くたびに、十円ずつ盗ってたの。でね、今日、百三十円貯まったから買ってきた!」
俺は、何も言えなかった。
でも、ナツがここに無事にいるということは、まだバレていない。
「お兄ちゃん、早く!」
ナツは布団に潜り込み、俺もその隣に潜った。
板チョコを半分に割り、口に頬張る。
「……美味しいね」
ナツはそう言って、笑った。
その笑顔を見て、俺の心は、少しだけ和らいだ。
学校帰り、ナツはいつも近所の公園で俺を待っていた。
父と二人きりで家にいるのが、耐えられないのだろう。
しばらくブランコに腰かけて、二人で話す。
「ナツ、今日は学校で何かいいことあった?」
「んーーー」
ナツは空を見上げ、少し考える。
「ない!」
そう言い切りながら笑っているナツが、愛おしかった。
「ないのかぁ……残念。ないのに、なんで笑ってるんだ?」
「んーーー。何か良いこと、あればいいなぁって」
「そうだな……」
「お兄ちゃん、ハンバーグ食べたいね」
ナツは唇をぺろりと舐めた。
「そうだなぁ。お兄ちゃん、来年卒業して働き出したら、いっぱい食べさせてあげるぞ」
「ほんと? やったー!」
ナツは両手を空いっぱいに広げる。
「ナツ……来年、お兄ちゃんと一緒にあの家を出よう。部屋を借りて、お兄ちゃんと一緒に住もうな」
一瞬、ナツの顔が真顔になる。
そして、また笑った。
「うん!ナツのお茶碗とお箸も買う?」
「もちろん。ナツの新しい靴も、服も。あとフライパン買って、ハンバーグ作ろう。ナツの勉強机もいるな……」
ナツは足でブランコを止め、くたびれたランドセルからパンを取り出した。
「はい、お兄ちゃん。半分こ」
ナツは給食のパンを、いつも食べずに持ち帰ってきた。
俺に分けるためだ。
「ナツ……ちゃんと学校で食べろよ」
何度も言った。
それでもナツは、にこっと笑う。
「一緒に食べたほうが、美味しいでしょ」
「……そっか」
その言葉が、俺を救っていた。
同時に、縛っているような気もしていた。
小さな容器に入ったマーガリンを、交互につけてパンをかじる。
「あ……お兄ちゃん、つけすぎ」
「あー、ごめん。あとはナツが食べていいから」
ふたりは、陽が沈む直前までブランコを揺らした。
公園には、俺たち以外にも子どもがいた。
母親と並んで滑り台を滑る子。
ベンチでジュースを飲ませてもらっている子。
そのどれもが、別の世界の出来事みたいに遠かった。
ナツも、それを横目で見ていた。
じっと見つめるわけじゃない。
でも、視線は何度もそちらに流れていく。
「ナツ、遊具使いたかったら――」
言いかけて、やめた。
使いたいのは分かっていた。
でも、他の親子の中に、俺たちが混ざる勇気はなかった。
ブランコを漕ぐ音だけが、規則正しく響く。
その音が止まったら、現実が戻ってくる気がして、俺は足を地面につけなかった。
「そろそろ、帰ろうか」
「……うん……」
家に着くと、父のいるソファーの後ろを、物音を立てないようにすり抜ける。
些細なことで文句を言う父を、刺激しないためだ。
すぐに、父の声が部屋に響く。
「ナツー!飯、買ってこい!」
父はだいたいコンビニ弁当。
俺とナツは、だいたいカップラーメン。
ふたりで一食、三百円以内と決められている。
それでもナツは、笑顔で振り返った。
「お兄ちゃん、あと十回行ったら、またチョコ買えるね!」
「ナツ……もう、やめたほう――」
言いかけたが、また口を閉じた。
だからといって、俺には何もしてあげられない。
「……そうだな」
ナツは首を傾げ、微笑んで、階段を降りていった。




